第99話 後発部隊と獣の大地
黒霊賢者アズラルの操る黒鳥に乗って学院都市を後にしたのは、アズラル、アルフレッド、カグヤ、アリアノートの四人だった。
学院を巡る情勢は、落ち着いているとは言い難い。これだけのメンバーが出払うとなると学院自体の護りに不安が残るところではあるが、その役目は意外な人物が担うことになった。
「今回はイリナとキリナに、学院の留守を預かるよう言われてるのよ。うふふ、霊戦術の使い手であるわたくしなら、外敵への備えは十分だと言うことらしいけど……あの子たちも背伸びしたい年頃なんでしょうねえ」
理由を尋ねたアルフレッドに、温和な笑みでそう応じたのはアクティラージャだ。それを見て、アリアノートが驚きに目を丸くする。
「な、なんというか……君は最初に出会った時に比べて、随分と変わったんだな」
最初に出会った時。それは『蒼季』の禁月日のことだ。今の彼女は、その時、学院生を拷問にかけようとしていた『魔』と同一の存在とは、とても思えない。
「……ネザクのせいでしょうね。『何もない』あの子の傍で、あの子を何度か染めあげているうちに……わたくしは、この星界を蒼く染めあげたいなんて想いが、いかに馬鹿げたものだったのかを知ったわ」
『魔』の本能でさえ塗り替える、ネザクの本質。それこそが霊賢王をして、危険と言わしめたものなのだろう。遠い目をしてつぶやくアクティを見て、一同は信用しても問題ないだろうと判断したのだった。
──彼らが最初に辿り着いた戦場は、ネザクとエドガーが戦っているグランバルド要塞都市だった。同じルートを飛んでいるのだから当然だが、眼下に広がる凄まじい惨状に、アルフレッドは驚愕の呻き声を洩らす。
「恐ろしいことになっているね……」
「なんなの、あれ?」
カグヤは視界を染めるただ一つの『色』を前にして、小さくつぶやく。
──赤、赤、赤。
それは、視界を覆い尽くすように広がる血の海だった。その『水源』となっているものは、十万匹はくだらないだろう──おびただしい数の月獣たち。紅き平野の中心では、一人の少年が今もなお、そんな月獣の群れを打ち砕き、吹き飛ばし、叩き潰している。
「……発動、《天魔法術:無月の爆撃呪法》」
疲れた顔で術を唱え、周囲の月獣を吹き飛ばすネザクに対し、カグヤが黒魔術による念話をつなげる。
〈ネザク? 聞こえる? 大丈夫なの?〉
〈え? カ、カグヤ? 来てくれたんだ……。うん。実はちょっと相談したいことがあるんだ〉
ネザクの声には、わずかながら疲れの色が滲んでいる。
〈相談? 何かしら?〉
〈うん。……もう何万匹かはやっつけたはずなんだけど……こいつら……全然数が減らないんだよね。さすがにうんざりなんだけど……カグヤならどうしたらいいか、わからない?〉
その声を聴いて、アズラルは呆れたように肩をすくめる。普通なら、うんざりどころの話ではない。
たとえば、彼の妻であるアリアノートだ。この星界で彼女しか使えない『最強の攻撃魔法』であれば、それこそ数万匹の月獣をまとめて滅ぼし尽くし、眼下に広がっているような血の海を生み出すぐらいのことはできるかもしれない。だが、そんな彼女でも、その一撃で魔力が底をつくだろう。少なくとも、このように余裕で戦い続けてなどいられないはずだ。
一方のカグヤは、自分で自分の考えを整理するように言葉を続けている。
〈……そうね。これが『血染めの力』の影響だとするなら、『心象暗景メイズフォレスト』と同じなのかもしれないわ。元を断たないと無理なんじゃないかしら〉
〈あ……そっか。そうだよね。すっかりそのことを忘れてた……。じゃあ、エリザたちが何とかしてくれるまで、頑張るかな……って、うわわ!〉
〈ネザク!〉
その変化は、突然起きた。大地に流れる真っ赤な血だまり。それが急に生き物のように動き出したのだ。ぼこぼこと泡を立て、寄り集まり、次第にあるものの形へと変化していく。
「なんだ、あれは? 大蛇……なのか?」
とっさに弓を構えるアリアノートの眼前で、血の海から巨大な蛇が鎌首をもたげはじめる。だが、変化はそれだけではなかった。城を攻めたてている一部の月獣たち。そんな彼らの身体がバキバキと音を立てて、別のものに変わっていくのだ。
「……うーん、どうやらカグヤの言う通りみたいだな。あの連中、一匹残らず獄界の『魔』そっくりの外見だぞ」
「そう言われてみれば……あの大蛇も……伝承にある獄界第四階位の剛鱗蛇王レヴィアタンの姿かもしれないな」
アズラルとアリアノートの口調は比較的落ち着いているが、実のところ、これはかなり不味い事態だと言えた。月獣と『魔』では、強さが比べ物にならない。ネザクはともかく、城塞都市の護りはかなり厳しくなるだろう。
〈……ネザク! 城から離れ過ぎよ!〉
カグヤがそう呼びかけると、ネザクから意外な言葉が返る。
〈え? お城? ……あ! それも忘れてた!〉
〈……城のことを忘れてた、ですって?〉
〈あ……そ、その……〉
急に低くなったカグヤの声音に、ネザクは思わず首を縮こまらせる。
〈はあ……やっぱりね。ネザク、後でお姉ちゃんと、じっくりお話ししましょうね?〉
黒鳥の上で呆れたように首を振るカグヤ。
〈ち、違うんだよ。僕はその……みんなに強いところを見せたくて……〉
〈言い訳は後で聞くわ。……仕方ないわね。城はわたしたちが護るから、あなたはその場所でできるだけ敵を抑えておいて。それと……余裕ができたら何体か『魔』も召喚しておくこと! いい?〉
〈う、うん〉
ネザクの前に巨体を表した大蛇の周囲には、未だ無数の月獣がひしめいている。さすがに少年魔王でも、この状態で城の防衛にまで手を回すことは困難だろう。
カグヤは内心で溜め息を吐きつつも、アズラルに城塞へ向かうよう伝えた。しかし、アズラルは、懸念の言葉を口にする。
「……それはいいけど、困ったね。僕が収集した情報では、他にも月獣の脅威にさらされている都市は多い。特に首都ヴァルハラの状況は、ここに負けず劣らず深刻だ。エリザたちなら期待してもいいだろうけど、それまで手をこまねいていれば、被害は大きくなるばかりだよ」
目の前の城塞の危機はわかるが、今やこのバーミリオンは、国土全体が獣の災厄に見舞われているのだ。
「……なら、ここは俺が護ります」
「君一人で、かい?」
「ええ」
「この敵の数だ。いくら君でも危険だよ?」
「危険が無い戦いなんてありませんよ。それに移動手段と情報収集能力に長けたアズラルさんは、他の場所に向かうべきです。それに敵が『魔』に近い存在なら、『星具』のある俺の方が向いているはずです」
「だが、それならわたしも残った方がいいだろう?」
しかし、アルフレッドはそんなアリアノートの提案にも首を振る。
「いや、君の力は別の場所で必要になるはずだ。月獣のような連中が相手では、広範囲な黒魔術も決定打にはなりにくいしね」
「まあ、そうかな?」
理路整然とした言葉を口にするアルフレッドに、アズラルは仕方がないとばかりに頷きを返す。だが、納得のいかない顔で口を挟んだのは、カグヤだった。
「何だかんだと理由をつけているけど、またそうやって一人で問題を背負い込む気? あんたって……何回言えば分るのよ」
カグヤの声は酷く冷たい。
「いや、今回は一人じゃないさ。城塞の皆と協力して戦うからね」
「どうかしら。そんなことを言って、一番危険な場所に一人で飛び込んだりするんでしょう? 命を粗末にするのも、いい加減にしてほしいわね。見ていて苛々するわ」
「……俺は、自分の命を粗末になんか、したことはないよ。ようやく君に再会できたんだ。俺は断じて、こんなところで死ぬつもりはない」
「…………」
少し前までのカグヤなら、こんなアルフレッドの言葉には、それこそ猛反発していたに違いない。どの口がそれを言うのかと、激怒していたことだろう。
──だが、このとき。
カグヤは、『星霊亭』の席上でエリザと交わした会話のことを思い出していた。
「……あたしは、アルフレッド先生が自分の命を犠牲にしようとしてたとは、思わないけどな」
カグヤが『黒の教団』に襲われ、アルフレッドがそれを助けようと瀕死の重傷を負った時の出来事を聞いたエリザは、開口一番、思いもしない言葉を口にした。
「何を言ってるのよ。あいつが自分で言ったのよ? 『君を助けるためなら、死んでもいい』とかなんとか……」
犠牲になられる側の気持ちがわからない、酷い言葉だ。
カグヤはあの時の彼の言葉を、そう捉えていた。しかし、エリザは笑う。
「あはは! でも、カグヤ先生。あたしは思うんだけど『君を助けるためなら死んでもいい』って言葉……実はすっごく熱烈な愛の告白だと思わないかな?」
「え?」
虚を突かれたように漏れる声。エリザが何を言っているのか、わからない。
「よく物語とかでさ……『自分の命よりも君のことが大事なんだ』って言葉が出てくるけど……普通、それぐらい大事な人がいるんだったら、なおさら死にたくなんてないはずだよね」
「……何が言いたいの?」
「うーん……よくわかんないけど……きっとアルフレッド先生は、生きてカグヤ先生と一緒にいたかったから、命を賭けてでも戦ったんじゃないかな?」
「……見ていたわけでもない割には、わかったようなことを言うわね」
思わず、斬りつけるような厳しい言葉が口から出ていた。カグヤは、自分の声が冷たくなっていることを自覚する。
「……そんなに怖い顔しないでよ。あたしだって、適当に言ってるわけじゃないよ。実際、先生が口癖みたいに言ってた言葉があるんだ」
「………」
「『自分の死を覚悟して戦うような人間には、何かを守ることなんて絶対にできない。自分の生を諦めず、それでも大切な誰かのために命を賭けることができる人間だけが、未来を手にすることができるんだ』ってね」
「生を諦めず、誰かのために命を賭ける……」
カグヤの脳裏には、あの日、ボロボロに傷つきながら、何度も立ち上がり続けた少年の姿が浮かんでいた。
「愛されてるよね、カグヤ先生」
エリザはそう言いながら、悪戯っぽく笑いかけてきたのだった。
──気づけば、カグヤは己の頬の熱さを自覚したまま、城塞へと飛び降りるアルフレッドの姿を見送っていた。
「まあ、アルフレッドは単独で戦うより、仲間と力を合わせて戦うことに秀でているからね。だからこその『世界最高の英雄』なんだし、心配はいらないよ」
アルフレッドが周囲に群がる飛行型の『魔もどき』を撃ち落とすのを確認し、アズラルはカグヤとアリアノートを乗せた黒鳥を素早く旋回させた。
──エリザたちが廃墟と化した街を立ち去った後、イリナとキリナの二人は、銀翼竜王の背に乗り、一万匹を超える月獣の群れと対峙していた。
「とにかく、少ない炎でできるだけ多くの敵を効率的に焼きましょう」
「ああ、そうだな。だが、都市を守れなければ意味がない。防衛線は設ける必要があるだろう」
俗に『消えない炎』と呼ばれるリンドブルムの特異能力──《経年烈火》。しかし、もちろん、永遠に消えないわけではない。込められた魔力が底をつき、補充が為されなければ、その時点で消滅する。
そのため、リンドブルムの能力を最大限に生かすためには、常に術者が『真月』を供給し続けてやる必要があった。
ネザクに召喚されただけのリンドブルムは、並の術者によるものよりは優れているとは言え、自然顕現のアクティと比較すれば、補充する『真月』を魔力として行使する効率は良くない。母のように限界を超える同調率を発揮できればともかく、今の二人にはそこまでの力はなかった。
「でも、やるしかない」
「うん。二人なら、できるはず」
別れ際にネザクからかけられた信頼の言葉を胸に、双子姫は銀翼竜王を駆り、獣の群れを焼き払い続ける。だが、彼女たちは失念していた。月獣の中にも飛行能力を持つタイプがいるということを。
「きゃあ!」
地上に気を取られている隙をつくように、上空から鉤爪を振るう月獣たち。イリナとキリナの二人が抱く強い信念──闘争心を感知し、新たにやってきた一群だった。
「イリナ! 大丈夫か?」
「うう……かすめただけよ」
血のにじむ肩口を押さえ、うめくように言うイリナ。月獣の中には爪に毒を持つタイプのものもいる。先ほどの敵がそうであるかは不明だが、不安要素がさらに増えてしまったことは間違いない。
「もう一体、召喚しよう」
「でも、それじゃリンドブルムの制御が……」
「やるしかない。あいつらを近づかせないようにするなら……第十七階位の翼竜ぐらいでないと厳しいだろうけど……」
「マイアドロンを? ……ふふ。禁術級と同時に戦術級を操るなんて、ネザクみたいね」
「ああ、そうとも。弟にできて姉にできないことなどないぞ。……わたしたちは二人だ。なら、二体同時の制御だってできるはず」
「わかったわ。やりましょう」
双子姫は決意と共に、幻界へと呼びかける。
「白き月より落ちる影。我が頭上に舞え。軽やかに空を駆け、自在に風を駆る翼竜。顕現せよ『マイアドロン』」
唱和する声。純白の光と共に現れる翼竜。だが同時に、双子姫にも一気に強い負荷がかかる。
「う、くう……!」
「か、かかれ!」
辛うじて発した号令に従い、翼竜は双子姫をつけ狙う月獣たちへと襲いかかる。
──その頃、エリザたちはようやく、目的の『修羅の演武場』の姿を視界に捉えていた。
「……血染めの大地」
ただ一人、自力で空を飛びながら、リゼルがつぶやく。だが、一行が翼竜の背から見下ろす景色は、カグヤたちがグランバルドの平野で見たような『大量の血液に染まる大地』などではなかった。
「なにあれ? 地面が動いてる?」
「き、気持ち悪いですわ……」
エリザが指差し、リリアが口元を押さえながら見つめる先。そこにあるのは、『大地』ではなかった。目で見たままの質感を言うならば、それは『肉』だ。真っ赤な血の色をした肉。ぶよぶよと蠢き、不気味にうねるその表面に無数の月獣のようなものが立っている。
「……一応、防御用の設置型白霊術、を使っておくか?」
「お願いします」
ルーファスの提案に、わずかに顔色を青くしたまま、ルヴィナが頷く。
見た目の気持ち悪さ以上に、その光景には圧倒的で禍々しい迫力を感じてしまう。まるで、自分たちが巨大な肉食獣──『捕食者』の前にいるかのような──もっと言ってしまえば、すでにその体内に飲み込まれてしまっているかのような、絶望的な感覚さえあった。
「イデオンさんがいるとすれば……あの建物の中だよね」
「エ、エリザ……」
この状況でなお、そんな言葉を口にするエリザに、リリアは思わず呼びかける。だが、後が続かない。いかに銀牙の獣王と言えど、これでは生きているはずがない。そんな言葉を寸前で飲み込んだ。
リリアが見つめる真っ赤な髪の少女の横顔には、強い決意と闘志がみなぎっている。
「さあ、行こう。あたしたちがイデオンさんを、この国を、助けるんだ!」
手に真紅の水晶剣を掲げ、エリザは気勢の声を発する。
「おう!」
その声の力強さに、一同は勇気を取り戻したかのように叫ぶ。
──空を飛ぶ鳥。その背の上には一人の人物。彼女は学院の誰にも告げず、ただ一人、災厄に見舞われた故郷へ向かっていた。
「あーあ。故郷なんて、とっくに捨てたと思ってたのになあ……」
彼女は一人、つぶやきを洩らす。遥か先の国境の向こう側に見えてきた荒野は、彼女にとっては慣れ親しんだ故郷の光景だ。だが、同時に『狭間の子』として仲間からも蔑まれていた自分の過去を思い出すような光景でもある。
しかし、そんな故郷が『獣の災厄』によって滅亡の危機に瀕している。そう聞いた瞬間、気付けば彼女は行動に移っていた。
旅装を整え、怪鳥を呼び寄せ、その背に乗って一路南へと飛ぶ。行くあてがあるわけでもない。金虎族は、辺境を転々として暮らす一族だ。希少な一族の血を絶やさぬため、外部に対して閉鎖的な習慣を持つ彼らの居場所は、今の彼女にはわからない。推測はつくが、それを探し当てたいとは思わなかった。
「とにかく、バーミリオンに行こう。……故郷の連中なんて、どうなっても知らないけど……でも、自分の国が無くなっちゃうのは寝覚めが悪いもんね」
内心で微妙な言い訳をしつつ、金虎族の少女シュリは、一路、故国を目指すのだった。
次回「第100話 英雄少女と獄獣王の鎧(上)」