第95話 銀牙の獣王と獣の饗宴
──事の発端は、『修羅の演武場』の近隣にある村落からの救援依頼だった。生粋の戦士が多い獣人族で構成されるバーミリオンには、各地に各々の部族のテリトリーが存在する。
そのため、『演武場』から月獣が溢れ出した直後には、そのあたり一帯を居住地域としていた屈強な『紅熊族』の戦闘部隊が対応に当たった。
月獣自体は、バーミリオンでは特に珍しい存在でもない。『禁月日』の翌日ともなれば、月獣狩りの部隊が組まれるなど、被害を未然に防ぐ試みはどこでも行われていた。
ただし、その日はすでに『禁月日』から十日以上が経過していた。
不思議に思いながらも出動した『紅熊族』の戦闘部隊は、『演武場』の周辺で恐ろしい光景を目撃することになる。
『月獣オンテルギウス』
『月獣ホロウナイトベア』
『月獣ルキルグフ』
『月獣マジックシープ』
月獣の中でも特に強力だとされる個体が数十体。整然と隊列でも組むかのごとく、『演武場』周辺を取り囲むように並んでいる。
それ自体は近隣住民からの通報どおりだったのだが、彼らが本当に心折られるのは、その後だった。
〈ぐははは! やっときたか! 待ってたぜえ!〉
月獣の群れの中から、人の声がしたのだ。圧倒的な力に満ちた声。耳に響くだけの音に過ぎないソレは、しかし、彼らの心を激しく揺さぶり、魂までをも震え上がらせた。
〈ああ? おい、びびってんじゃねえぞ。わざわざここまで来やがるから、期待してみりゃ、腰抜けどもが!〉
その言葉は、獣人族の誇り高き戦士たちにとっては、耐え難い侮辱であり、手に手に武器を構えて色めきたった。
典型的なパワーファイターである『紅熊族』が得意とする得物は、鎖の先にトゲ付きの鉄球が付いた打撃武器だ。
「おのれ! 我らを愚弄するか!」
雄たけびをあげ、月獣の群れに迫る戦士たち。
だが、彼らは知らない。彼らの『勇敢さ』がもたらすものが、彼ら自身のみならず、この国自体にとって、どれだけ致命的で、取り返しのつかないことであるのかを──
〈ぐはははは! 来た来た来た! 血が滾るぜ! さあ来い! さあ戦え! さあ、さあ、さあ、さあ! お前の血は何色だ!〉
ものの数分で、彼らは悟る。月獣の群れなど、大した敵ではない。少なくとも連携のとれた戦い方さえしていれば、どうにか対処も可能だろう。
だが、この声の主──コレは違う。コレは『敵』ではない。言うなれば『捕食者』だ。抗う術などありはしない。戦士としての矜持も、長年研鑽してきた武術の腕も、生物としての根幹が異なる存在を前にしては、まるで無意味だった。
その後、多くの犠牲を払いつつ、命からがら逃げ出した彼らは、部族長へと事態の異常さを進言した。しかし、報告を受けた部族長とその側近の幹部たちには、彼らの必死の訴えもまるで要領を得ない。月獣の発生自体はともかく、『恐ろしい声の主』については、その姿をはっきり見た者さえいなかったのだ。
国王を戴くようになったとはいえ、部族制が根強く残るバーミリオンにおいては、他の部族の力を借りるのは『恥』であるとの文化がある。そんな状況のせいもあり、その後も『紅熊族』は、政府に対策を要請することなく、何度かの偵察隊を派遣し、その都度多くの被害を出すこととなる。
──月獣による被害が一部族の問題では済まなくなるまで、それから一週間と掛からなかった。
国王イデオンは、『紅熊族』の族長と謁見の間で面会しながら、苦々しい想いで息をついていた。憔悴しきった顔で族長が話したところによれば、すでに『紅熊族』の集落はその大半が放棄され、多数の避難民が出ているとのことだった。
現時点では、迅速な避難対応のおかげもあって、非戦闘員の被害こそ少ないが、ことは急を要する問題だ。放置すれば国全体が危うくなる恐れさえある。となれば、イデオンの性格からして、次にとる行動は決まっていた。
「……出るぞ」
族長から話を聞いた翌日のこと。イデオンは、周囲の臣下が止めるのも聞かずに戦闘準備を整えると、早速『修羅の演武場』へと出立する。
無論、部下たちも彼を一人で行かせはしない。優秀な銀狼族の戦士を初めとする各部族から選りすぐった親衛隊が彼に付き従う。
しかし、彼らが向かった先には、この世の『地獄』が待っていた。
荒れ果てた平原の中央には、赤茶けた色の『修羅の演武場』がある。
石造りの巨大な建造物の周囲には、視界を埋め尽くす月獣の群れがいた。いずれもここにたどり着くまでに、彼らが相手にした雑魚とは違う。単体で軍の一個小隊に匹敵するような最上級の月獣たちが、群れをなしてひしめいているのだ。
『紅熊族』の報告にあったものとは、桁違いの大群である。
通常なら、この光景を見て絶望しないものはいないだろう。
だが、彼らには『銀牙の獣王』がいる。かつての『邪竜戦争』において、災害級の『魔』ですら、たった一人で倒し続けた最強の戦士。獣人族の中の獣人族。獣人国家バーミリオンの英雄王。
「発動、《銀牙の獣王》!」
イデオンは獣化モードを解放し、荒れ狂う嵐となって凶悪な月獣の群れを蹂躙する。当たるを幸い薙ぎ倒し、吹き飛ばし、叩き潰しては血しぶきの中で咆哮を上げ続けた。
イデオンの親衛隊も選りすぐりの戦士たちだけあって、しばらくは善戦を続けた。しかし、戦いが長引くにつれ、彼らの中にも犠牲者が出始め、ついには限界が訪れる。
「ちくしょう……どうしてこんなに……」
親衛隊の一人が、鉄の拳を振りかざし、しわがれた声でうめく。《咆哮》の魔法を使い過ぎたのだろう。だが、実のところ、倒しても倒しても湧いて出る無数の敵は、肉体より先に彼らの心をへし折ってしまっていた。
「……ちっ! キリがねえ。いったい、何がどうなってやがる?」
《紅蓮烈火の咆哮》で目の前の月獣をまとめて焼き尽くしながら、イデオンは舌打ちする。いくら撃破しても、敵の数は一向に減る気配がなかった。
「……行くしかねえか」
イデオンの決断は早かった。この状況が『修羅の演武場』の中と同じものなら、このまま戦っていても永遠に終わりは来ない。それに、このまま月獣が増え続ければ、ここにいる親衛隊だけの問題ではくなってくるだろう。
「おい! お前らは下がって護りを固めておけ! 俺が『演武場』の中まで行って、この原因を探ってくる!」
「そんな! 陛下、おやめください! お一人で行かれるなど、無茶です!」
部下の一人が抗議の声を上げるが、イデオンは意に介さない。
「だったらお前、俺についてこれるか? ……まあ、心配するな。俺が全力で戦うには、周りに味方がいない方が楽なんだよ」
「し、しかし……」
そう言われては言葉が出ない。イデオンの個の力は、他とは比較にならないほどに突出している。言外に足手まといだと言われたようなものだが、しかし、それは否定できない事実でもあった。
「わ、わかりました……。しかし、無理はなさらないでください」
「おうよ!」
全身に赤熱する燐光をまとわりつかせ、イデオンは雄たけびをあげつつ、月獣の群れに飛び込んでいく。
もちろん、彼には、この現象の原因に心当たりなどない。
そもそも、『演武場』の結界が効かなくなり、中にいた月獣が溢れ出してきたというだけであれば、その手の術師を集めて封印を施すのが一番だ。冷静に考えれば、ここはいったん引くべき場面だろう。
しかし、イデオンには予感があった。この奥に、何かがいる。それも封印などと言う小手先の対策が通じるような相手ではなく、強大で圧倒的な力の塊だ。
常人には耐え難いほどの凶悪なプレッシャーを前にしてもなお、国を治める王として、力あるモノの責務として、そして何より人々を護る『英雄』として、彼は引くことを良しとはしなかった。
「グオオオオオ!」
雄叫びを紫電の咆哮として撒き散らしつつ、行く手を遮る月獣たちを拳の一撃で粉々に吹き飛ばしながら、『演武場』へとたどり着く。最強クラスの月獣だけでも、すでに数十匹は撃破しただろうか。さすがのイデオンにも、疲労の色がわずかに見え始めていた。
『演武場』の中には、さらに厄介な月獣がいるに違いない。かつての三日三晩の死闘を思い出しつつ、入口から中へと飛び込んだ。
「ん? なんだ、こりゃ?」
驚きの声を上げるイデオン。そこは、さながら台風の目のごとく、獣一匹存在しない空間だった。だが、濃密なプレッシャーだけは、その場の空気を支配している。
「隠れてねえで、さっさと出てきやがれ!」
イデオンは、誰もいない空間に向かって叫ぶ。
〈ん? この闘気……そうか、あの時の『ゲスト』か! ぐはははは! こりゃあ、いい! 俺はついてるぜ。さあ、さあ、さあ、さあ、さあ! 戦え、闘え、戦え、闘え、戦え、闘え!〉
声と共に、大地が赤く染まっていく。
そして───銀牙の獣王は、戻らなかった。
イデオンが消息を絶ったという情報は、獣人国家バーミリオンでも極秘事項とされていた。そうでなくとも、選りすぐりの親衛隊ですら『演武場』に近づくことができないのだ。現実問題として、イデオンの生死は不明のままだった。
だが、状況を考えれば、生存はあまりにも絶望的だ。そのためか、一刻も早い救出を望む声がある一方、銀狼族以外の部族からは早くも新たな王の選出を望む声が上がっているほどだった。
「まあ、僕の情報収集網がなかったら、今しばらくは、僕らもこの件を知ることはできなかっただろうけどね」
アズラルは自慢げに胸を張ったまま、エドガーに状況を話し終えていた。
「……親父」
エドガーはアズラルからの書簡を受け取った後、すぐにリールベルタを出発し、学院へと帰還していた。
あらためてアズラルから聞かされた情報は、父親の生存をほぼ絶望視しなければならないレベルのものであり、沈痛な面持ちで下を向いている。
「エドガー君。気持ちはわかるけど、僕らが今、すべきことは絶望することじゃないよ。仮にも君の父親は、星界を救った五英雄の一人だ。やすやすと殺される男じゃない。戦場で『生き残る』ことにあれだけ長けた男もそうはいないさ」
「……はい」
神妙な顔で頷くエドガー。言葉では何と言おうとも、不安はぬぐいきれないに違いない。
「……まあ、過去に何度も彼を殺そうとして失敗している僕の言うことだ。それなりに信憑性はあるんじゃないかな?」
「不穏当な発言をするな。邪竜戦争当時の話だと前置きが無ければ、誤解が生じるだろうが」
努めて明るい声を出すアズラルの頭を、後ろからアリアノートが軽く叩く。
今や定例となった学院の会議室における会合には、学院長のアルフレッドやカグヤ、エルムンド副院長のほか、特殊クラスのメンバーなどが一堂に会している。
「それにしても、いったい何が起きているんでしょう? 『修羅の演武場』から月獣が溢れ出すなんて、今までなかったはずです」
アルフレッドが話題を変えるように言うと、アズラルは軽く頷きを返す。
「ああ、その件なんだけど……最近になってようやく有力な情報が得られたんだ」
「バーミリオンに何か動きでもあったんですか?」
アズラルは《影法師》を駆使して、星界各地の様々な情報を収集している。現在では主に獣人国家バーミリオンを中心に情報収集に当たっているはずだった。
「いや、情報源は……彼女だよ」
アズラルはそう言って、議場の一角を指差す。
「え? リゼル?」
驚いた顔でそう言ったのは、ネザクだ。彼の隣に座るリゼルは、自分が指差されたことがわかっていないようで、自分の名を呼んだネザクに視線を向けている。
「まあ、いつものとおり、彼女の言っていることはわかりづらいから、整理するのに随分と難航しちゃったけど……」
アズラルは少し疲れたような顔をしていた。
「彼女の話をまとめると……イデオンやエドガーが修業した『修羅の演武場』は、紅月の『牙』──獄界第三階位の『演武魔獄ブレイヴプリズン』なんだそうだよ」
「な!」
「……またしても、第三階位ですのね」
アズラルの言葉に皆が絶句する中、リリアは一人、小さくつぶやく。
「でも、どうして今頃になって、それが活動を?」
アルフレッドが気を取り直したように尋ね返した言葉には、アズラルはお手上げだとばかりに首を振る。
「さあね。そこまではわからないよ。ただ、ひとつだけ言えることがある。僕らが相対しなければならない敵は、『月獣』の群れなんかじゃなく、星界でも伝説級と呼ばれる『魔』なんだということだ」
同じ第三階位である『心象暗景メイズフォレスト』の脅威を思い返し、一同は言葉を失う。ネザクとエリザという規格外の存在二人を擁してもなお、苦戦を強いられた相手だ。そこに単身で乗り込んだイデオンの安否は、ますます怪しく思えてくる。
「くそ! なんでだよ! 俺が前に修業した時は、何もなかったのに……。こうしちゃいられない。先生、みんな! 頼む! 俺の親父を助けるのに、力を貸してくれ!」
「よし! じゃあ、早速行こう! イデオンさんを助けるんだ!」
エドガーの嘆願に、エリザが声を張り上げる。
「……だそうだよ。アルフレッド」
アズラルは予想通りと言わんばかりに、アルフレッドに水を向ける。
「……もちろん、俺も彼を助けに行きたい気持ちには変わりはない。でも、肝心のバーミリオンからの救援要請が無いんだ。今の学院は政治的にも微妙な立場だし……要請も受けず、陛下に独断で動くわけにはいかない事情もある」
「でも! ……見殺しになんてできないよ」
「わかっているよ。エリザ。今回、君たちには『学外任務』に行ってもらいたい。任務の内容は、『月獣退治』だ。異常繁殖した『月獣』によるエレンタードへの被害を未然に防ぐ必要がある以上、バーミリオン領内での行動も認めよう」
「え? 任務?」
きょとんとした顔になるエリザ。だが、ルヴィナとルーファスには、わかったようだ。納得したように頷きを返す。
「なるほど。生徒の学外任務なら、学院の通常のカリキュラムの一環です。わたしたちはあくまで『任務』遂行の過程で、イデオン様を救出することになるわけですね」
「傭兵斡旋所の任務には依頼主が必要だが……まあ、誰かに依頼を提出しておいてもらうくらい、先生ならコネがないわけでもないだろうな」
「ああ。で、僕は例のごとく、君らの引率というわけだ」
当然のように言ったアルフレッドだったが、そこでエルムンドが咳払いをしながら口を挟む。
「アルフレッド様? お立場をお考えください。それでは意味がありません。どんな口実であれ、あなたは五英雄なのですよ? あなたが動けば、それは一国の軍勢が動いたに等しいのです。自重なさってください」
彼にしては、かなりきつい口調である。恐らくはストレスのせいだろう。ようやくエリックが戻ってきてくれて一息つけてはいるが、ここ数日、彼は『ネザクファンクラブ音楽隊』の結成をどうにか穏便な方向にまとめるべく、奔走していたのだ。
この上、余計な厄介ごとを増やしてくれるなと言うのが本音なのだろう。
「……何もそこまで言わなくても」
がっくりと肩を落とすアルフレッド。しかし、この時カグヤだけは、彼がうつむく直前に浮かべた表情に気付いたのだった。
次回「第96話 大人の事情と子供の目的」