第94話 辺境の王女と銀狼族の王子
銀翼竜王の背に乗ること、およそ一日。エレナのための休憩を挟んでも、二日もあれば王都クレセントに到着する。エレナにとっては約二か月を過ごした城であり、その間、ミリアナにも随分と可愛がられていた記憶もある。
そのため、一行はミリアナの招待を受ける形でクレセントに二日間ほど滞在し、十分に別れを惜しんだ後、さらに西方の辺境国家リールベルタに向けて出発する。
今度はシュリが用意した強化月獣の怪鳥に乗ることになったわけだが、さすがにリンドブルム程の速度は出ない。
途中で同じく休憩を挟みながら進むことになったのだが、銀翼竜王の背に比べ、さほど広くもない怪鳥の背の上では、色々と不便も多かった。
「……何と言うか、これは流石にどうかと思う」
戸惑い気味の言葉を口にしたのは、エリックだった。久しぶりの故国への帰郷になるわけだが、大して未練があるわけでもない国だ。特に感慨もない。だから、気になっているのは別のことだ。
「でも、仕方ないにゃん。リンドブルムみたいに『消えない炎』で暖を取れない以上、こうするのが一番でしょ?」
現在は黒季の真っ只中だ。一年で最も寒いこの季節において、寒風吹きすさぶ大空を旅するのは、多少の厚着をしたとしても、かなり辛いものがある。
「それとも、エリックおじさま。シュリの身体、あったかくない?」
「……いいや、十分だ」
自分の顎のすぐ下から聞こえてくる声に、エリックは軽く首を振る。他に方法が無いのだから仕方がない。エリックは自分にそう言い聞かせてはいるものの、それでもやはり、この状況はどうかと思うのだ。
自分の胸元に身体を預けるように寄り掛かるシュリの身体は、驚くほど温かい。
それもそのはず、彼女は魔闘術によって体温を高め、自分の身体をエリックの『湯たんぽ』代わりにしているのだ。エリックも白霊術ならば使えるが、イメージで発動させるこの魔法の欠点は、持続時間が短いことにあった。
「まあ、これだけの寒さだ。こうした対策でもなければ空路を進むのも無理だったんだろうがな」
一際冷たい風が吹きつけてきたため、エリックは思わずシュリを抱く腕に力を込める。華奢な身体から伝わるじんわりとした熱が何とも心地よく、いけないとはわかっていても、その手を離すことがなかなかできない。
「ふふん。エリックおじさまも、ますますシュリなしではいられないみたいだにゃん!」
嬉しそうに弾んだ声を出すシュリだった。
一方、別の怪鳥の背の上で、身体を丸める少年が一人。
「とくべつなんだからね。本来なら、へんたいのお兄ちゃんにこんなこと、させてあげないんだから!」
「……へいへい、感謝してますよ」
丸めた身体の内側から甲高い少女の声。エドガーは、それに疲れた声で生返事を返していた。
「あ! ほら、すきまができちゃったじゃない! 寒いよう。もっとしっかり被さってよ」
「無茶言ってんじゃねえよ。お前にできるだけ触らずに暖房代わりになれとか、何様のつもりだってんだ……」
文句を言いながらも、エドガーは何故かエレナに逆らえない。エドガーにとって、エレナという少女は自分を変態呼ばわりする可愛くない子供である。王女の地位にあると言っても、大国の王子であるエドガーから見れば、本来なら身分的にも格下の相手だ。
だというのに、気付けば彼は、エレナに従わされている。自分でも不思議なくらい、彼女の要望を聞いてやりたくなってしまうのだ。
とはいえ、エドガーは内心で繰り返す。自分はロリコンではない。間違っても師匠と同じにはなりたくないし、そもそも相手が四歳の幼女では、アズラルだって食指が動かないところだろう。
「あー、何やってんだろうな……俺」
そんな自分の境遇に呆れながら、もう何度目になるかわからない深いため息をつく。だが、その時だった。
「へんたいのお兄ちゃん。……エレナをあったかくしてくれて、ありがとね」
『人間暖炉』の中でご満悦の王女さまが、年相応の愛くるしい声で、お褒めの言葉をかけてくれた。不意打ち気味の一言に、エドガーの胸は強く締めつけられる。
「……あ、悪女め」
飴と鞭で言うところの、飴。普段の言動との大いなるギャップ。幼い少女の魔性の声に、エドガーは自分が彼女に逆らえない理由の一端を知ってしまったのだった。
──王都クレセントからリールベルタ王国への移動には、陸路なら一週間以上の時間を要する。だが、シュリの怪鳥であれば、二日間もあれば十分だ。それでもエレナを気遣う以降は、休憩を十分に交えつつ、およそ三日半かけて彼女の生まれた王城へとたどり着いた。
王城の門番に取り次ぎを頼もうとすると、エリックの顔に見覚えがあったのか、彼らは一様に警戒の色を見せた。ようやく魔王の支配が終わったと思っていたところに、その一味が現れたのだ。彼らの反応は当然だと言えたが、人質だったエレナ王女や大国の王子エドガー・バーミリオンの名前を聞いて、ようやく中への取り次ぎを済ませてくれた。
だが、驚いたことに、事前に手紙では事の顛末を知らせてあったとはいえ、ダライア二世は彼らを謁見の間ではなく、国王の執務室に案内させたのだった。
「久しぶりだな。エリック殿」
執務室に入るなり、応接のソファに腰かけていた中年の男性が立ち上がる。彼の顔には、かつて魔王の侵略によって、王としての尊厳を奪われていた頃の面影など既にない。若い為政者らしい自信に満ちた表情を見せていた。
「……驚きました」
エリックは素直な感想を口にする。
「ここに案内したことか? それとも俺のことか?」
「両方です」
「ふむ。まあ、ここに案内したのは大した理由じゃない。他の連中に邪魔されず、娘と会うためだ」
見れば、ダライア二世の隣には、エレナによく似た顔立ちと緩やかに波打つ美しい金髪を持った一人の女性が立っている。
「ぱぱ! まま!」
エレナ王女は、エリックの背後から飛び出し、並び立つ両親の元へと駆け寄っていく。
「おお、エレナ! 元気だったか? 久しぶりに会えて、嬉しいぞ」
「うん。わたしも! ……ねえ、ぱぱ。わたし、四歳になったんだよ?」
「む? ああ、そう言えば、誕生日が過ぎていたな。……残念だ。毎年、妻と一緒にお前の誕生日を祝うのが俺の最大の楽しみだったのだがな」
娘を抱きしめて笑う国王の顔は、まさに娘を溺愛する父親そのものだった。
「エレナ……。良かった。無事だったのね……」
一方、エレナの母である王妃は、目に涙を溜めて嗚咽を漏らした後、国王と交代するようにしっかりと娘の身体を抱きしめた。
「まま。……大丈夫だよ。あのね、あのね! みんながわたしのために、誕生日のぱーてぃをやってくれたの! おいしいケーキもあったし、プレゼントもいっぱいもらったのよ!」
抱擁から解放された後、エレナは上気した顔で父親を見上げ、嬉しそうに早口でまくしたてた。
「……そう。よかったわ。あなたが魔王軍に連れ去られたと知った時は、胸がつぶれそうに辛かったけど……元気でいてくれて、嬉しいわ」
涙を拭いながら、エレナの頭をしきりに撫で続ける王妃。
「……誕生パーティーか。ふふ、皆に可愛がられていたのだな。……安心したぞ」
最後の言葉は、エレナではなくエリックに向けられたものだろう。エリックは何か言いたげな王の視線に肩をすくめた。そして、自分の斜め後ろに立つ少年に声をかける。
「ほら、エドガー。国王様にご挨拶をした方がいいんじゃないか?」
「え? あ、ああ……」
どうやらガチガチに緊張しているらしく、エドガーはようやく我に返ったような顔で前に進み出た。実のところ、エドガーは大国の王子であるとはいえ、こうした社交的な場に顔を出したことなどない。フォーマルな謁見ではないとはいえ、一国の王を相手にした振る舞いの仕方など、身に着けているはずもなかった。
「あなたが、エドガー殿下ですか? わたしはリールベルタ王国の国王ダライア二世。このたびは、遠路はるばるこのような辺境までお越しいただき、感謝を申し上げます」
「あ、い、いや、それほどのことじゃあ……」
しどろもどろに言葉を続けようとするが、何と言うべきか見当もつかない。
「……して、五大国家の跡継ぎともあろう御方が、こんな辺境の一小国に何か御用ですかな?」
「え? あ、そ、それはその……」
この時エドガーは、内心ではパニックに陥っていた。彼としては、ただの付添いのつもりだったのだが、国王の様子を見る限り、それで済ませてもらえるようには見えない。エレナに乞われたから来たのだと言ったところで、信じてもらえるはずもない。
ちらりとエリックに助けを求めるような視線を向けては見たが、彼は素知らぬ顔で見つめ返してくるのみだった。当然、シュリなどもっとあてにならない。エドガーが途方に暮れていると、助け舟は意外な方向から来た。……ただし、大洪水を伴って。
「ぱぱ。へんた……えっと……エリ? エダ? エ、エドガーお兄ちゃんは、エレナのためについて来てくれたのよ」
父の顔をまっすぐに見上げ、エレナは言う。学院でもしばしば世話係を続けてやっていたにもかかわらず、未だにしっかり名前を覚えてもらえていないことには愕然としたが、エドガーとしては話の矛先が逸れてくれるだけでもありがたいことだった。
「エレナのため? どういうことかな?」
問いかけるような視線を向けてくるダライア二世に、エドガーはどうにか弁解の言葉を口にする。
「いや、まあ、学院では子守役をすることも多かったですからね。少し懐かれてしまったみたいでして……って、痛!」
だから今回も子守役なのだと続けようとして、エレナに向こう脛を蹴りつけられる。エドガーは恨みがましげな眼をエレナに向けるが、彼女は澄ました顔で平然と胸を張っていた。その光景には、さしもの国王も目を丸くして驚いていたが、エレナはさらに言葉を続ける。
「ぱぱ。……ううん。おとうさま。エドガーはね。エレナの……」
お馬さんなの。エドガーは続く言葉をそう予測した。だが、しかし──
「お婿さんなの!」
「むここ!?」
動揺のあまり、奇妙な言葉を発するエドガー。小さな幼女によって場に投じられた巨大な一石は、波紋と言うより激しい波となってその場の空気を蹂躙していく。
「エレナの婿だと? ……エドガー王子が?」
「ま、まあ……本当に?」
信じがたいと言いたげに、呟く国王夫妻。だが一方で、驚愕に固まるエドガーの背後では、二人の人間が必死に笑いをかみ殺していた
「ぷくくく……面白いにゃん。最高だにゃん。なにこれなにこれ、エドガーって四歳児の旦那だったんだ。ぶふ! ぷくくく!」
「こ、こら、シュリ。笑っては失礼だぞ。王族同士の婚姻に、『多少の』年齢差なんて合って無きがごとしなんだからな」
エドガーの動揺は、先ほどまでとは別の意味で最高潮に達してしまう。
「ちょ、ちょっと待った! いや、エレナ? お前、何をいきなり言ってるんだよ。だいたい、お前はネザクがお気に入りだったはずだろうが……」
「ネザクお兄ちゃんには、いい人がいるもん。でも、エドガーお兄ちゃんにはいないでしょ?」
「い、いや、俺にだってなあ……って、そ、そういう問題じゃねえよ! いや、子供だから『お婿さん』の意味も良く分からないのかもしれないけど、そもそもお前、俺のこと嫌いじゃなかったのか?」
「嫌い? そんなこと、言ったことないよ?」
不思議そうに首を傾げるエレナに、エドガーは言葉を失う。確かに、へんたい呼ばわりされた挙句、日常的に脛に蹴りを入れられる日々の中、彼女がエドガーを『嫌い』だと口にしたことはなかった。
エレナは蒼く大きな瞳で、エドガーを見上げてくる。まさか彼女は本気なのだろうかとの思いが頭をよぎり、直後に彼は首を振る。
「いやいや! 何を考えてんだ俺は! 本気だとかそんな問題以前の話じゃねえか! 駄目だろ、違うだろ、いくらなんでも、こればっかりは犯罪だろうがああ!」
人目も忘れ、頭を抱えて絶叫するエドガー。どこまでも気の多い少年とはいえ、さすがに十二歳年下(しかも現時点でわずかに四歳)の相手に懸想するようでは、念願の『師匠越え』を全く別の方向性から果たしてしまいかねない。
「自重しろ! 俺、自重するんだああ!」
あまりの出来事に、国王夫妻は圧倒されて言葉も出ない。すると、それを見計らってか、エリックが彼らの前に進み出る。
「まあ、実際のところ、エレナ殿下のご成長を待つ必要はあろうかと思いますが……、悪い話ではないと思いますよ?」
ひそひそと小声で語りかける。
「だ、だが……」
国王の目は、依然として頭を抱えて呻き続けるエドガーに向けられている。
「ご心配なく。今は少し、動揺しているだけです。普段の彼はちゃんとした少年ですよ。きっとエレナ殿下のことも幸せにしてくれますとも」
悪魔の囁き。エリックは少年を気の毒に思いながらも、彼の師匠から入れ知恵された言葉を続ける。
「王女殿下の今の御様子を見れば、陛下もおわかりでしょう? 彼女はあの学院で、世界でも最強の魔王や英雄に囲まれ、彼らから一身に愛情を受けています。それが彼女の将来、ひいてはこの国のために、どれだけの利を生むことになるか」
「……エレナは、学院に戻りたいのか?」
少し考え込むような顔をした後、国王は愛娘へと問いかける。ちょうど彼女は、狼狽えるエドガーを指差しながらけたけたと笑っているところだった。
「うん。ぱぱとままと離れるのはさびしいけど、大丈夫」
「……そうか」
「……エレナ」
満面の笑みで答える娘に、諦めたように息をつく国王夫妻だった。
それから両親との時間を過ごすエレナのために、エドガーたちは一週間ほどの間、リールベルタに滞在を続けた。だが、親子水入らずの時間を過ごさせると言うより、すっかり娘の婚姻に乗り気なダライア二世によって、半ば保護者同伴のお見合いじみた食事会などが多く、エドガーとしては辟易するばかりだった。
とはいえ、エレナにとってはどんな形であれ、久しぶりの両親と過ごす時間は楽しかったらしく、いつになく無邪気な笑顔ではしゃいでいた。エドガーにしてみてれば、彼女がそうやって喜んでくれているのであれば、多少は苦労の甲斐もあったというものだった。
「にゃはは! こうやってなし崩し的に人生決まっていくのかにゃん!」
「うるせ! そんなことになってたまるか!」
むしろ彼にとっては、シュリの爆笑の声とからかいの言葉に耐える方がつらかったのかも知れない。
しかし、リールベルタ滞在の最終日のこと。一行の前に、黒霊賢者の《使い魔》が姿を現した。城の窓から飛び込んできた巨大な黒鳥は、口にくわえた一通の書簡をぽとりと落とすと、あたかも読むことを催促するようにエドガーを見る。
「な、何だってんだ?」
彼は、書簡に目を通す。そこには、こう書かれていた。
『緊急事態発生。獣人国家バーミリオンにて、かつてない規模で月獣が大量繁殖。国王イデオンが原因を究明するべく『修羅の演武場』へと向かい、そのまま消息を絶った。エドガーは、すぐに学院に戻ること』
エドガーの手から、書簡がばさりと零れ落ちる。
次回「第95話 銀牙の獣王と獣の饗宴」