74、好きよ、リホちゃん
74、好きよ、リホちゃん
地面に倒れる男の傍に、マドちんがシュタッと着地した。
「リホちゃん!」
駆け寄ってきたマドちんに助け起こされる。倒れたときにズレた眼鏡を掛けなおすと、やっぱりマドちん。紛うことなく、マドちん。
呆気にとられる私を、マドちんが抱きしめてきた。頭ごと。あのときみたいに。
「春風マドカぁ」
憎々しげな呻き声にハッとなる。けれどマドちんは舌打ちして私を離すと、「またアンタ?」と心底不機嫌そうな態度で言った。
「こんなことして、分かってるんだろうな」
「なによ」
「全部書いてやるっ、暴力振るわれたこともだっ」
「そっちが先に振るったんでしょ!」
自分を棚に上げての発言に唖然とするしかない。立ち上がって一緒に抗議しようとした私の肩に、誰かの手が置かれた。
「オッサン、俺も見てたけど、先に手ぇ出したのアンタでしょ」
手の主は神谷だった。岩迫君まで家の前にいる。どうして戻ってきたのか、不思議そうにしている私に岩迫君が教えてくれた。
「春風が走っていくのが見えたから。吉村の家の方向だったし、気になって引き返したんだ」
「マドちんはなんで」
「後で話す。それよりアンタ、リホちゃんのこと書いたら許さないからね」
男が嫌な笑いを浮かべた。この状況、私、いやマドちんにとって悪すぎる。そっちが先に手を出したくせに、私だけじゃなくて、マドちんのことも悪く書くつもりだ。
「大丈夫だよ、リホちゃん」
悔しさに歪む私の頭にぽんと手が乗った。神谷がゆっくりとした足取りで男に近づいていく。ぼ、暴力は駄目ですよっ。
男が警戒感を滲ませた様子で後ずさった。次の瞬間、背中を向けて走り出す。
「逃がすかっつーの」
男の両脇の下から腕を入れて拘束した神谷は、暴れる男に何発か膝蹴りを入れた。
「岩迫! こいつの鞄探れ。名刺か免許証がある筈だから、それ見つけろ」
「分かった。でも命令するな」
共謀、いや、まさかの共闘にぎょっとする。諌めるどころか積極的に男の鞄を探った岩迫君は、さきほど見せられた名刺と、そして財布の中から免許証を見つけ出した。
「二つ並べて写真撮れ」
神谷の指示に従い、名刺と免許証を道路に縦に並べると、スマホを取り出して撮影した。その間ずっと男が喚いていたが、マドちんが鞄の中にあったハンカチを丸めて口の中に突っ込むと静かになった。
「オッサン、SNSでこの写真拡散したらどうなると思う? そうだなあ、一緒に乗せるコメントは『横暴な記者に暴力振るわれた』とかどうだ」
「『無理矢理家の中に入られそうになった』も付け加えて」
男がうーうー唸って首を横に振っている
「そんなことしてない? だから何よ、いつもアンタがやってることでしょ」
「ていうかこれって警察に届けたほうが早くないか? 傷害に、えっと、住居侵入? だっけ」
「岩迫にしちゃいいこと言うな。よっしゃ、それも行こうぜ」
「私、証言するわ」
「通報しろ、通報。俺は今からアカウント作って拡散する」
どっちもするんだ。オッサンが今、社会的に死のうとしている。
「あの、あの、ちょっと待って!」
それぞれが自分の仕事をこなそうとしているところに声を上げて止めさせる。自業自得なのは分かっているけど、でも他にもやりようはあると思った。
自分の人生が風前の灯となっている男の目の前に立つ。私は倒れたときについた手をぱっと見せた。
「手首、捻りました。診断書を取りに行きます」
男の顔が絶望に染まった。
「さっき撮った写真も保存します。あ、ちょっと待っててください」
急いで家の中から朱肉を持ってくる。鞄を漁り、ノートとボールペンと下敷きを出して、はい、と男の前に差し出した。
「これから先、二度とマドちんの記事は書きませんってここに書いてください。守ってくれたらSNSにも公開しないし、警察にも届けません」
念書というやつである。話には聞いていたけど、ちゃんとした書き方は知らなかったので、岩迫君に頼んでスマホで調べてもらった。便利な時代になったもんだ。
男は割りと素直に念書に合意した。まあ今から警察に突き出されることに比べたら、大概のことは許容できるだろう。
隔して、男は念書を取り交わすと捨て台詞ひとつ吐くことなく逃げ去っていった。
ひとり、マドちんだけが納得いかないという顔をしていた。もっと喜んでもいいんだけどな。
「こっちのほうがずっといいよ。あ、今まで書いた記事は嘘でしたって訂正するように言っておけばよかったね」
「リホちゃん」
「今から追いかけよっか。神谷さーん、走ってさっきの男捕まえてきてください」
「岩迫が行くってさ」
「俺、そんなこと一言も言ってませんけど」
ガンの飛ばし合いをはじめた男二人を放置して、マドちんの手を引っ張る。家の中に入れようとしたんだが、抵抗されてしまった。
「私に用があって来たんじゃないの?」
「そうだけど。言いたいこと、ひとつだけだから」
擦りむいた手のひらをそっと握られた。沈黙が落ちる。なあに、と声を掛けると、マドちんの眉がぎゅっと寄って、泣きそうな表情になった。
「おばあちゃんがね、」
心臓がドクリと鳴った。まさかという思いが彼女に伝わる。
「手術、できることになったの。先生が、見つかったの、だから」
一気に力が抜けた。はあああと息を吐き出しながらしゃがみこむ。
「よかったあ」
「ちょっともう、死んだと思ったの?」
「だってマドちん、思わせぶりに言葉を切るから」
「ずっと具合が悪かったのは本当よ。今日も、熱が出たって連絡が来たの」
いつだって不安だったんだろう。クラメイトとお喋りしている間もずっとスマホを握って離さなかったのを思い出すと、マドちんのことが急にいじらしく思えた。
「リホちゃんにだけは伝えたかったの。リホちゃん、私、私ね」
言いかけて、けどそれを飲み込んだ。首を横に振ったマドちんは私の手を離し、家から離れていく。
「ひとつだけって言ったっけ。バイバイ、リホちゃん」
引き止める間もなく、マドちんは行ってしまった。追いかけようとしたが、男二人が罵り合いから掴み合いに発展していたので断念した。
***
翌日のホームルームで、私たち二年六組の生徒は、マドちんが転校することを知らされた。
いつとは教えてくれなかった。でも、もうこの教室に戻ってくることはないと茂木先生は断言した。
ざわつく教室の片隅で、私は昨日会ったマドちんのことを思い出していた。
バイバイ、リホちゃん。
あれが本当の別れになるなんて、そりゃないよ、マドちん。
***
アイドルが学校を去って数日、私や岩迫君にまつわる噂は、びっくりするくらい小さくなっていた。
無責任に騒いで、無責任に飽きる。突然家の中に居座られて、散々飲み食いした挙句に散らかして帰られたような気分だ。誰も責任を取らないどころか、悪いとも思っていないからタチが悪い。
怒ってたってどうしようもないけど、泣き寝入りするしかないってのもなんだかなあ。マドちんは常にこういう状況に晒されているのだと思うと、アイドル辞めて帰ってこい、と無責任にも言いたくなる。
ていうかそろそろだと思うんだけど。二番目の信号を右に曲がって三番目の角を左に、しばらく歩くと古めかしい平屋の住宅が見えた。すでに日は沈み、暗くなった夜道の真ん中に誰かが立っている。灯りのついた家をじっと見つめていた。
「マドちん」
近くまで行って声を掛けると、マドちんがびっくりして振り返っていた。再会したときの私、こんなだったのかな。まあマドちんのほうが遙かに可愛いけど。
「マネージャーさんに連絡して聞いたんだ」
最初にもらった名刺が役に立った。平瀬さん、ありがとう。
「マドちんの家、懐かしいなあ」
「初めて来たとき、私のお母さんに追い返されたの覚えてる?」
「覚えてない」
「なんで忘れるかな。私のお母さんにクソババアって言ったのが原因でしょ」
「えええ」
「私がお母さんに叩かれたから、リホちゃん怒ってそう言ったのよ」
おぼろげな記憶が蘇ってくる。なんかもの凄くくだらない理由で小学一年生だったマドちんを叩いた女の人に罵りながらローキックを繰り出したような……っう、頭が、なんつって。
「昔のリホちゃん、ショータ君そのものだったよね」
「記憶にないな! 間違いではないかな!」
「都合の悪いことは忘れるんだから。自分からはあまり喋らないし、いっつも不機嫌そうな顔で黙り込んでたじゃない」
それはただ人見知りしてただけでは? 小さいころの私はそれを隠す術を持っていなかったから、知らない人間に囲まれると怖くて黙り込んでいた気がする。
「一緒に私を無視しようって誘ってきた女子を泣かせたのは、リホちゃんの睨みつけてる顔がショータ君にそっくりだったからよ」
「何年生のときの話?」
「四年生」
急激に視力が悪くなっていたころだ。
よく見ようと目を凝らせば、そりゃ人相は悪くなる。兄に似ているとまでは思ってないけど、その泣いた女子こそ目が悪かったんじゃね。
「あーあ。やっぱりリホちゃんはすごいな」
「すごい? どこが?」
「だって私、リホちゃんが嫌いって言ったのに普通に話しかけてくるんだもん」
「いやいや、それを言うならマドちんこそ助けてくれたよね」
あの見事な飛び蹴り、惚れ惚れした。あとパンツ見えた。そう言うと、マドちんは両手を頬に当てて後ろを向いてしまった。恥ずかしがり方まで可愛いんだな。
「……ひどいことを言って、ごめんね」
静まり返った住宅街、マドちんのただでさえよく通る声ははっきり聞こえた。
「リホちゃんが大嫌いっていうのは、半分嘘で、半分本当」
「半分はなんでか訊いてもいい?」
マドちんはこっちに背中を見せたまま理由を語りだした。
「幸せそうなリホちゃんを見てるとね、自分が惨めになるの。リホちゃんにとっての当たり前が、私は欲しかった。いきなり怒って私を叩かないお母さんとか、家に帰ってくるお父さんとか、喧嘩の強いお兄ちゃん、ワガママな妹とかね」
くすり、笑ったのかマドちんの肩が震えた。
「でも一番欲しかったのはリホちゃんよ」
「私?」
「そう。好きで好きでたまらなくなるとね、相手を困らせたくなるの。苦しんでる顔も見たくなるのよ。だから酷い言葉で傷つくリホちゃんを見てると、罪悪感と快感で、私どうにかなっちゃいそうだった」
……ん? なんか、んん?
「マドちん?」
くるっとこちらを振り返ったマドちんはイタズラが成功した子供みたいな顔で笑っていた。なんだ冗談か。
そのとき、目の前の家から兄弟喧嘩をする声が聞こえてきた。それを仲裁する母親、そして父親の声が、外にいる私たちの耳にも届く。
「楽しそう。何人兄弟なのかなあ」
「自転車二つあるよ。二人兄弟っぽいね」
お兄ちゃんのバカぁああと弟らしき泣き声が聞こえて、私たち二人は顔を見合せて笑いを堪えた。
「また転校、するんだね」
「うん。でも今度はおばあちゃんも一緒よ」
「うちに遊びに来ればよかったのに」
「嫌よ。ショータ君がいるもん」
「会いたいんじゃなかったっけ?」
「ショータ君に一回は喧嘩売るつもりでいたから。でももういいの」
喧嘩? なんのこっちゃと思っていると、マドちんのスマホが鳴った。
「平瀬さん、来たみたい」
画面を確認すると同時に、少し離れた場所に車が止まった。運転席から手を振るのは、マネージャーの平瀬さんだ。
「リホちゃん」
「え、うおおお!」
正面から抱きしめられて、咄嗟のことに反応できず後ろの電柱にぶつかった。その際、マドちんの柔らかな唇が頬にプニッと当たった。
マドちんの肩越しに平瀬さんが見える。彼は頭を抱えていた。
「じゃあ、行くね。リホちゃん、最後に会えて嬉しかった」
ぱっと体を離した幼馴染は、車に向かってスキップするような軽快な足取りで走っていった。
これが本当のお別れになった。
***
コタツの上で、三人兄妹まったり中。
ちなみに今日、両親からの年賀状が元旦からおよそ一ヶ月遅れで郵送された。堂々と『あけましておめでとう』と書ける神経の太さにはいっそ感動する。
「リホ、炭酸とって」
「自分でとるか、お茶にしてよ」
「えー兄貴ーとってー」
「寝てる」
テレビ番組を順番に変えていく。観たかった番組は特番に潰されていた。切ろうとした瞬間、スマホをいじっていた妹が声を上げた。
「マドちゃん、出るって」
「え、どこ」
チャンネルを合わせると、熱愛報道から初めてテレビに出演するマドちんが画面に映し出されていた。バラエティ番組で、芸人や俳優がひな壇にずらりと並んでいる。マドちんは最前列に座っていた。
『マドカちゃん、ついにコレやられたね~』
番組冒頭、週刊誌に何度かスクープされている司会者の芸人が、カメラを撮る仕草をしながらさっそくマドちんをイジりはじめた。
『ほんとビックリしました。いきなり目の前に走りこんでくるから、えっ、変質者!? って二人ですっごいビビって後ずさっちゃって』
『そっちのビックリかいな』
言葉を濁すどころか、当時の様子を面白おかしく話すマドちんに、スタジオは明るい空気になる。
『ていうか、前と後ろにスタッフさんたちが大勢いましたからね』
『でも二人でくっついて歩いてたんでしょ?』
毒舌と言われている俳優が意地悪そうに訊いてくる。やめなさいよ、と芸人たちがツッこむ中、マドちんはニコニコ笑って頷いた。
『恋愛相談を受けてましたから! スタッフさんに聞かれてもまずいですし』
噂になったのは人気のある若手俳優だ、その意中の相手が気になるところだが、マドちんはうまく話題転換した。
『ところで私、初恋の子に最近会えたんですよ~』
『キミんとこ、恋愛禁止とちゃうん?』
『私の片思いですから、セーフです。それに、ひとの心に制限なんて掛けられないでしょ?』
この発言、大丈夫だろうか。ヒヤヒヤしたが、マドちんはどこ吹く風というやつで、初恋の子について語る語る。
ふと、相手は誰だろうかと気になった。小学校時代、マドちんから好きな男子の話なんて一度も聞いた覚えがない。でも所々で記憶が欠落している私のことだ、忘れている可能性が大いにある。
『昔ね、引っ越しする日にその子と家出を計画したんです。でも直前で親にバレちゃって、どうしても行けなかった。せめて待ち合わせ場所の近くを通ってもらったんです。そしたら』
『いたの?』
『はい! 約束の時間から二時間もたってたんですけど、帰ってなかったんです。泣きそうな顔で周りをきょろきょろ見渡してて、ああ、私のこと待っててくれてるんだなあって嬉しくなって』
マドちんの目が潤む。私とカナ、いつの間にか起きていた兄が、テレビに見入っていた。
『五年たってもその子は全然変わってなくて、私の好きな人のままだった。だから私、アイドル辞めてその子に告白しちゃおうって思ったんですけど』
流れ落ちそうになる涙をそっと指で押さえながらの発言に、スタジオからえええと悲鳴が飛び出す。
『でもファンの皆のために、ちゃんと戻ってきました! だからCD買ってね! キャハ!』
『オイコラ嘘泣かいな!』
司会者が全力でツッコむ。スタジオが笑いの渦に包まれる中、私はなんともいえない気持ちでもぞもぞとコタツに入りなおした。
カナが「初恋って誰!? 知ってる!?」と詰め寄ってきたが、知らない、と答えるしかなかった。これはマドちんによる高度なジョークなのか、本気なのか、真相は薮の中である。
カナがトイレに立ってすぐ、兄が吐き捨てるように言った。
「あのクソアマ」
「兄ちゃん?」
「昔、家に来たとき俺に言いやがったんだよ。リホに悪影響だから近づくなって。大人しい顔して、あのころからかなり性格キツかったぞ」
「マドちん……」
私の知ってる泣き虫な幼馴染は、果たして本当の姿だったのだろうか。あの頃から彼女はすでに女優の片鱗を見せていたのかもしれない。
画面の中では、マドちんが満面の笑みで、今度主演する映画の番宣をやっていた。
***
登校して教室に入ると、クラスメイトは久しぶりにマドちんについての話題で盛り上がっていた。再会した初恋相手の正体に、皆は興味津々のようである。
「甲斐君おはよー」
「おはよ。昨日のテレビ観たか?」
「観た。マドちん出てたね」
「初恋相手に心当たりは?」
「まったくない!」
聞き耳立てていたクラスメイトはなーんだと顔を戻して、違う話題に移っていった。
「吉村、数学の問題教えて!」
「久しぶりに切羽詰っていますな」
登校してくるや否や私の席までやってきた岩迫君は、数学の問題集を開いて泣きついてきた。
「今日当てられてたの忘れてた! ヤバイっ、もう時間ない!」
「隣の席だったら授業中でも教えてもらえたのになあ」
「そうだよ! 甲斐、今からでもいいから代われよ」
「とか言ってるけど?」
「絶対駄目だからね。甲斐君は私の近くの席じゃないと生きられないカラダになってるからね」
「俺もだもん!」
「岩迫のキャラ崩壊が最近著しいな」
喚く岩迫君に、一時的に甲斐君は押しやられてしまった。いつもどおり、ここがこーであーでと教えていると、スマホが二回震えた。メールだ。
『リホちゃんは、私が好き?』
マドちんからだった。絵文字も何もない、シンプルで、けれど切実な想いを感じる一文。
目を瞑ると、記憶が鮮やかに甦ってくる。色も、匂いも、音さえも。
赤いランドセル、おばあちゃんの手作りお菓子、まどちんと一緒に見た夕日。
「好きだよ」
目を開けると、岩迫君が首から上を真っ赤にしてこっちを見つめていた。
すぐに誤解を解くのも可哀相なので、私は何もなかったみたいに解説を再開した。彼の震える指先が、可愛いと思ってしまったのは内緒だ。