第91話 王女の帰郷と獣の夜
エレナの誕生日パーティーの翌日。
ちょうどいい機会だということで、それまで懸案事項だった問題を片付けることになった。それは、エレナ王女の里帰りである。手紙こそ父であるダライア二世の元に届けてあるとはいえ、無事な姿を見せてやらねば心配もするだろう。
それに、本人が激しく反対したからこそ先延ばしにしてきたが、本来なら彼女は親元に帰すべきなのだ。少なくとも保護者である父王の判断にゆだねるべき事柄だった。
──その日の学院のグラウンドには、銀翼竜王リンドブルムの姿があった。
「長旅で悪いけど、頼んだわよ」
カグヤは彼女にしては珍しく、旅装に身を包んだエリックに対し、申し訳なさそうに声をかける。
「ああ、心配するな。一応あそこは俺の祖国だ。しっかり送ってきてやるよ」
「シュリも一緒だから、道中も心配いらないにゃん」
エリックの隣では、シュリが同じく旅支度を整えていた。
「それに、クレセント領内まではミリアナ様と一緒で、リンドブルムに乗っての移動だしな。そんなに時間はかからんだろ」
「ごめんね。本当は僕も一緒に行ければ、高速飛行できるコアルテストラも使えたんだけど……」
「大丈夫だよ。ネザク。途中からはシュリの『月獣』に乗ってけばいいだけだしね」
自慢げに胸を叩くシュリの傍には、いつかの怪鳥の姿があった。この『月獣』には『空を渡る鬼コアルテストラ』はおろか、リンドブルムほどの速度も出せないが、陸路を行くよりは随分速いはずだ。
「ま、お前の本分は学業だろ? 俺はどっちかっていうと、ただの手伝いだからな。少しぐらい学院を離れても……」
言いかけて、エリックは言い淀む。と言うのも、学院の副院長、エルムンドからの名残惜しそうな視線を感じてしまったからだ。
「できるだけ、ええ、できるだけ! 早く戻ってきますとも!」
「ええ……そうしてくださると助かりますな」
それはもう、心の底からの願いと言わんばかりだった。ネザクが学院に来てからというもの、学院内での面倒事はそれまでの二倍に増えた。加えて、エリザとリゼルが友達になってからは、さらに倍になる恐れさえはらんでいる。すでにエリックの存在は、この学院の安寧にとって、必要不可欠なものになりつつあるのかもしれない。
「さて、ネザク。随分と長期滞在になってしまいましたけど、いつまでも国を空けておくわけにもいきません。……名残惜しいけれど、元気にしっかりやるのよ」
「うん。お母さん。ありがとう」
「ふふふ、いい子ね」
ミリアナは、今やすっかり自分を違和感なく母と呼んでくれるようになった我が子を、しっかりと抱きしめる。
「母様、任せておいて。ネザクはわたしたちが、しっかりと面倒見るから」
「うん。なんなら毎日、部屋に行って掃除洗濯食事の用意をしてやってもいいくらいだ」
イリナとキリナもまた、ミリアナと抱擁を交わし合う。
「うう……毎日は勘弁してほしいかも……」
そんな言葉を言いつつも、ネザクはカグヤ以外に新たにできた『家族』の存在を嬉しく感じている。カグヤにとっても、それは嬉しいことだった。
「ふふふ。ネザク。お母さんもいいけど、お姉ちゃんも忘れちゃ駄目よ?」
「う、うん。もちろんだよ」
カグヤは特にやきもちを焼いたつもりはないのだが、ネザクは何を気にしてか、慌てて言い繕うように言葉を続けた。
「ミリアナさんたちも大事だけど……カグヤはずっと、僕と一緒にいてくれたお姉ちゃんだもん。忘れたりしないよ」
カグヤはそれを聞いて、柔らかな笑みを浮かべ、ネザク少年の金の頭に手を置いた。
「いいのよ、ネザク。あなたはもっともっと、たくさんの人と触れあって、仲良くなって、貴方の望む『皆に愛される魔王様』になればいいの。お姉ちゃんは、あなたの夢を応援してるんだからね」
「……うん」
一方、エレナはと言えば、いざとなると父親のことも恋しくなるのか、意外なほど素直に帰郷の話に応じていた。
「でも、絶対ここにかえってくるんだから。ネザクお兄ちゃん。約束よ」
「うん。待ってるよ」
小さな少女と握手を交わし、ネザクは微笑む。
「エレナちゃん。風邪を引かないようにね」
「上空は寒いから、温かい恰好をするのですわよ」
ルヴィナとリリアが心配そうに声をかける。
「ええ。お姉様がたもお元気で!」
先ほどまでの子供らしさが嘘のように、優雅にお辞儀をする幼女。ルヴィナとリリアのことは、見習うべき淑女の先輩として位置付けているらしい。
「ったく、あれが四歳のすることかっての……」
エドガーは呆れ顔だ。
「あ、へんたいのお兄ちゃんを忘れてた」
「忘れてたのかよ……」
「じゃあ、へんたいのお兄ちゃんも……風邪引いちゃ駄目だよ?」
「え? 心配してくれんのか?」
「え? だって、エレナのお馬さんでしょ? 一緒に来てくれなくちゃ」
さも当然のように言うエレナ。
「いやいや! 俺だって授業があるんだよ。だいたい、何で俺が……」
そう言って首を振ろうとするエドガーだが、そんな彼の手に、ルーファスから荷物が手渡される。
「え? な、なんすかこれ?」
「君の荷物だ。こういうこともあろうかと、一通り、俺が必要そうなものを見繕っておいた。心配しないで行って来い」
表情一つ変えず、淡々と言うルーファス。
「こういうこともあろうかとって!? いったい何をどうすれば、そんな可能性に思い至るんですか! っていうか……これ、冗談ですよね?」
「む? 冗談? なんだそれは? 聞いたことのない言葉だな」
「嘘をつけええええ!」
ルーファスの珍しいボケに、全力で突込みを入れるエドガー。
「まあまあ、落ち着きなさい。仕方ないんだよ。エドガー君」
「アズラル先生。仕方ないってどういうことですか?」
「ああ、エレナがどうしても、君と一緒じゃないと帰らないって言うもんだから。……正確には、ネザクか君のどちらか、だったんだけどね」
「で、俺、なんですか?」
「そりゃあ、そうだろう。ネザクくんは編入したてなんだぜ。それに、君なら後で僕が特別に補習してやってもいいしね」
「俺の休みを使って?」
「もちろん。僕の場合はいつも授業があるわけじゃないから、君の休みの日ぐらい、大した負担じゃない」
「俺の負担は無視ですか!」
エドガーはなおも抵抗の姿勢を示したが、そんな彼に追い打ちがかけられる。
「エドガーくん。お願い。きっとエレナちゃんも不安なのよ。このまま強制的に帰らされちゃうんじゃないかって」
「ええ、わたくしからもお願いしますわ。きっと、学院の誰かに来てほしいと言い出したのも、それが理由なのですわ。ふふ! 頭のいい子ですわね」
ルヴィナとリリアのそんな懇願に加え、それまで黙っていたエリザまでもが、エドガーに詰め寄ってくる。
「ほら、エレナはエドガーを頼ってるんだ。ここで行かなきゃ男がすたるよ。あたしの知っているエドガー・バーミリオンって男は、こんな場面でエレナを見捨てるような奴じゃないはずでしょ?」
ほとんど殺し文句だった。
「うう、頼るって言うけどなあ……。俺、馬扱いなんですけど……」
エドガーは諦めたように項垂れたのだった。
「それじゃあ、みんな! エレナ、いってきます!」
「うん。行ってらっしゃい!」
「お父さんによろしくね!」
「元気でな!」
銀翼竜王リンドブルムの背には、ミリアナのほかに、エリックとシュリ、さらにはエドガーとエレナが乗っている。さすがに幻界第四階位の災害級だけのことはあり、五人を乗せてもまったく問題なく、ふわりと浮かび上がるように空へと飛翔した。
「いやいや! やっぱりこれ、おかしいって! どうして事前に俺だけ聞かされてないんだああ!」
「ほら、へんたいのお兄ちゃん。静かにしてよ!」
わいわいと騒がしい声を響かせながら、黒季の寒空へと消えてく銀翼竜王の姿
「まあ、大国バーミリオンの王子が同行したとなれば、リールベルタ国王も彼らをむげには扱えないだろうからね」
今回の件を画策したアズラルは、遠ざかる弟子の姿を見つめながら、一人つぶやくのだった。
──その日の夜。エレンタード王国から南方にある『遺跡』にて。
〈いいザマだなあ、ええ? 『御霊導く賢なる王』ともあろう者がよお〉
馬鹿にしたような言葉。荒ぶる獣は声をあげて笑う。
〈……星界の民を憑代にしただけでは、完全な力は振るえなかった。それだけのことだ。我が目論見通り、『月の牙』を介して自然顕現することができておれば……〉
不快な揺らぎと共に、耳に響く音声。くぐもったような声は、さきほどの獣とは対照的に力無く聞こえる。
〈おいおい、負けは負けだろ? バトルの結果に言い訳なんざ、興ざめだぜ〉
〈……ふん。相変わらず、『紅月』の者どもは野蛮だな〉
〈はっ! くだらねえな。プライドの高いてめえが、そんな亡霊の『影』に身をやつしてまで俺様の『演武場』に来るなんざ余程のことだと思ってはいたが、聞けば聞くほどくだらねえ話じゃねえか〉
〈……我ら『魔』にとっては、共通の問題だ。我らが神があのような存在であることが分かった以上、もはや色の違いなど些細なこと。それより、あの人間は脅威だ。何としても排除せねばならぬ〉
〈なんだっけ? 俺は頭が悪いから忘れちまったぜ〉
再び、げらげらと笑う獣。深夜のこの時間には、昼に昇る『黒月』は空に無く、か細い星明りだけが地上に降り注いでいた。円形状の古びた闘技場の中心には、青く揺れる亡霊の影のほか、紅くたぎる獣の声だけが響きわたる。
さらにその周囲には、普段ならこの『演武場』の法則に従い、殺し合いを続けているはずの無数の『月獣』たちが頭を垂れて、静かにかしずいている。
〈……ネザク・アストライア。仮に呼称するなら『無月』と言うべきところだろうが、あれは我ら『魔』の本能を狂わせる。放置しておけば『月界』そのものの害になろう〉
〈ん? ああ、そういや、こないだ送還されてきたクリムゾンのガキが、なんか言ってたなあ? てめえのとこの第五階位も、ソイツにぞっこんだとか〉
〈……その事実こそが、奴の脅威を物語っていよう。災害級の『魔』ですらも虜にしてしまう。奴は、『魔』の在り方を狂わせるのだ〉
蒼い亡霊は苦々しげに言葉を紡ぐ。
〈『魔』の在り方ねえ……馬鹿馬鹿しい。で? 俺にそのネザクとかいうガキを殺せって?〉
〈そうだ〉
〈馬鹿かてめえ? てめえの言うことを聞いて、俺に何の利益があるんだよ〉
〈だから、言ったであろう。奴は月界全体の……〉
〈うるせえな。そのガキが俺の『楽しみ』の邪魔になるんなら、いつだって殺してやるよ。でなけりゃ知ったことか!〉
びりびりと空気を震わす大喝。周囲の『月獣』たちが怯えたように身をすくませている。
〈……随分と『力』をつけたようだな〉
蒼い亡霊は唐突に話題を変える。
〈ああ? まあな。最近、この『演武場』にゲストが良く来るもんだからよお、俺の『まとう肉体』も随分と鍛えられたぜ〉
〈ならば、その『力』を試してみたくはないか?〉
誘導尋問のような言葉。
〈試すだあ? そのガキでか? てめえの言うことも眉唾もんだからな。でも、そう言えば、クリムゾンが言ってたな。てめえの言う『無月』とやらの他にもう一人、化け物じみた力を持った奴がいるってよお〉
〈……星辰の御子、か〉
つぶやく亡霊。だが、当の亡霊にも『彼女』の正体は計りかねていた。あれはただの『星辰の御子』ではない。過去には、月界の『魔』と『御子』の間には何度かの接触があった。しかし、亡霊が霊戦術で『星界の記憶』を確認した限りでは、歴代の御子にそこまで規格外の力があったとは思えないのだ。
〈俺はそれを聞いた時、腹を抱えて爆笑したぜ。なにせ、言ってる当のクリムゾン自身が星界じゃ化け物呼ばわりされるはずなんだからな。てめえの言うとおりに動くのも癪だし、……まあ、そいつだったら戦ってみても面白れえかもな〉
〈……愚かな。今さら月の神に『星辰の御子』を捧げたところで、我らは『真月』には還れまい。神の意志は、我らの中にはないのだから〉
〈神……ねえ。俺らのところで言えば、『魔獄の闘神ゾア』様って奴か? ふん。そんな奴がいるなら、一度戦ってみてえもんだがな。……関係ねえ。関係ねえよ。俺は俺の、俺だけの『本能』のために生きるだけだ〉
獰猛に笑う獣。
通常の『魔』が有する『染色本能』を超越した四月の王たち。
その中にあって、純然たる『闘争本能』を有する紅月の王。
荒ぶる獣。その名は──獄獣王グランアスラ。
〈……呆れたものだ。だが、まあいい。それはそれで意味がある。あの『星辰の御子』の正体を確かめるには、うってつけだろう〉
低くつぶやく蒼き亡霊、霊賢王ミナレスハイド。だが、そのとき。笑い続けていた獄獣王の声が止まる。
〈……ああ? なんだ、てめえ。まだいたのか? 負け犬は見苦しいなあ。おい〉
〈な、なに?〉
己の考えに没頭していた霊賢王は、いつの間にか紅き獣の『腕』が伸びてきていることに、まるで気づいていなかった。星界に己の力を投影し、実体のない亡霊として存在する霊賢王。だが、紅き獣の力強い『腕』は、それをあたかも実体があるかのように鷲掴みにする。
〈ま、待て! 我はまだ、この星界でやることが……〉
〈うぜえんだよ。てめえ、負けたんだろ? 負けた奴はなあ、とっとと退場しろや〉
〈……く、やはり貴様のような野蛮な獣に頼ったのが良くなかったか。とはいえ……幻樹王の行方はようとして知れず、暗愚王はあの有り様だ。だが、我は諦めぬ。いつか、いつか必ず! 我がこの星界を支配して……!〉
〈消えろ〉
ぐしゃりと、何かを握りつぶす音がする。蒼い光は漆黒の闇に消える。
〈さあて! 今の星界に、俺を楽しませてくれる猛者がどれだけいるものか。せいぜい期待させてもらおうじゃねえか!〉
月も浮かばぬ暗い夜空に、紅き獣の咆哮が響き渡る。
次回「第92話 メイドの少女と学院の一日」




