73、ユア マイ サンシャイン
「リホちゃんはいいなあ」
二人で一緒に帰っているときだった。足を止めて隣を見ると、マドちんはいなくて、こっちに背を向けて公園に入っていく背中が見えた。寄り道するのかな。珍しいと思いつつ、後をついていった。
いつも誰かが使っているブランコが、その日に限って空いていた。私はランドセルを地面に置いて、ブランコに乗った。マドちんは座るだけで、漕ぎ出そうとはしなかった。
「私の何がいいの?」
立ち乗りでブランコを漕ぎながら、マドちんの頭を見下ろした。私の短いくせっ毛と違って、マドちんのそれは真っ直ぐ伸びていて羨ましい。男の子に引っ張られるのは嫌だけど、綺麗でいいなあと思う。
「ショータ君がいるところ」
「兄ちゃん?」
「うん。ショータ君がいるから、皆、リホちゃんに優しいんだよ」
それじゃあまるで、兄がいなければ誰も私に優しくしてくれないみたいじゃないか。
言い返してやろうかと思ったけどやめた。マドちんはそんなつもりで言ったんじゃないかもしれない。けど、どうしてだろう、幼馴染の言葉は私を不安にさせた。
胸に生まれた澱みを吹き飛ばすように、体が投げ出されるギリギリのところまでブランコを漕いだ。もっともっと漕げば一回転できる気がするんだけど、想像するだけで絶対に実行はしない。でも兄に頼んだらやってくれるだろうか、やってくれそうだ。
「でもさ、マドちんにはおばあちゃんがいるじゃん」
遊びに行くたびに優しく迎えてくれてお菓子やジュースを振舞ってくれる。怖くて厳しいばかりの私の祖母に比べたら、絶対にマドちんのおばあちゃんのほうがいい。
羨ましいなと言うと、なぜかマドちんが泣き出した。わああん、わああん、とそれはもうひどく泣いて、私はブランコから降りてすぐにでも慰めたかったけど、ブランコは急には止められない。ぶらぶら揺れながら、どうしたの、泣かないでよ、と声を掛けることしかできなかった。
やがてブランコから降りられるくらいの高さになる頃、マドちんは自力で泣き止んでいた。真っ赤になった目を私に向けて、言った。
「私、引っ越すの」
「え」
「学校も転校するの」
「うそ」
揺れるブランコに座り地面に足をつけると、ザリザリと音を立ててブランコは止まった。マドちんの目にまた涙が盛り上がる。今度は静かに泣き出した親友の顔を、私は呆然と見つめ続けた。
「お父さんとお母さん、離婚するんだって」
「リコン」
「私、お母さんについて行かなくちゃいけないの」
リコン、リコンってなんだ。ドラマだけの架空の話じゃなかったのか。
「おばあちゃんと一緒に暮らしたい、リホちゃんと離れたくないよ」
立ち上がったマドちんが私に抱きついてきた。ブランコが緩んで軋んだ音を立てる。鎖を握っていなかったから、二人で後ろに倒れこむくらいの勢いだった
肩がじんわりと熱くなる。涙が服に染みこむ感触に身をよじると、顔を上げたマドちんと至近距離で目が合った。大きくて潤んだ瞳が私をじっと見つめていて、必死に何かを訴えかけていた。
「マドちん、」
幼馴染の手が、痛いくらいに肩へと食い込んでいた。離してと言ったけど緩まなかったので、私は仕方なく我慢した。
「リホちゃんは、私が好き?」
「好きだよ」
いつもの遣り取りだった。思い出したように訊いてくるマドちんと私の確認作業。
「じゃあ一緒に逃げて。家出するの」
ぽっと口を開けて幼馴染を凝視すると、可愛い顔が近づいてきて、私を頭ごと抱きしめてきた。柔らかい胸が頬に当たって眼鏡がずれ、マドちんの速すぎる心臓の鼓動が聞こえてきた。
「リホちゃん、大好き」
***
雪の降る勢いが、強くなっていた。
「あのころ、私がどれだけ惨めだったか分かる?」
笑っているのか泣いているのか分からない、複雑な表情だった。マドちんは学生鞄を抱きしめ、搾り出すような声で言った。
「何もしてないのに、すぐ泣くからとか、声が小さいからとか、そんなくだらない理由で苛められてた私の気持ち、リホちゃん、分からないでしょう?」
「マドちん、」
「気づいてすらいなかったんだから、分かるわけないよね? でもね、リホちゃんも私と似たようなものだったんだから! 地味で、運動もできなくて、なのにリホちゃんが苛められなかった理由、知ってる?」
大粒の雪がどんどん目の前のマドちんの髪に降り積もっていく。
「ショータ君がいたからよ! 皆怖くて、リホちゃんだけは苛めるのやめようって言ってたもの! ショータ君がいなかったら、私と一緒よ! リホちゃんなんて」
全然大したことないじゃない。
言われた台詞に聞き覚えがあった。誰が言ってたんだっけ。ああ、私か。
「だから私の友だち、取ろうとしたの?」
キタちゃん、部活、クラスメイト、それから岩迫君。
証拠なんてない。それこそ被害妄想だと言われても仕方ない。けれどマドちんの顔を見ていると、彼女が今の私を取り巻く環境をわざと作り出したんじゃないかという疑念が、いや確信が生まれた。
「噂が流れるように、わざと見せ付けたの?」
「だったらなんだって言うのよ」
吐き捨てる。ギラギラと光った目が私を憎いと告げていた。
「いっぱい持ってるんだから、ちょっとくらい私にくれたっていいじゃない!」
華やかな世界に住む彼女が、私の何を羨むっていうんだ。恨みに思う、何があるっていうんだ。
マドちんの言うとおり、私なんて大したことない。兄がいなければ誰も近づいて来ないことなんて、高校一年のときに把握済みだ。
どこにでもいるような女子高生と、たくさんのファンに支持されスポットライトを浴びるマドちん。比べるまでもない。マドちんの、勝ちだ。
なのに、言ってる。まだ足りないって。言葉にはしてないけど、マドちんは叫んでいる。
ブランコの鎖を握りしめて泣くマドちんが、ふと目の前の彼女と重なった。
そのとき、私の気持ちもまた過去に戻っていくのが分かった。
「あの日、橋の上に行ったよ」
彼女は目を見開いて動きを止めた。長い睫毛に雪がひっかかっていた。
「ずっと待ってたよ」
瞬きすると、雪は溶けて消えた。何度も積もっては消えるを繰り返すと、マドちんは甲高い声を上げて笑いだした。
「バッカじゃないの? 私が行くわけないでしょ? ずっと嫌いだったんだから!」
「うん、来なかった」
着替えと、貯金箱に入れていたお金とお菓子、お気に入りの漫画。リュックに詰めて持ち上げるとめちゃくちゃ重かったから、漫画を抜いて家を出た。
待ち合わせ場所の橋の真ん中に立っていると、ときどき不安になったけど、マドちんと一緒なら家出なんて怖くなかった。むしろこれで大人たちが考え直してくれるんじゃないか、そんな希望すら持っていたのだ。
「でも待ってたよ。来る気がしたから」
マドちんの顔が歪み、幼馴染の顔が一瞬だけ見えた。唇が、なんで、と動いた気がした。
やがて彼女はワナワナと震えだし、突然、私を突き飛ばした。
「だったらなんでよ! リホちゃんを裏切ったのに! なのになんで再会したとき、私と普通に喋ってたのよ!」
「え、それは、マドちんが普通に話しかけてくるから」
「意味分かんない!」
ぜえぜえと息が上がった彼女の目に、不意に涙が盛り上がった。みるみるうちに溜まっていくそれは、やがて地面にぼたぼたと落ちていった。
様子がおかしい。マドちんの顔をのぞきこむと、彼女はぎゅっと目をつぶり、白い息を何度も苦し気に吐き出しながら言った。
「いなくなるの、私ばっかりっ、リホちゃんだけ、ずるいわよ」
リホちゃんは、いいなあ。
あの日、ランドセルを背負ったマドちんが目の前にいた。
「いなくなるって誰が? もしかしておばあちゃんのこと? 具合悪いの?」
マドちんがはっと息を呑んだ。
やがて後ずさる。待ってと声を上げるより早く、彼女は走り去っていった。
***
「ただいま」
降り出した雪は予想以上に荒ぶり、自宅に帰るころには道路をうっすらと白く染めていた。このまま降り続けば明日は積もっているかもしれない。
雪まみれで帰ってきた私を出迎えてくれたのは、兄だった。私を見るなり洗面所に消え、タオルを手にして戻ってきた。
「傘、持っていってなかったのか」
「学校に忘れた」
「とにかく着替えてこい」
「うん、ありがとう」
部屋着に着替えてリビングに下りると、コタツに入らず、ソファに座った兄がいた。私はコタツに入り、ふい~と息を吐く。
「やっぱり冬はコタツですなあ」
テーブルの上にあったみかんを手に取るも、食欲が湧かずにころころ転がした。そうしているうちに色々思い出して、涙が浮かび、私はそれをどうにか誤魔化したくて、下手くそなクシャミを連発した。これで鼻水が拭ける。ついでに涙も。
「マドカに何かされたのか」
バレてた。
仕方なくティッシュをとり、堂々と涙を拭いた。
「ごめん、兄ちゃん」
「ちゃんと俺の言うこと聞かねえから」
「そうじゃなくて。昔、兄ちゃんを避けてしまってごめんね」
ショータ君がいるから、皆、リホちゃんに優しいんだよ。
マドちんに言われた言葉が、ずっとトゲのように刺さっていた。
だから中学に進学してからは兄を遠ざけた。自分は一人でも大丈夫だと証明するために。
ずっと忘れてた。兄ちゃんと話さなくなったのは、私のせいだったんだ。
けれど高校で思い知った。
吉村翔太の妹だと知られていない私は、友だちひとり満足に作れなかった。一学期をひとりきりで過ごして、学校を辞める想像ばかりしていた。
寂しかったし辛かった。マドちんの言っていた言葉は間違っていなかった。
「ごめんね」
後ろから大きな手が頭を撫でてくる。やがて隣に座った兄が乱暴に腕を回してきた。
あったかい。ずびびと鼻をすすると、ティッシュの束を顔に押し付けられた。
***
翌朝、教室に入ると同時に突き刺さる視線に身構えたが、拍子抜けするほどまったく何も感じなかった。
いや、まったくということはないんだけど、ちらっと向けられ、すぐに外されてしまった。
あれ? けっこう覚悟してきたんだけどなあ。
マドちんはまだ登校していないのか、教室の真ん中にある机には鞄もコートも掛けられていなかった。席に着くと、さっそく甲斐君が話しかけてきた。
「吉村、やべーぞ」
「今度は一体どんな噂が発生したの」
私が岩迫君に襲い掛かったとか、実はこの眼鏡が本体だとか、もうどんと来いだよ。
「春風だよ、春風。なにお前、ニュース見てないの?」
「昨日は家に帰ってすぐにコタツで寝た」
「布団に入って寝ろよ。じゃあ知らねえのか」
「なんの話?」
「恋愛禁止のルールを破った話」
教室の扉が開き、マドちんが入ってきた。教室内は一瞬で静まり返り、それまで騒がしかったクラスメイトたちの会話がピタリと止んだ。
視線だけは注ぐのに、コソコソ話して近づこうとはしない。でも中にはわざわざ週刊誌まで持ってきて、噂の真相を聞く子がいたけれど、マドちんのひと睨みで退散していった。
なんか嫌な感じだ。昨日まではあんなにチヤホヤしてたじゃん。
マドちんは背筋を伸ばして椅子に座り、絶対に俯いたりはしなかった。黒板を見据える横顔は凛としていてやましい気持ちなんて欠片も浮かんではいなかった。
二時間目の授業が始まる直前、マドちんは無言で教室を出て行った。彼女がいなくなった教室は大騒ぎとなった。
「元々、スキャンダルが発覚しそうだったからこっちに逃げてきたらしいよ」
「やっぱり? 私もそう思ってたんだよねえ」
「あの顔で彼氏いないとかないわ。他にもいるんじゃない?」
「えー岩迫君? 素人に手ぇ出しちゃう?」
「てか、よく学校来れたよね」
ちげえよ、マドちんはおばあちゃんと一緒に住むためにこっちに来たんだよ。
ネットの噂に踊らされるとは愚かな奴らめ! 私もちょっと前まで踊らされていた一人だがな!
きゃんきゃん騒ぐクラスメイトたちから離れたところで、一部の男子は意気消沈していた。なに夢破れたって顔してんだ。
「胸糞悪い」
「苛々すんなよ」
「だってさ、皆、勝手なんだもん」
甲斐君のスマホで見せてもらったニュースサイトには、マドちんが若手俳優と深夜の街を歩いているところを週刊誌が激写したと書いてあった。日付は転校してくる数日前。
「並んで歩いてるだけで熱愛発覚なら、私と岩迫君なんて今ごろ結婚しとるわ」
「その例え話、本人に直接言ってやったら喜ぶと思うぞ」
「あームカつく!」
机に八つ当たりするも怒りが収まらん。
「なんでお前がそんなにキレてるわけ?」
「……そういえば、なんでだ?」
私、マドちんに嫌われてるよな。昨日、ボロクソ言われたよな。今日は何を言われようともガツンと言い返してやるぜと思って登校してきたのに、なんでマドちん側に立っているんだ、私。
「親友だからじゃねえの?」
「……実はそうじゃなかったわけで」
「マジ? でも怒る理由なんて、相手が好きだからって以外に何があるんだよ」
甲斐君の言葉が私の秘孔をぶすりと刺した。図星という名の秘孔を。
休み時間が終わる。けれどマドちんは帰ってこなかった。戻ってきたのは授業の途中、泣き腫らした顔で鞄の中に教科書を詰め込むと、慌しく教室を出て行った。
***
早退したマドちんの話は、学年、いや学校中に広がり、今や彼女はスキャンダル発覚で逃げたということにされていた。
噂話で盛り上がる教室を抜け出し、部室に寄らずに学校を出た。正門を抜けたところで岩迫君が追いついてきたので、一瞬逃げようかと思ったが諦めた。私の鈍足をなめてもらっちゃ困る。
「お久しぶりですね」
「なんで敬語?」
一週間、いや数日話さないだけで、こうも会話をするのが困難になるとは私もびっくりだ。
「私と歩いてると、また変な噂を流されるよ」
「それ!」
びしっと指を差されて何事かと思っていると、今度は指を上に向けて、彼はつらつらと言い訳がましい言葉を並べはじめた。
「吉村に話しかけたら余計に噂が大きくなるからやめとけって春風に言われたんだ。芸能界にいる私が言うんだから信じろって。だから話しかけるの我慢してたのに、全然噂は消えないし、むしろ大きくなってるし」
「ふーん」
「本当だって! 俺は吉村だけだから」
「付き合ってませんけどね」
自分でも意外なくらいに冷たい声音が出たので内心びっくりした。
彼の事情はよく分かっているつもりなんだけど、こう、なんだ、話しかけてこないことにカチンときたのも事実。じゃあ私のほうから話しかけろって話なんですけど、向こうが来ないのにこっちが行ったら負けみたいな、変な意地を張ってしまっていた。
本当に噂を気にしてないなら、いつもどおり話しかけていればよかったのに、できなかったのは私の中にある小賢しいプライドが原因だ。
うわーフラれたくせに岩迫君に話しかけてるよー未練がましいー、と噂されるのが怖かったのだ。だったら何もしないほうがずっとよかった。傷が一番浅くて済むから。
「ごめん。本当は話しかけてくれて、嬉しかった」
岩迫君が安心したように表情を緩めていた。私ってずるいなあと思った。
「今日は部活ないの?」
「コート整備だから、自主錬なんだ」
「じゃあ途中まで一緒に帰りますか」
「うん」
すかさず手を握られたが、振り払っといた。君ね、調子に乗りすぎですよ。
途中、図書館に寄ってもいいか聞いた。予約の本が届いている筈なので、家に帰るついでに受け取りに行きたかった。
「いいよ。俺も何か借りようかな」
「岩迫君って普段はどんな本、読んでるの?」
「漫画ばっかり」
「そっか。まあ私も漫画が多いけど、面白い小説もいっぱいあるよ」
一ヶ月に読む小説の量は一冊か二冊だけど、マドちんと意気投合しているキタちゃんを見てからは、もうちょっとだけ増やそうと思った。
対抗心かって? ああそうだよ!
「小説かあ。何から読めばいいのか分かんないんだよなあ」
「キタちゃんに教えてもらったやつで、読みやすくてオススメのがあるよ」
「じゃあ借りてみる」
図書館に到着すると、カウンターに行って予約していた本を受け取った。次に岩迫君と文庫本のコーナーでキタちゃんオススメの本を探す。最近有名になってきた作家なので、もしかしたら借りられているかもしれない。
案の定見つからなかったので、私が読みやすいと思った別の本を探すことにした。
中学生時代、私がハマりにハマったファンタジー小説だ。これはすぐに見つかったので、岩迫君は試しに一巻借りていくことにしたようだ。ハマったら全巻一気に読みたくなること間違いなしである。
カウンターで貸し出し手続きをしようと本棚を離れたとき、意外な人物を学習テーブルで発見した。
「吉村?」
動かない私の視線を、岩迫君が追う。途端に、げっ、と嫌そうな声を上げた。
「あれ、リホちゃんだ」
窓際にある学習テーブルに座っていた神谷は、岩迫君の上げた声で顔を上げ、私を見つけた途端に破顔した。
「何してるんですか」
「何って、勉強」
テーブルの上には辞書とノート、教科書が並んでいる。ついでに神谷の顔には、おしゃれ眼鏡がかけてあった。しかしこの人、眼鏡かけると余計にチャラく見えるな。
「いやー、今のままだと卒業が危ういんだよね。てわけで必死こいて勉強してるってわけ」
漫画によくあるヤンキーだけど頭脳明晰、なんて設定は神谷にはもちろんなく、インテリヤンキー浅野の情報によると、テストの点数はだいたいいつも四、五十点くらいだそうだ。見た目どおりの男、それが神谷である。
「俺もいるんだけど、無視しないでくれる?」
「文化祭でフラれた岩迫君、いたんだ」
「いましたよ。その眼鏡、合ってないんじゃないですか」
ファイ!
じゃねーや、ファイトしたら駄目だ。
険悪な雰囲気に困りきった私を見かねたのか、神谷は机の上を片付け始めた。
「出よう。話なら外でもできるだろ」
神谷の大人な対応にほっとしていると、岩迫君が露骨に悔しそうな顔をした。
負けた、って思っているんだろう。別にいいのに、対抗なんかしなくてもさ。
***
「朝から勉強してたんですか!?」
私の隣に並んで歩く神谷がこともなげに頷いた。
信じられない集中力だ。やればできる神谷、略してYDKかよ。
ちなみに私たち二人の後ろを岩迫君が歩いている。三人横に並ぶと道路をふさいで邪魔なので、仕方なくこういう位置付けになっていた。
「澤田から聞いたんだけどさ、春日坂にアイドルが転校してきたってホント?」
「本当ですよ。佐倉木にまで噂が回ってるんですか」
「実際、見に行ったヤツらもいるみたいだよ。見れなかったみたいだけど、でも本当なんだ」
「もしかして神谷さん、ファンなんですか」
「俺はリホちゃん一筋だよ」
「はっはっは」
あまりの軽さにサインのひとつでもしてやりたくなるな。背後からの重苦しいプレッシャーとは大違いだ。
「送ってくれてありがとうございました」
結局、家の前まで二人に送ってもらってしまった。本当は途中までだったけど、神谷が当たり前のように家まで行くというので、岩迫君が引き下がる筈もなかった。
手を振って二人の姿が角を折れるところまで見送る。喧嘩してなきゃいいけど。いや、してるな。心配だけど、まあ流血騒ぎにはならんだろう。
適当に結論付けて、門扉に手をかけ中に入ろうとした。
「吉村里穂子って君だよね?」
少し離れた場所に、見知らぬ男の人が立っていた。年齢は四十代くらい、コートにスーツ姿だったが、サラリーマンっぽさがあまり感じられなかった。
「あの、どなたですか」
「実は俺、記者やってるの。春風マドカについての話を聞かせてもらいたくてさー」
「……名刺、もらえますか」
男は一瞬、眉を顰めた。そして渋々という感じで名刺を取り出した。
「最近の女子高生はしっかりしてんね」
咄嗟の判断は、マドちんのマネージャーさんの振る舞いを覚えていたからだ。初対面の私に対して、彼はとても丁寧な態度で接してくれた。目の前の人と違って。
もらった名刺にはフリージャーナリストという肩書きが記されていた。胡散臭い、という表情が顔に出たのだろう、男はもういいだろうと名刺を奪い去った。くれないのかよ。
「君、小学校時代は春風マドカと仲良かったんでしょ? 聞いたよ、ずっと同じクラスで親友だったって」
「誰からですか」
「え?」
「誰がそんなことペラペラ喋ったんですか」
しかも私の住所と名前をばらすなんて、罪悪感はなかったんだろうか。なかったんだろうな、アルバムだって渡すくらいだもの。男の肩から掛かった鞄からは、卒業した小学校のアルバムが覗いていた。
「まあいいじゃない。それで話なんだけど、小学校時代のマドカってどんなだった? 苛められてたって話も聞いてさ、そのときどんな様子だったか教えてくれる? 仲良かったんでしょ」
馴れ馴れしい態度に不快感が止まらない。知らないって言えばすぐに立ち去るかな。親友なのに、私は何も知らなくて、助けることもできなかったって言えば。
「仲良かったって知ってるなら、言うわけないって分かんないんですか」
腹が立っていた。こういう人がマドちんのことを週刊誌に書いたんだと思うと、怒鳴り散らしてやりたくなった。
私以上に何も知らないくせに、マドちんを苛めるな。
「もしかして謝礼のこと言ってる? ほんと最近の高校生ってコワイなあ」
「はあ?」
どこをどうしたらそんな結論になるのか謎しか残らない。鞄から財布を取り出す男を見て、心底嫌気が差した。
「いりません。どっか行ってください」
再び門扉に手を掛ける。相手は待てとか何とか言って、私の腕を掴んできた。振り払っても、相手の大きな手はびくともしなかった。
「ちょっとでいいって言ってるだろっ」
引っ張られた拍子に、ずりっと足元で音がした。体が傾く。体勢を立て直す間もなく段差を踏み外し、後ろに倒れこんでいた。
思い切り背中を打ち付け、息が詰まる。男が舌打ちして手を離した、その瞬間。
「リホちゃんに何すんだぁああああ!!」
宙を飛ぶマドちん、吹っ飛ぶ男。
ひらりと捲れたスカートから、真っ白な下着を見た気がした。