第1話 少年魔王と黒の姉
決して立派とは言えない城門の前に、二人の人物が立っていた。
一人は、少女と見紛うばかりの美しい金髪の少年。
一人は、均整のとれた体つきの妖艶な黒髪の女性。
「……ねえ、ネザク。ここでいいんじゃない?」
女性の方が少年へと語りかける。ネザクと呼ばれた少年は、軽くため息をつく。
「本気?」
「ほんき」
「だってここ、城だよ? お願いしたって寝る場所なんて貸してくれるわけないよ」
「そんなの関係ないわ。ううん、いっそのこと、ここをわたしたちの根城にしましょ」
「占領する気満々だよ、この人……」
金髪の少年、ネザクは呆れたように肩を落とす。
「わたしは眠いの。寝床が欲しいの。ふかふかの……」
「って、こらこら! こんな体勢で寝ないでよ!」
女性は少年を背後から抱きすくめるように腕を回し、その頭に顎を乗せている。黒いローブの上からでもわかる豊かな胸が少年の肩にのしかかり、酷く重そうだった。
「じゃあ、ほら、早くしましょう?」
「はあ、仕方ないな。困った旅人を泊めてくれるような親切な人がいればいいけど……。どうにかお願いしてみるかな」
女性のわがままをあっさりと受け入れつつも、穏便な方法を模索するネザク少年。しかし、黒衣の女性は彼の頭の上でくすくすと笑う。
「『お願い』……ね。上手くいくかしら?」
女性が意味深につぶやくのを聞きながら、ネザクは改めて文句を言う。
「そろそろ離れてくれるとありがたいんだけど……ほら、動きづらいしさ」
「いやよ。……っていうか、何言ってるの? おかしな子ね」
「……なんで僕の方が悪いみたいな言い方なの?」
「抱き枕は余計な口を利かないの」
「……僕って、抱き枕なんだ」
諦めたように息を吐きながら、城門を叩いた。しかし、反応はない。試しに扉を押してみる。開かない。向こうから閂が掛けてあるようだ。
「開かないみたいね」
女性の声は、なぜか楽しげだ。
「うーん、じゃあ、ラスキアに開けてもらうしかないかな? 中に入らないと、お願いもできないしさ」
思案顔でつぶやくネザクを抱え込みながら、女性は身体を震わせている。
「ぷ、くくく……ラスキアって……獄界第八階位の剛魔獣なんか出したら、結果は見えているようなものでしょうに……」
「何か言った?」
「いいえ」
女性は素っ気ない返事をした。しかし、ネザクからは見えないが、彼女は顔を真っ赤にしながら唇をかみしめ、今にも吹き出しそうな笑いを必死にこらえている。
この星界と境を接する四つの異世界──月界
そこに住まう人外の化け物を召喚する術──月召術
四大系統いずれにも属さない、特殊にして強力無比な術式体系。かつて世界を巻き込んだ邪竜戦争においても、化け物と称された五大英雄を除けば、月召術者という存在は、いわゆる切り札的な戦術兵器としての扱いを受けていた。
ましてや召喚されるのが階位一桁台の『魔』ともなれば、地方の小さな城どころか、城塞都市の一つや二つは、簡単に制圧できてしまうだろう。
ネザクは、たかだか目の前の門を開くためだけに、そんなものを呼び出そうと言う。自分では常識人のつもりでも、こういった感覚が致命的にずれていることに、彼はまるで気付いていない。
「よし、ラスキア。出ておいで」
ネザクは、近所の友達に呼びかけるような気楽さでソレを召喚する。本来なら月界への呼びかけに必要な詠唱も破棄され、召喚術式の構築に必要な魔力制御すら、呼吸するように済ませている。
剛魔獣ラスキア──獄界には、獣型の『魔』が多く住まうと言われているが、中でもこのラスキアは、極めつけに『力』そのものに特化した魔獣として知られている。
虚空に現れた裂け目。その縁に手をかけるようにして、人型の獣が姿を現す。獅子のたてがみに金色の肉体。強靭な顎に鋭く並ぶ牙。剛毛に覆われた両腕は、筋肉の形がはっきりとわかるほど隆起している。その外皮はあらゆる武器を受け付けず、その怪力は文字どおり、城塞さえも打ち砕く。
「じゃあ、これ、開けてくれるかな?」
〈承知した〉
ラスキアは、ネザクに『返事』をした。
──ところで、城門につながる城壁には、内部通路が存在する。
城壁には覗き穴にもなる矢狭間があり、当然中には様子を窺う守備兵たちがいた。本来なら無断で城内に押し入ろうとする者があれば、それを防ぎ止めるのが彼らの役目だ。とはいえ、このときばかりは彼らの職務怠慢を責めるのは酷だと言うべきだろう。
「こ、言葉をしゃべった? ま、まさか……災害級の『魔』?」
人語を解し、言葉まで操れるのは、時に『災害級』とも呼ばれる階位一桁台の『魔』のみだと言われている。
「う、うそだろ……。こ、こんなの勝てるわけない! ど、どうしてうちの城に!」
剛魔獣が片手を伸ばし、城門を押し始める。すると固く閉ざされたはずの城門は、かけられた閂ごと軋むような音を立てて破壊されていく。外敵の侵入防止用に設けられた城門が、無造作に片手で押されただけで砕け散る。守備兵の彼らにとっては、まさに悪夢のような光景だ。
「ひ、ひい!」
守備兵たちは震える足に鞭打つと、脱兎のごとく逃げ出した。
それから結局、ネザク少年の『お願い』は、城主一族と守備兵全員を剛魔獣の姿ひとつで追い払うという形で、叶えられることとなる。
「……何で逃げるのさ?」
納得がいかない顔のまま首をひねるネザク。黒衣黒髪の美女はそんな彼を抱きかかえ、鼻歌混じりに城主の寝室へと歩いていく。
「うふふ! さあ、寝るわよ!」
彼女の名は、カグヤ・ネメシス。黒魔術の使い手たる黒の魔女。彼女は今宵もお気に入りの『抱き枕』を抱えて、眠りにつくのだった。
──この世界には、『魔王』の伝説がある。
人知を超えた強大な力を振るい、平和な世界を無惨にも蹂躙する侵略者。闇から生まれ、流血をすすり、死肉を喰らい、他者の恐怖や絶望を愉悦と為す悪魔。人々が生きるこの星界のみならず、四つの月界すべてを支配する暗黒の覇王。
だがそれは、お伽話の中でのみ語られる存在だ。『魔王』という言葉自体、日常においては、「悪い子にしていると魔王が来るぞ」などと、親が子供をしつける際に使われるのが関の山。誰もその実在など、信じてはいない。
──大陸の西端にこじんまりと存在する、リールベルタ王国。地理的にも資源的にも各国から価値を見いだされず、無価値であるがゆえに独立を維持するこの国には、人々から『魔王』と呼ばれる少年がいた。
少年自身は、れっきとした人間だ。人外の化け物だというわけではない。彼が魔王と呼ばれるのは、人に在らざるモノ──『魔』を自在に召喚し、操るからだ。
『魔』を従えるもの──すなわち『魔王』。
彼が居城としているキルシュ城は、リールベルタ王国でもさらに辺境に位置している。
だが、後に星界全体を揺るがす大事件となった少年と少女の物語──その始まりのひとつは、この辺境の地から動き出すことになる。
あれからしばらくの間、ネザクは逃げ出さなかった(正確には「腰が抜けて逃げ出せなかった」)使用人たちに身の周りの世話を『お願い』しながら日々を過ごしていたのだが、それも長くは続かない。
きっかけは、カグヤが城下町から持ち帰った、とある噂だった
「え? 僕ってそんな風に呼ばれているの? なんで? うそ? どうして?」
静まり返った城内の一室。自分に関する思いもよらない評判を聞かされた少年は、きょとんとした顔で目を丸くしている。彼のすぐ傍には、周囲の空気をひりつかせるような迫力を備えた羊頭の魔人が、ひっそりと控えていた。
「何をそんなに驚いているのよ」
その声の主は、会食用テーブルに相向かいに座るカグヤだ。長く黒い髪は、全身を覆う漆黒のローブに溶け込んでいる。それとは対照的な白い肌がなければ、まるで闇そのものであるかのようだ。
「いやいや、おかしいって。……魔王だよ? ま・お・う! 実在の人物にそんな仇名を付けるとか、いったいどんないじめなんだよ」
「ふふふ、わかってないわね」
カグヤは左腕をテーブルの上に投げ出し、その上に顔を傾けて乗せている。どこからどう見ても、だらしなく、はしたない姿。だが一方で、テーブルの上に広がるつややかな黒髪は、男なら思わず息を飲むほどに艶めかしい。
「カグヤには、何がわかってるって言うのさ?」
少年の外見は、驚くほど若い。まだ十代も前半と言ったところだろうか。細かい刺繍の施された上等な服を、着崩したように身に着けている。絹糸のように繊細な金の髪に、深みのある青い瞳。顔立ちは整っていて、愛嬌もある。
魔王ネザク・アストライア。
外見だけ見れば誰からも愛されるだろう少年の名は、しかし、このキルシュ城の城下町においては、禍々しい『魔王』の呼称と共に流布していた。
「この城に来たとき、自分がどうやってここの人たちを追い出したか、思い出してごらんなさいよ」
「う……、追い出したって……勝手に逃げちゃっただけじゃん。まさか、今頃になって逃げた人たちが騒ぎだしたって言うの?」
「そんなわけないでしょ」
「じゃあ、なにさ? 僕、そこまで言われるほど酷いことをしてきた心当たりがないんだけど」
ネザクは、納得がいかないと言いたげに首をひねる。一方のカグヤは、テーブルに突っ伏したまま、眠たげな顔で卓上に指を這わせていた。
「もちろん、わたしが広めてあげたのよ。あなたの噂を。あることないこと、色々と尾ひれをつけてね」
「……アンタが諸悪の根源か!」
ネザクは、それまでの大人しさをかなぐり捨てて叫んだ。
すると、それまで横向きにネザクの顔を見上げていたカグヤが、勢いよく身体を起こす。そして、にんまりと笑いながら両手を胸の前で合わせ、軽く傾けてみせた。
「うふふふ! さあ、面白くなってきたわ。魔王ネザクが目指すは……世界征服よ!」
「いつの間にそんな展開に!?」
「ほら、そんな大声出さないの。心配しなくてもいいわ。これにはちゃんと、深いわけがあるんだからね」
「深いわけ?」
黒い瞳に意外なほど真剣な光をたたえて見つめてくるカグヤに、ネザクは驚いた顔で訊き返す。するとカグヤは満面の笑みを浮かべ、頬に人差し指を当てながら言った。
「……実は、お姉ちゃんね。……世界中の、おいしいものが食べたいの!」
「うん! 溜めた割にはビックリするほど浅い理由だね!」
ある意味、予想通りとばかりに叫ぶネザク。カグヤは、そんな彼に悪戯っぽい視線を向ける。
「そもそもあなた、前に自分が騎士団の討伐隊を追い払ったことを忘れているんじゃないかしら?」
「討伐隊? そんなの来てたっけ? そう言えばこの前、エトルクに出迎えをしてもらった客はいたと思うけど……」
ネザクが不思議そうに言った言葉に、カグヤの動きが止まる。
「……ほら、それよ。馬鹿でしょ、あなた」
「なんでだよ」
カグヤに馬鹿だと決めつけられ、口をとがらせるネザク。
「どうしてそこで、霊界第七階位の亡霊騎士をけしかけるわけ?」
かすり傷ひとつで命を奪う、《死の剣》を携えた蒼い亡霊騎士エトルク。先に名前の出たラスキア同様、災害級の『魔』であり、並の術師が召喚・契約できる相手ではない。
「別に、けしかけたわけじゃないよ。しょうがないだろ? ちょうどお願いできそうだったのが、彼だったんだからさ」
「そういうことを言っているのではないわ。あなたにはリゼルがいるでしょう? それなら、たとえ追い払うだけにしたって、もっと穏便にできたでしょうに」
カグヤは、闇に溶け込む黒髪を白い指先でさらりと梳いた。
カグヤが確認した限り、やってきた騎士たちは、中央政府が派遣してきた部隊だという話だ。辺境の小さな領地とはいえ、得体の知れない人間が領主の城を占拠しているとなれば、放置しておけなかったのだろう。
だが、騎士たちは油断しきっていたようだ。何の事前情報もなく意気込んでやってきたところに、まさに理不尽ともいうべき化け物が現れたのだ。その恐怖のほどは、推して知るべしだ。
彼女は、容易に想像できたその光景をとりあえず頭から追い払う。
「その時は、リゼルが近くにいなかったんだよ」
「……そう、ちょっとタイミングが悪かったわね」
そう言って、カグヤはネザクの傍らに控える魔人に視線を向けた。
魔人は軽く顔を傾けたまま、ネザクを見ている。
一見して羊頭の化け物にしか見えない彼──否、『彼女』の身体は、執事服の上からでもはっきりわかるほど、女性特有の曲線を描いていた。
羊頭に見えたそれも、よく見れば本物そっくりの造り物だ。黒く濁ったガラスの目。半開きの口から覗く赤い舌。被り物の類としてはリアル過ぎ、不気味極まりない代物だ。
だが、仮に彼女の正体を聞かされたならば、この星界の誰もが、そんな外見のことなど些細な問題に過ぎないと思うことだろう。
──暗愚王リゼルアドラ。
四つの月界の中でも、最も凶悪な『魔』が住まうとされる暗界。その第二階位ともなれば、ある意味、神にも近しい力を有する化け物だ。数百年前の大災害『ルナ・ハウリング』において、星界全土を恐怖と絶望の淵に追いやったと言われる伝説級の『魔』。
そして、そんな化け物が特に嫌がるふうでもなく、黙って少年に付き従う様は、異常を通り越して滑稽ですらあった。
「それより、どうするんだよ。討伐隊のことはともかく、そんな評判が立っちゃったら、普通に暮らしていけないじゃないか」
「『ともかく』じゃなくて、それが致命傷だったと思うわよ。でも、今さら『普通』なんて無理に決まってるでしょ?」
「うう、そりゃそうだけど……」
しょんぼりと項垂れるネザク。そんなところは年相応の少年といった様子で、なんとも微笑ましい。しかし、傍らで凄まじい威圧感を放ち続ける『暗愚王』の存在が、すべてを台無しにしていた。
「ほら、ここまで来たら覚悟を決めなさいよ」
そんな異様な空間で、何事もないかのようにカグヤは笑う。
「覚悟を決めるって……本気?」
「まじ」
「魔王だよ?」
「魔王よ」
「はあ……。どうしてこんなことに……」
「ほら、ため息なんかつかないの。あなたのためなんだから、ね? ……あ、ついでと言ったらなんだけど、わたしの美容と健康とお洒落と安眠と美味しいご飯のことも、忘れちゃ駄目よ?」
「明らかにカグヤの欲望最優先だよね!? 押し付けがましい割には、『僕のため』がまったくないんですけど!?」
叫んだネザクは、せめてもの反抗とばかりに視線を脇に逸らし、わずかに口をとがらせる。そんな彼の子供っぽい仕草に、カグヤは熱を帯びた視線を向けていた。
「……かわいい」
「え? 何か言った?」
カグヤは、我に返ったように首を振った。
「あ、ううん、なんでもないわ。……それより安心して」
「なにが?」
「お姉ちゃん……性欲だけは、ネザクのために取っておいてあげる!」
「よりにもよって、なんでそれを取っておくの!?」
びしっと指を突きつけて高らかに宣言するカグヤに、顔を真っ赤にして叫び返すネザク。それを見てカグヤは、意地悪そうにクスリと笑う。
「……いい? あなたには目的が必要だと思うの。どんなことでも『出来てしまう』あなたには、到底出来そうもないことに挑戦してみるのがいいんじゃないかな」
「ふ、ふうん……なんだよ、急にお姉さんぶっちゃってさ」
「施設にいた頃から、わたしはあなたのお姉ちゃんなのよ? 当然じゃない」
「……世界征服か。でも、何をしたらいいんだろう?」
ネザクは首を傾げている。実際のところ、何をしたら『世界を征服した』と言えるのか、彼にはさっぱりわからない。というか、いつの間にか世界征服が前提となっていることに、彼は気付いていなかった。
「そうねえ、世界中の人たちを『魔』を使って皆殺しにするとか?」
「なるほど……って、そんなわけないでしょ!」
一瞬納得しかけたネザクだが、すぐに否定の言葉を叫ぶ。
「冗談よ。ちゃんと計画はあるわ」
「いや、カグヤが言うと冗談に聞こえないから」
唇から赤い舌をちろりと出してみせるカグヤに、ネザクはげんなりとした顔で応じる。
「とりあえず、統治なんて面倒だし、最初はこの国の王様ふん縛って、この国はネザクのものですって宣言させるの。そしたら次の国に行く。その繰り返しでいいんじゃない? その方がわたしも楽だしね」
「……僕の魔王化計画がすごく手抜きなんですけど!?」
ネザクの叫びにカグヤは、けらけらと笑っていた。
次回「第2話 英雄少女と星霊剣士」