第96話 大人の事情と子供の目的
獣人国家バーミリオンへ向かうにあたって、学外任務の形を整えようという試みは、結局のところ徒労に終わる。だが、それは手続きの不備や偽装の失敗によるものではなく、もっと単純で、予想外の理由によるものだった。
ルーヴェル英雄養成学院の学院長室では、学院の経営を実質的に取り仕切る三人が顔を揃えていた。
「……バーミリオンから救援要請が来たって?」
「はい。既に数日前には、かの国の使者が王都に到着していたそうです」
アルフレッドの問いかけに、例のごとくエルムンドは淡々と言葉を返す。
「で、王都から僕らに出撃命令が来たってわけか」
「はい。……魔王ネザクは必ず出撃させよとの厳命です」
「まあ、そうだろうね……」
アルフレッドは苦い顔をして唸る。エレンタード王はかつて、式典の中でネザクに己の面目を潰されている。だが、それを恨んでの命令ではないだろう。王にとって重要なのは、『この命令にネザクが従った』という事実なのだ。
「どうしたものかな?」
「従わざるを得ないでしょう。逆に考えれば、正式にネザクをこの学院の生徒として認めさせるいい機会ではあります」
アルフレッドの問いに答えたのは、エリックだった。
「問題はクレセントの対応だけど……」
「この際、気にしても仕方ないでしょうよ。少なくともネザクの奴は行く気満々なんです。止めたって聞かないでしょう」
「……まあ、それもそうか。でも、これで俺自身も心置きなく出撃できるってものだよ」
アルフレッドがそう言うと、エルムンドが深々と息をつく。
「……わたしもアルフレッド様が学院をこっそり抜け出した後の処理に追われずに済みそうですな」
「う……ばれてたのか?」
「カグヤ殿が気付いておられたようで、忠告してくださいましたからな」
「いや、あはは……カグヤにはお見通しだったてわけか。面目ない。でも、あの国が今の状況で救援依頼を出してきたってことは……事態は相当深刻みたいだね」
冗談めかしたやりとりから一転、アルフレッドは声を沈ませて言う。イデオンの消息不明は、バーミリオン内部における部族間の勢力争いの具にされていたはずであり、他国に救援を求めることなど考えにくかったはずだ。にもかかわらず、それがあったということはすなわち……
「使者の話では、既に国内全域に月獣が溢れ返っているそうです。いずれは国境を越えてエレンタードにも迫るでしょうから、他人事ではありませんね」
「でも、それだと僕らだけでは手が足りないな。陛下はどれくらい兵力を動かすつもりなんだい?」
「我々だけです。陛下はだからこそ、『魔王』の力を使えと命じられています」
「……なるほど、ネザクの奴が大量の『魔』を召喚できるなら、それが十分戦力なるはずだと言いたいのか。……自国の兵に被害を出さずに他国に恩を売るには、もってこいの手段だな」
エルムンドの言葉を聞いて、エリックが苦々しげに吐き捨てる。これまで自分が仕えてきた『魔王』を他国の王がいいように利用する。それは、彼にとっては実に気分の悪い話だった。
「……うん。仕方がないこととはいえ、カグヤにでも聞かれたら大ごとだね」
「……へえ、そう? じゃあ、手遅れね」
「ええ!?」
突如として割り込んできた女性の声に、アルフレッドは驚いて振り返る。すると、学院長室の入口に、いつの間にか黒衣黒髪の女性が立っていた。
「カ、カグヤ……」
「あら、なに? そんな顔して。わたしの顔に何かついているかしら?」
「い、いや……」
アルフレッドは内心の恐怖を懸命に押し殺す。『何かついている』どころではない。こんなに怒りをあらわにした彼女は、滅多に見られるものではなかった。自分に対する苛立ちをぶつけてくる時の態度とは、まったく異なる。
ドス黒く、真っ黒で、黒々とした黒の魔女。
「エレンタードの王様も、自分が誰に助けられたのかも忘れて、随分と調子に乗った真似をしておくれだわねえ?」
「く、口調が変わってないかい?」
「うるさいわよ。とにかく、身の程知らずにもあの子を利用しようだなんて奴には、たっぷりとお仕置きが必要だわ。うふ、うふふふふ……」
不気味な笑いを続けるカグヤに、アルフレッドは背筋を寒くした。
「な、何をするつもりだい? 頼むから、あまり物騒な真似だけはやめてもらえると有難いんだけど……」
主君の身を案じ、アルフレッドがどうにか彼女をなだめようと試みる。だが、彼女は、依然として笑いを止めない。
「やあねえ。アルフレッド。忘れちゃった? わたしが誰かに復讐するとき、『物騒』な手段なんて使ったことないでしょう? 復讐は静かにゆっくり確実に、真綿で首を絞めるようにして……相手の息の根が止まるまでするものよ」
「息の根は止めちゃ駄目だって!……いや、ほんと、冗談だよね? いやいや! なんでそこで笑みを深くするんだ、君は!」
主君の生命の危機に、アルフレッドの顔が見る間に青ざめていく。
「おいおい、そんなに慌てなさんなって。少しは落ち着いたらどうだ。だいたい、俺の経験から言わせてもらえればだ……」
「エリック? ああ、そうか。これまで彼女と過ごしてきた君なら、止める方法を知っているんだね?」
悟りきった顔で肩を叩いてくるエリックに、アルフレッドは救いを求めるような目を向ける。
「うんにゃ? こうなったら俺たちが何をどうあがいても……絶対に無理だろ。ま、諦めろってことだな。幸い現国王には、ちゃんとした後継者もいるんだろ?」
「うああ! この人、悟り過ぎてる! 人間、何をどうやったらここまで諦めがよくなれるんだ!?」
エリックが過ごしてきた壮絶な日々を想像できてしまう彼の悟り様に、アルフレッドは頭を振って叫ぶ。
「と、ところで、それはそれとして、出撃はいつなさいますか?」
不毛な展開が続くことを危惧してか、エルムンドが話題を変えるように言った。だがカグヤは、そこで何かを思い出したように手を打った。
「ああ、そうそう。忘れてたわ。わたし、それを伝えに来たの」
「え?」
「実はね。エリザたちったら、もう待ちきれないって言って、出発しちゃったわ」
「ええ!?」
アルフレッドは、あんぐりと口を開ける。いつかは自分の顎も、エルムンドのように外れやすくなってしまわないだろうか。そんなどうでもいいことを考えつつも、声の出ない彼は目だけでカグヤに続きを促す。
「さすがに時間をかけ過ぎなのよ。日に日に落ち込んでいくエドガーを前にして、いつまでもエリザが我慢できるはずないでしょう?」
「で、でも、どうして止めてくれなかったんだい?」
「わたしには、そんなことをする理由がないもの。ネザクは『親友』のお父さんを助けるんだって意気込んでたしね。ほら、わかったら仕度しなさい。今すぐ追いかければ、さほど時間もかけずに追いつけるはずよ」
「な、な……」
「ほら、だから言っただろ? この魔女の行動を予測するとか、ましてや制御するとか、そんなこと絶対に不可能なんだよ。英雄にだって、時には諦めた方がいいことくらいあるってものさ」
がっくりと肩を落とすアルフレッドに、エリックは慰めの言葉をかける。
「ちなみに、今回は結構な大所帯で出かけたわよ。特殊クラスの六人とリゼルの他に、イリナとキリナも一緒だったわね」
「うあ、その二人まで……うう、よしわかった。じゃあ、僕らも行くぞ。アリアノートにもアズラルさんにも協力を仰ぐんだ! 月獣だか第三階位の『魔』だか知らないが、徹底的にやってやる!」
ミリアナから預かった娘たちまで戦地に飛び出して行ったと聞かされて、アルフレッドの中で何かが切れてしまったらしい。いつも温厚な彼らしくもなく、ヤケになったように声を張り上げ、椅子を蹴って立ち上がる。
「そうそう、その意気よ」
けらけらと笑うカグヤは、何故か「してやったり」と言った顔をしていた。
「おいおい、黒魔術でも使ったんじゃないだろうな?」
小声で問いかけるエリックに、カグヤは首を振る。
「そんなわけないでしょ。わたしは一度だって、コイツに精神干渉系の黒魔術なんか仕掛けたことは無いわよ。……とにかくこれで、『総力戦』の準備はできたってわけね」
早速、出発に向けた準備作業に入るアルフレッドを見やりつつ、カグヤは満足そうに頷く。確かにエレンタード王が期待するとおり、ネザクが大量の『魔』を召喚すれば、たとえ何万匹の月獣が相手であろうと問題ではない。
しかし、そんな思惑は考え違いもはなはだしい。カグヤはそう思う。
彼女の弟には、『大人の事情』など関係ない。彼はただ、自身の『目的』を果たすためだけに行動するだろう。
だからこそ、バーミリオンを救おうと思うのなら、『総力戦』が必要なのだ。
──先に出発したネザク達は、リンドブルムを初めとする空飛ぶ『魔』の背に乗って、エレンタードとバーミリオンの国境付近を飛んでいた。
「ここが有名なケルファンの平原か。十年前には、アルフレッド先生とイデオンさんの一騎打ちがあった場所だよね」
エリザはリンドブルムの背の上から地上を見下ろし、感慨深げにつぶやいた。
「ほら、エリザ、そんなに身を乗り出したら危ないよ」
「え? あ、おっと……」
ネザクに注意され、エリザは素直に体勢を戻そうとする。するとすかさず、彼女の手を別の少女の手がつかみ、引っ張りあげた。
「わわ、ありがと、キリナさん」
助けてもらわなくとも問題はなかったのだが、相手の好意には素直に礼を言うのがエリザだ。引っ張られたせいで、ちょうどキリナに寄り掛かるような体勢となったエリザは、申し訳なさそうに身体を離そうとする。
「いやいや、気にするな。大事な大事な君の身体だ。わたしがちゃんと支えてあげるぞ?」
しかし、キリナは彼女の肩をしっかりとつかみ、離そうとはしなかった。
「あ、あはは……。そこまでしてもらわなくても……」
珍しく圧倒されたように顔を引きつらせるエリザ。リンドブルムの背の上には、ネザクとエリザ、そしてイリナとキリナの四人が乗っているのだが、先ほどからキリナは何かにつけてエリザとの距離を詰めてくるのだ。
最初はエリザも、それを好意的に受け止め、『ネザクの姉妹』である彼女とも仲良くしようと試みていた。だが、彼女の手に触れられるたびに、なぜかぞわりとした悪寒が走る。
「うう、ネザクー。この人、なんか怖いよー」
「ネザクの『子供』も、きっと可愛らしいんだろうなあ。ふふふ。君のおかげで、将来は一粒で二度おいしいということになりそうだ。うん。だから、怪我なんてしないようにしないとな?」
「言ってることも意味わかんないし!」
エリザは半分涙目だ。だが、彼女が目を向けた先には、ネザクにしなだれかかるような少女の姿がある。いつものエリザなら、妬いてしまいかねない場面に見えるが、この時ばかりは例外だった。何故なら彼女は、普段ネザクがどれだけこの双子の姉妹を恐れているか、良く知っているからだ。
今もネザクは、イリナから耳元で何事かを囁かれている。最初の部分だけ聞こえてきた言葉から推測するに、その話の内容はと言えば……イリナによる『恋愛講座』だったはずだ。だが、恋愛のイロハなるものを聞かされているにも関わらず、どうしてネザクが顔を青くしながら首をぶんぶん振っているのかがわからない。
だが、なんとなくではあるが、それだけはわからない方が幸せなのかもしれないとエリザは思う。
「誉れ高いクレセントの『双子姫』がまさか、あんな人たちだったなんて……」
リンドブルムの隣を飛ぶ翼竜マイアドロンの背の上で、ルヴィナは疲れたように息をつく。
「どうした? 寒いようなら、もう少し暖房用の遅延型白霊術の出力を上げるが……」
「いえ、大丈夫です。ちょっとかつての自分の劣等感が虚しくなってきただけですから」
背後に座るルーファスからの気遣いの声に、ルヴィナは力無く返事を返す。
「そうか……にしてもなんだな」
「なんですか?」
「かつて蛇蝎のごとく君に嫌われていた頃には、こんな風に同じ翼竜の上に乗る日が来るなど、夢にも思わなかったと思ってな」
「……ふふ。そうですね」
ルーファスの言い様がおかしくて、ルヴィナは含み笑いを洩らす。確かに、あの頃の自分なら、こうして彼を自分のすぐそばに近づけさせたりはしなかっただろう。
「でも、何かしたら突き落としますからね?」
だから、こんな言葉も冗談でしかない。
「い、いや、それは困る。ふむ。どうするべきか……。ああ、そうだ。君と俺の間に、空気の壁でも造っておけばいいだろうか?」
しかし、察しの悪いルーファスは、そんな冗談を真に受けたらしく、真剣に対策を考え始めている。自分にそのつもりが無くても、何かが起きてしまうことが多いことに、彼はようやく自覚的になって来たらしい。
その原因はもちろん、もう一体の翼竜にエドガーと二人で乗っているリリアにあった。そもそもこうした組み合わせで乗ることになったのも、一番はリリアの《紅天槍》を恐れたルーファスを乗せる場所を考えた結果だった。
「冗談です。そんなに心配しないでください」
「そうか。ではこの壁は解除しておこう」
しかし、ルーファスが空気の壁を解除した瞬間。
「きゃ!」
急激に変化した気圧が、ルヴィナの身体を引き倒す。当然、背後にはルーファスの身体がある。ボスンと彼の身体に寄り掛かる形になるルヴィナ。
「あ、う……。が、我慢よ、我慢。言った傍から本当に突き落とすわけにはいかないわ。さりげなくわたしの胸に手が当たってるのも、わざとじゃないんだろうし、『斬り落とす』のも勘弁してあげなくちゃ……」
「い、いや、ルヴィナ。気遣ってくれるのは嬉しいのだが……できれば声に出さないでもらえると……」
ぶつぶつと物騒なつぶやきを続けるルヴィナに、恐怖に怯えた声を出すルーファスだった。
一方、最後の翼竜に乗る二人はと言えば……
「エドガー、いい加減、しっかりしなさいな。あなたがそんなことでは、救えるものも救えなくなってしまいますわよ?」
「ああ、わかってるよ……」
リリアの慰めの言葉にも、エドガーは鈍い反応しか返さない。
「悪い方にしか物事を考えられないのも、困りものですわね」
「…………」
「……もう、男のくせに不甲斐ないですわね。あなたもエリザが好きなんでしょう? だったら、なおさら、彼女を見習いなさいな」
「んな!? 何を言って!」
「今さら何を動揺していますの」
ようやくはっきりとした反応が返ってきたことに、満足げな顔をするリリア。
「いい? あの子はイデオン様のことを信じていますわ。このケルファンの平原で行われた一騎打ちも、彼はアルフレッド先生に片腕を斬り落とされながら、それでも最後には勝利して見せたというではありませんか。そんな五英雄の一人が、そう簡単に死んだりするはずがありませんでしょう?」
「わ、わかってるよ。俺だって、親父を信じてる。それに国の皆も俺が助ける」
「そうそう、その意気ですわ」
「ああ、サンキューな、リリア」
「礼は働きで見せてほしいものですわね」
「ははは! 任せておけって」
エドガーが元気を取り戻したかのように笑った、その時だった。並行して飛翔するリンドブルムとマイアドロンのさらに前方から、落ち着いた少女の声が響く。
「敵影、捕捉」
学院の制服を風になびかせながら、宙に浮かぶのは闇色の髪の少女。伝説級の『魔』の矜持として、他の『魔』の背に乗ることを良しとしなかったリゼルは、ただ一人自力で空を飛びながら、索敵の役目を担っていた。
そんな彼女の指差す先には、要塞都市の周囲に群がる月獣の群れがある。
次回「第97話 要塞都市と獣の目的」