第105話 少年魔王と湯煙の戦い
ネザクは、早くも後悔し始めていた。
エドガーの言う聞こえのいい言葉に惑わされたのが、そもそもの失敗だった。
一時は熱に浮かされたように『作戦行動』に参加していたネザクが、そんな風に悔恨の念に苛まれ始めたのは、『迎撃部隊』の存在に気付いてすぐのことだった。
今やネザクには、霊戦術系の探知魔法もお手の物だ。『幻の霊蝶メメト』のような偵察用の『魔』の群れに魔力を憑依させることで、それこそこの山地一帯の情報を知ることだって不可能ではない。
しかし、女性陣は全員が全員、温泉に入っているわけではなく、数人が温泉の周囲を動き回っている様子が感じられた。状況から言って、彼女らは『覗き』を予期し、それを防ごうとしているに違いなかった。つまり、今のネザクは彼女らに見つかれば、『青春』もへったくれもない、ただの『覗き魔』なのだ。
「……うう、僕、何をやってたんだろ」
しかし、気付いた時はすでに遅し。もともと直情傾向なエドガーが欲望に冷静さを失っていたことに加え、ネザク自身もこの『驚愕の新事実(?)』に気付いて動揺していたのがまずかった。
「……あきれたわ。エドガー君はあり得るとは思っていたけれど、まさかネザクくんまで……」
蜘蛛の糸に囚われた昆虫たち。否、二人の少年を白髪の少女が半眼で見上げている。
「お、おい、ネザク。お前ならこんな糸、簡単に切れるんじゃないのか?」
エドガーの切迫した言葉を聞きながら、ルヴィナは一歩、また一歩と彼に歩み寄ってくる。
「無駄よ。確かにネザクくんなら、たかだか戦術級の『魔』が使う捕縛の糸ぐらい切れるでしょうけどね」
「や、やっぱり……ほら、ネザク!」
ルヴィナの言葉に一縷の望みを見出したエドガーは、ネザクを急き立てるように声を荒げる。
しかし、ルヴィナは全く焦った様子も見せず、ネザクへと顔を向ける。彼女の手の先には、霊界第十六階位の『魔』、凶兆の蜘蛛ラストホープの糸がある。ルヴィナは手から伸びるソレを手繰り、二人の少年を自分の目の前まで引きずりおろした。
「でも、ネザクくんは……そんなことしないわよね?」
にこやかに、ネザクへと笑いかけるルヴィナ。しかし、ネザクは、そんな彼女の瞳の奥に、有無を言わせぬ無言の圧力を垣間見た。
「ご、ごめん……、エドガー。僕、無理」
「お、おい? まじかよ?」
最後の希望。その糸は、あっさりと切れる。エドガーは何とかネザクの翻意を促そうと声をかけ続けるが、それがまずかった。『もう一度頑張ろう』、『俺たちの青春のため、成功を誓い合った仲じゃないか』などと言った諸々の説得は、ここに至るまでの経緯を如実にルヴィナに教える結果となったのだ。
「……ふうん。やっぱりね。おかしいと思ったのよ。あなたがネザクくんを悪い道に引き込んだのね?」
のっぺりとした感情のない瞳が、エドガーに向けられる。虚無の光を銀の瞳に宿した彼女の迫力は、先ほどのネザクに対するものとは比較にならない。
「うひ!? ひいい! 怖い! 怖い怖い! ルヴィナ先輩が滅茶苦茶怖いいいい!」
引きつった顔で恐怖の悲鳴を上げるエドガー。「ああ、俺、死んだな」という想いだけが頭の中を埋め尽くし、今までの人生の想い出が走馬灯のように浮かんでは消えていく。しかし、最近の想い出の多くが、三歳の王女様に虐げられている映像やルヴィナに折檻されている映像だというのが何とも悲しかった。
ところが、である。ルヴィナは何を思ったか、エドガーの方には向かわず、ネザクへと近づいていく。
「う……あ、ご、ごめんなさい」
ネザクもまた、泣きそうな顔で許しを乞う。十万匹の月獣を鎧袖一触に蹴散らした魔王様は、十代半ばの一見してか弱そうな少女に対し、心の底から恐怖していた。
何が怖いと言って、彼女の無表情ぶりが怖い。リゼルのように感情そのものが希薄であるがゆえの無表情ではなく、行き過ぎてしまった感情が却って表情を削ぎ落してしまったかのような顔。彼は生まれてこの方、そんなものを見たことがなかった。
「……ネザクくん?」
「は、はい……」
ほとんど目と鼻の先にまで顔を寄せられて、ネザクは震える声で返事する。そんな彼の顔に、ゆっくりと少女のたおやかな手が伸ばされ、そして……
「……めっ!」
つん、と額を小突かれた。呆気にとられるネザクの前で、少女ルヴィナは両手を腰に当て、顔を前に突き出すようにして彼の目を覗き込んでいた。
「これに懲りたら、もうこんな変態の言うことなんか聞いちゃ駄目よ?」
「え? え?」
意味が分からず、目をぱちくりとさせるネザク。ルヴィナは微笑しながら、彼の頭に手を置くようにして語りかける。
「いい? 良く聞いてね。…………変態にはね、人権なんて無いの。つまり、『どんな目』に遭わされても文句は言えないのよ?」
ルヴィナの周囲には、血に錆びたギザギザの刃物のような物体が浮いている。
「ちょ! ルヴィナ先輩?」
「変態は黙ってて。わたしはネザクくんと話をしてるの。……で、ネザクくんは、そんな変態になりたいのかしら?」
そんな問いかけをされれば、答えは決まっている。ネザクはぶんぶんと首を振り、震える声で答えた。
「なりたくないです」
「うん。良い返事ね。いい子いい子」
ルヴィナは満面の笑みを浮かべ、ネザクの頭を撫でさする。
「く、くそ! ネザクの奴。この裏切り者!」
「ごめん、エドガー。僕、やっぱり、自分が可愛いんだ」
「お前なんか親友じゃねえええ!」
エドガーは絶叫する。
「うるさいわね。順番待ちも静かにできないの?」
「じゅ、順番って……もしかして、俺のことも『めっ』てしてくれるんですか?」
エドガーは何故か期待に満ちた目で問うが、返ってきたのは蛙を見下ろす蛇のような視線だった。
「そうね。『眼っ!』ならしてあげるわよ?」
両手の人差し指を顔の両脇に掲げ、小首を傾げてにっこり笑うルヴィナ。
「可愛い……けど、それ絶対字が違う!」
「……ご、ごほん。……さて、覚悟はいい?」
珍しく調子に乗ってしまったことが恥ずかしかったのか、ルヴィナは頬を赤らめて咳払いする。だが、彼女の周囲に浮かぶ刃物は、何らかの『魔』の力なのだろう。ざわざわと不穏な気配を醸し出しながら、少しずつエドガーへと接近してきていた。
「く、くそ! こうなったら、もうヤケだ! 徹底的にやってやる! ついでにネザク! 裏切り者にも同じ目に遭ってもらうからな!」
破れかぶれに叫ぶエドガーは、ここでようやく己の『奥の手』を披露した。
固有技能『黒糸夢爪』。見えにくく加工された糸に己の血を染み込ませ、指先さえほとんど動かさず、鋭い糸で敵を斬り裂き、丈夫な糸で敵を捕縛する技だ。
風切音と共に蜘蛛の糸は切断され、そして同時に、ネザクの身体に糸が巻きつく。意表を突かれたネザクが反応する暇さえ与えないまま、エドガーは全力で糸を振るった。
「いっそのこと、この世の天国を見てきやがれ! その後、地獄でたっぷり感想を聞かせてもらうからなああ!」
「う、うわ! うわあああ!」
空高く、放り投げられるネザク。その放物線が描く先には、少女たちが浸かる大浴場があった。
「あ! エドガーくん! 貴方、なんてことを!」
「ぎゃああああ!」
ルヴィナが慌てて魔法を発動させ、エドガーに『お仕置き』が加えられ始めるが、時すでに遅し。ネザクの身体は、盛大に湯船の中に落ちていた。
──時を遡ること少し。
カグヤがアズラルの襲撃を告げて、迎撃に向かった後のこと。『女湯』には、どことなく気まずい雰囲気が漂っていた。その中心にはもちろん、彼の妻であるアリアノートがいる。
「……やっぱりだ。彼はわたしの身体では満足できず、だから……ああやって他の女の身体に興味津々になってしまうんだ」
いじけたように自らのささやかな胸を押さえつつ、呟きを続けるアリアノート。そのあまりに生々しい言葉に、周囲の少女たちは顔を赤らめ、お互いに顔を見合わせている。唯一の例外はリゼルだけだ。
「え、えっと……アリアノート様? 確か捕虜にされていたアズラル先生と再会した時、彼に胸のことを言われて激昂していませんでしたかしら?」
どうにか話題を変えようと、リリアが躊躇いがちに尋ねる。しかし、アリアノートは小さく首を振った。
「そ、それ仕方ないだろうが。彼ときたら……本当は大きな胸が好きな癖に、『小さい胸の君でも好きだよ』なんて言葉を皆の前で言うのだ。恥ずかしかったに決まっているさ」
「ええっ!?」
エリザとリリアの声が揃う。彼女の言葉は曲解もはなはだしいが、それよりなにより、あの時のことは、単なる『照れ隠し』だったとでも言うのだろうか。
「で、でも……アズラル先生、泡を吹いて死にかけてたよね?」
「エリザ。気にしては負けですわ。……あの変態。命がけで自分の道を貫いてましたのね……」
もはや呆れを通り越して、感心したようにつぶやくリリア。とはいえ、ますます意気消沈していくアリアノートを放置もできない。彼女はどうにか言葉を探し、慰めの声をかけ続ける。
「む、胸の大きさだけが女性の魅力ではないのではないですか?」
「……ふん。持たざる者の気持ちなど、持てる者にはわからないだろうさ」
達観したような言葉を吐くアリアノートだが、その台詞は星界でも唯一のハイエルフとして生まれつき他者と隔絶した魔力を有し、希少種ゆえに周囲から丁重に扱われ続けた彼女にこそ、向けられるべきだろう。
「うう……処置なしですわ。……後はエリザ。貴女だけが頼りですわね」
「え? どうしてあたしなのさ?」
いきなり話を振られ、不思議そうな顔で問い返すエリザ。すると、リリアの視線がわずかに下へと向けられる。
「…………」
「…………」
何とも言えない沈黙が場を支配していた。次第にエリザの頬が赤く染まり、その身体が小刻みに震えはじめた。
「リリア……?」
「え? あ、い、いえ……! わたくしは、そんなつもりでは……」
怒気に染まった目を向けられ、自分の視線の位置に気付いたリリアは、慌てて首を振る。だが、とどめの一撃は別の人物からもたらされた。
「そう! わたしの気持ちがわかるのは君だけだよ、エリザ!」
「う、うわああああん!」
アリアノートにぱしぱしと肩を叩かれたエリザは、やけくそ気味に叫ぶと、そのまま猛烈な勢いで泳ぎだした。
「あーあ。拗ねちゃったね」
シュリはそんなエリザを目で追いながら、けらけらと能天気に笑っている。広大な浴場を泳ぐ彼女の姿は、やがて湯煙の中に消えてしまった。
──がむしゃらに泳ぎ続けていたエリザではあったが、この浴場の湧出場所に近づいてしまったせいか、少し熱さを感じ始めていた。
「……ふう。ちょっと休もうかな」
泳ぎをやめ、一息つくように立ったエリザは、つるりと自分の身体を撫でる。若干ではあるが、同年代の他の少女より発育が遅れているかもしれないと思うことはあった。しかし、それはあくまで個人差のレベルだ。普段なら気にするようなものではない。
「……でも、あんな風に言われちゃうとなあ」
らしくもなく、ため息をつくエリザ。
「……まだまだ、成長の余地はあるよね?」
一人、自分に言い聞かせるようにつぶやく。泳いだせいでずぶ濡れとなった真紅の髪を軽く掻き上げ、それから、身体をほぐすように大きく伸びをした。と、その時だった。
斜め上方を見上げる姿勢となったエリザの目に、何かが映る。それは、次第にその大きさを増していき、やがて、彼女のすぐ傍に水音と共に墜落する。
「な、なんだ!?」
あまりのことに呆然と立ち尽くすエリザ。湯煙が晴れた先に、湯の中で尻餅をつく一人の少年の姿がある。
「いたた……。酷いよ、エドガー」
湯に濡れて肌にまとわりつく衣服を気にしながらも、ネザクは顔の飛沫を払い、周囲を見渡す。……否、見渡そうとしてあるものに気付き、動きを止めた。
「………………」
真っ白な少女の裸身。未成熟ながらも艶めかしい曲線を描く身体は、瑞々しく吸いつくような肌に水滴をまとわせ、神秘的な美しささえ醸し出している。
ネザクは、エドガーが彼女らの身体を指して、『芸術作品』に違いないと言っていたことを思い出す。性的なものより先に、純粋な美しさに息を飲む。
しかし、目の前の少女は生身の人間だ。ほんのりと色づく白い肌に映えるのは、真紅の髪。同じく水に濡れたその髪は、少女のうなじにしっとりと絡みつき、えも言われぬ色気が滲み出ているようで、ネザクは思わず唾を飲む。
「う、あ、あ…………」
身体を隠すことも忘れ、顔を真っ赤にして震える少女。目には涙が溜まっている。
「あ、いや、これは、その……ち、違うんだ。エドガーが……」
違うんだと言いながら、ネザクはエリザの裸身から目を逸らすことができない。そして、エリザが大きく息を吸い込む。
「……駄目だこれ。僕、死んだよね」
死を覚悟するネザク。しかし、事態は彼の予想外の方向に進む。
「ぎにゃあああああああ!」
たまげるような奇妙な悲鳴を上げ、エリザは腕で胸を覆い、湯の中にざぶんと身体を隠すように沈めた。
「もういやだあああ!」
わんわんと泣き始めるエリザ。ネザクはあまりにも意外な展開に、呆然と固まったまま、彼女を見つめる。
と、そこへ騒ぎを聞きつけて他の女性陣が集まりだしてきた。
「エリザ? 大丈夫ですの?」
最初に姿を現したのは、白金の髪を結い上げた蒼い瞳の少女。当然のごとく裸身をさらしている。
「わ、わわ……」
エリザのものとはまた違う、天使か妖精を思わせる造形美を前にして、ネザクはますます硬直してしまう。
「え? ネ、ネザク……くん?」
呆けたように、リリア。
続いて現れたのは、リゼルだった。
「大丈夫ですか、エリザ。それに、ネザクも」
ネザクの姿を見つけても、彼女だけはまるで構わず裸身のまま、尻餅をつく彼を助け起こそうと近づいてくる。
「うわあ! ス、ストップ! 駄目だよ、リゼル! それ以上、来ちゃ駄目!」
慌ててネザクが彼女を制止したところで、シュリとアリアノートが駆けつけてくる。無論、二人とも同じく一糸まとわぬ姿をさらしていた。
「どうしたにゃん?」
「何事だ?」
「あう、あうあう……」
状況は、すでに限界に達していた。全裸の女性五人に囲まれるなど、ネザクには刺激が強すぎる。最初から勝ち目のない戦いだった。少年魔王はくらくらと頭を揺らし、そのまま湯の中に倒れ込むように意識を手放したのだった。
──それから。
「にゃにゃ! 覗き魔にゃ!」
「……これは一体、どういうことかな?」
脱衣場として利用している岩場の陰で、ネザクは女性陣に囲まれ、正座している。そんな彼に尋問を続けているのは、今も比較的冷静なシュリとアリアノートの二人だった。
「うう、だからその、僕は投げ込まれただけで……」
どうにか言い繕おうにも、ならばどうして『女湯』の傍まで来ていたのかという話になれば、言い訳などできはしない。
「……あらあら、ネザクも『男の子』だったのね」
意地悪そうにそう言ったのは、つい先程、五英雄の一人をぼろ雑巾へと変えた後、入浴を楽しみに来たカグヤだ。
「ち、ちが……」
自分の姉にそんな目で見られるのが一番恥ずかしい。ネザクは身の置き場のない様子で、もじもじと身体を揺すっている。
一方、エリザは依然としてショックが抜けきらず、リリアが傍に寄り添って慰めてやっていた。
「うう……どうして、あたし、こんな目に……」
「エリザ。しっかりなさいな。少しくらい見られたところで減るものじゃありませんわ」
「こ、これ以上、減ってたまるか!」
涙目で叫ぶエリザに、やれやれと息をつくリリア。彼女とてショックが無かったわけではないが、自分以上にこうして落ち込んでいる人間がいると、自分は落ち着いてしまえるから不思議なものだ。
「ご、ごめん。エリザ。ごめんなさい。みんな……。僕、僕……本当に悪かったって、思ってます」
叱られた子犬のような目で見上げてくるネザク。
「う…………」
エリザを除く全員が、思わず頬を緩めてしまいそうな可愛らしさだ。
「……へくちっ!」
濡れた服のまま正座をさせられているせいだろうか。ネザクが小さくクシャミをする。するとそこに、すかさず二人の少女が駆け寄る。
「いけないわ。そのままじゃ風邪を引いちゃう」
「よし、ネザク……」
双子姫は、よだれを流さんばかりの顔でネザクの両腕を掴みにかかる。
「え? え?」
「お洋服を……」
「脱ぎ脱ぎしましょうね?」
「え? ちょ、ちょっと!?」
叫ぶネザク。どうにか腕を振り払おうと試みるが、そんな彼を後ろから押さえつける少女が一人。
「リゼル? 君まで!?」
「風邪は良くない。わたくしは、手伝おう」
「ええ!」?
彼女の後ろで黒の魔女がくすりと笑う。やはりカグヤの差し金らしい。
「……まあ、これくらいのお仕置きは必要よね。うふふ! ついでにあなたがどこまで『成長』したか、たっぷり見せてもらおうかしら?」
「うわああ! いやだああ!」
嫌がる少年に群がる少女。
エリザとリリアの二人だけは、さすがに赤面して後ろを向いたものの、最後の不埒者への『お仕置き』は、彼が泣いて許しを乞うまで続いたのだった。
次回「第106話 少年魔王と大国の姫君」




