72、浸食
ニュースが言うには、今日はところにより雪が降るだそうだ。たしかに空は薄暗く、気温は昨日よりも低い。とはいえ、ほとんど雪の降らない地域なのであまり期待はしていない。
登校して教室に行くと、甲斐君と真柴さんが仲良く二人で話していた。珍しいものを見た。好奇心丸出しで近づいた私に気づいた二人がおはようと言ってくる。
「おはよう。二人で何話してたの」
「マドカのこと」
「また?」
「言っとくけど、悪口じゃないからね! いい子だなーって話してたの」
「……どしたの、真柴さん」
昨日までの君はアイドルなんて全員スリーサイズを誤魔化してるに決まってるって言ってましたよね。
「いや、さっき朝練帰りに偶然会ってさー。無視しようとしたんだけど話しかけらたから喋るしかないじゃん。で、まあ意外と普通の子なんだなーって思ったの」
「真柴さんって他人を嫌いになれないひとだよね」
「そんなことないわよ。マドカの感じが良かっただけで、そういうの嫌いになれないでしょ」
甲斐君に顔を向けると、彼は割りと朝早くに来ることが多いので、人気の無い教室でマドちんと会ったらしい。
「思ってたより気さくでびっくりした。あとめっちゃ良い匂いがした」
「変態だなー」
「甲斐、キモい」
「自然に匂ってくるんだからしょうがないだろ!」
私も電車で偶然隣に座ったオジサンの匂いがあまりにも芳しくてフンフン嗅いだことがあるけど、相手が女子高生だとアウトですよ甲斐君。ちなみにオジサンは太ってて汗だくだった。なのに奇跡みたいに良い匂いがしていて、私は未だにあれ以上の匂いに出会ったことがない。以上、余談である。
「リホちゃん」
教室の中心でクラスメイトに囲まれていてマドちんが、気づけば後ろに立っていた。彼女だけじゃない、周りを取り囲んでいたクラスメイトまでもが付き従うようにずらりと並んでいた。異様な光景にぎょっとしていると、マドちんが腕に抱きついてきた。
「な、なに」
「リホちゃんと小学生時代は親友だったって言ったら、皆がびっくりしてたから証明しようと思って」
「リホリホ、そうだったの? ちょっと知ってるくらいの言い方しかしてなかったじゃない」
「え、っとそれは」
「ひどーい、そんなこと言ったんだ」
いやだって、私アイドルと仲良かったんだぜー、ってかなりうざいアピールじゃん。だからなんだよ、お前がアイドルなわけじゃねーだろと思われるのオチだ。
「小学生のときのリホちゃんって結構クールだったのよ。私がいつも話してて、リホちゃんは聞いてるほうが多かったんだから、ね?」
「嘘だろ、吉村がクール? グールの間違いじゃなくて?」
「甲斐コラてめえ」
誰がグールじゃ、頭から喰ったろか。
甲斐君に威嚇している間に、マドちんが強引に私が座る椅子に体を割り込ませてきた。ふわっと押し寄せてくる香水の匂いに挙動不審になる。
ひきつった笑いを浮かべている間にクラスメイトも距離を詰めてくるから、一気に人の密度が上がった。
「いっこ上の学年に、ショータ君っていうリホちゃんのお兄ちゃんがいたんだけど、三人でよく一緒に帰ったよね」
「ああ、うん」
「リホちゃん、すぐよそ見して躓いたり、車に轢かれそうになってたよね。私とショータ君が手を繋いでなきゃ駄目だったんだから」
ね、と顔を近づけて同意を求めてくるマドちんに、そうだったね、と無難な相槌を返す。よく覚えてんな、と内心の驚きは顔には出さなかった。
「小学生時代のマドカの話、もっと聞きたいな」
「写真とかないの? 絶対可愛いよね」
「ねえ吉村さん、アルバムとか持ってない?」
人が多くなったせいで、圧迫感も凄まじい。マドちんは会話の中心にいるにも関わらず、圧力を風のように受け止めてニコニコしていた。私は駄目だ。すでにグロッキー状態で俯き、誰にも気づかれないようにそっとため息を吐いた。
けれどその後も、休み時間になるたびにマドちんは私の席までやってきた。となると人も移動し、私の周りに密集する。甲斐君は三時間目と四時間目の間に避難することを覚え、私だけが逃げ遅れる結果となった。
正確には逃げようとしたんだけど、マドちんが追いかけてきた。ムリだった。
今はマドちんが共演したアーティストの話題だ。アニソン以外は手薄な私にとって、ちんぷんかんぷんな内容だった。
ときどきアニメのテーマソングを担当したアーティストも出てくるけど、そこだけ食いつくのもあからさまだし、歌は好きだけど歌っている人間にはあまり興味がないから、やっぱり会話についていけなかった。
かといって明らかにツマランなんて顔したら空気を壊すしで、私は無理矢理に作り出した笑顔を顔面に貼り付けて、マドちんの話にうんうん頷いていた。早く休み時間終われ。
「――って言ったんだよ。リホちゃん、どう思う?」
「変わった人だねー」
マドちんがいちいち会話を振ってくるから、話をちゃんと聞いてないとマズいし、なんだこの苦行、聖徳太子よ我に力を授けたまえ!
ていうかここに私いらなくね? 皆、マドちんしか見てないし、マドちんの話しか聞いてないんだよ。興味の対象は彼女ひとりだというのに、なんで私、ここにいなくちゃならないの?
マドちんの考えがまったく分からん。だってマドちんは私のこと、
「あ、先生来ちゃった」
残念そうにしているクラスメイトの中で私だけがほっとしているなんて、誰も知らないんだろうなあ。
***
放課後になってやっとマドちんから解放された。今日は授業が終わってすぐに仕事に向かわないといけないらしい。皆に見送られて彼女は教室を出て行った。
これで静かになったと思った私の元に、クラスメイトが集まってきた。
「吉村さんって今でもマドカと仲良いんだね」
「ねえ、昔の話、もっと教えてよ」
「ずっと連絡取ってたの?」
本人に訊けよ。私はもう帰るんだよと席を立ち上がろうとしたが、どいてくれる気配がない。甲斐君は……アイツッ、ドアのところで敬礼、いや、ジーク・ジオンしてやがる! 明日覚えとけよ!
いよいよ逃げられんと観念しかけた私を救い出してくれたのは、とっくに帰ったと思っていた岩迫君だった。
「吉村、鰐淵先生が呼んでたぞ」
「なんと、それは一大事」
見事な棒読みだったが、鰐淵先生の名前の威力は凄まじかった。私を阻む生徒はひとりもおらず、まんまと教室を抜け出すことに成功した。
「岩迫君、恩に着ます!」
廊下を出て階段を下り、さらに旧校舎に入ったところで後ろから着いてきていた彼に両手を合わせて感謝した。
「すごい困ってたみたいだったから」
「はい」
「俺の気持ち、分かった?」
「はい……」
見捨ててごめんね。へこへこ謝ると彼は笑って許してくれた。
でも条件として、部活を見に来て欲しいと言われた。このクソ寒いのに屋外でテニスを観戦しろと? 無言で拒否してみたが、駄目だった。キャーイワサコクンガンバッテーと応援しろとまで要求された。彼の強かさが、最近留まることを知らない。
「周りにたくさん人がいるのに、誰も自分を見てないのって苦しいよな」
「え」
「俺、春風の隣だろ。だからさっさと脱出したんだけどさ」
びっくりした、自分のことを言われているのかと思った。
マドちんの隣は、岩迫君の言うとおり、苦しかった。顔は常に笑顔で、相槌を打って、皆と同じタイミングで笑わないといけない。一瞬でも気が抜けない空間で、なのに誰も自分に関心を向けていない。マドちんは気づいているのだろうか。
気づいている、気がした。
「吉村って、小学生時代はあんまり喋らなかったんだって?」
「それ、マドちんが言ってたの?」
「うん。あと、テストは平気で0点取ってたって本当?」
「あ、それは覚えてる。小学生のときは勉強全然してなかったし、あんまり勉強も得意じゃなかったもん」
「ほんとに?」
「特に算数が苦手だった」
意外! という顔で驚く岩迫君を横目で見ながら、気付かれないようにため息を吐き出した。
私の知らないところで、岩迫君とマドちんってけっこう話してるんだな。
妙な焦燥感を覚えて、慌てて振り切った。
嫉妬とかじゃない。ただすごく、嫌だな、って思っただけで。キタちゃんと一緒だ。私の友だちなのに、まるで最初からマドちんのほうが親しかったみたいにされるのは面白くない。
なんだこの気持ちは。私ってこんなに心が狭かったのか。
モヤモヤした気持ちを抱えたまま、約束どおり、ラケットを持って躍動する岩迫君に声援を送った。疲れた。寒かった。春が来るまで絶対ここには来ないと誓った。
***
その日は朝から霜が降りていた。
念のため持ってきた傘を靴箱横のラックに入れ、教室に向かった。二年六組の前の廊下は、始業式の日に比べると群がる生徒の数が幾分マシになっていた。皆、マドちんの存在に慣れてきたのだろう。
教室に入ってすぐ、なぜかクラスメイトの視線が私に集中した。意味が分からず、居心地の悪い思いで自分の席に着く。マドちんは既に登校しており、そんな私をじっと見つめていたが、今日に限って近づいてくることはなかった。
椅子に座ってすぐ、甲斐君が話しかけてきた。
「吉村、お前、やべーぞ」
「なんのこと?」
「岩迫と春風、付き合ってるんだって」
「え」
「ていう噂が立ってる」
思わず岩迫君の姿を探した。マドちんの隣に彼はいなかった。朝練からまだ戻っていないのだろう。
「昨日の放課後、部活帰りの岩迫と春風が並んで歩いてるの見たってヤツが何人かいて、朝からこれだよ。んで吉村、お前が岩迫に捨てられたということになってる」
「付き合ってもいないのに?」
「噂なんてそんなもんだ」
嫌なことに、この噂をクラスの何人かが信じ込んでいるらしい。さっきからこっちを見てヒソヒソしているクラスメイトがいるのはその噂が原因か。
元々、岩迫君が私を好きだという噂があったから面白がって、よりおかしく、よりスキャンダラスに騒がれているらしい。
「しかも春風が全然否定してないんだぜ? 肯定もしてねーけど」
「そうなんだ」
「アイドルって怖いな」
マドちんをちらっと見て、甲斐君はまあ気にすんなと励ましてくれた。
いや私、別に落ち込んでませんけど。
岩迫君はただの友だちだし、だから全然、まったく、これっぽっちも取られたなんて思ってない。思っていないのだ。
***
噂って怖い。
事実無根なんだからそのうち収まるだろと思っていた熱愛騒動は、日に日に過熱している。アイドルと一般男子の恋、おまけしてフラれた一般女子、という構図に、せめて私だけは外してくれんだろうかと思う今日この頃。
なんか最近では私が二人の仲を妬いてるらしい。美男美女のお似合いカップルに妬くとか図々しいよねー、と噂を真に受けた見知らぬ女子生徒らを見送ったのはつい先ほどの話だ。
たぶん私がその図々しい女子生徒であることを知らなかったのだろう。顔も分からない相手を好き勝手に噂するという行為に対し、噂の的にされた今では、私も大いに反省するところがある。
マドちんが私に話しかけなくなり、岩迫君にべったりなのも、噂の信憑性を高める一助となっていた。
昨日はテニスコートで練習する岩迫君をマドちんが応援していたとか、スポーツドリンクを差し入れしていたとか。かなり目立ってたよ、とわざわざ言いに来る子たちまでいた。親切ぶってるけど、やってることは結構ひどいことに彼女らは気付くべきだ。
今日は授業中にマドちんが岩迫君にしきりに話しかけ、先生に注意されていた。もちろん教室中の注目を浴びていたけれど、当のマドちんは首を竦めて謝るものの、あまり反省はしていないようだった。授業が再開すると、マドちんはまた岩迫君に話しかけてクスクス笑っていた。
どこからどう見ても似合いのカップルに注がれるのは憧憬と羨望に対し、私へと降り注がれるのは同情と嘲笑が多い。鬱陶しいことこの上なしの状況に、精神が嫌でも磨り減ってくる。
「ヨッシー、なに辛気臭い顔してんのよ」
廊下を歩いていると、後ろから突然衝撃が襲う。慌てて後ろを見ると、村っちとちよちゃんが立っていた。
「部活は行かないの?」
「今日はやめとく」
まさか部室にマドちんがいるから行きたくないとは言えなかった。
「じゃあ演劇部に来ない? 練習見てよ」
「ごめんね、今日はいいや」
帰ろうとすると、ちよちゃんが横に並んだ。村っちも。
「ねえリホちゃん。あんな噂、信じてる子なんてほとんどいないからね」
「そうだよ。無責任に面白がるだけ面白がったら、あとは忘れるって」
「春風さんも、今は気を遣って話しかけてきてないだけだよ」
「うん、分かってる」
言葉とは裏腹に、心の中では「本当にそうだろうか?」という疑念が日を追うごとに膨らんでいた。
マドちんは有名人だ。彼女の一挙一動に誰もが注目している。自分の行動が周囲にどれほどの影響を及ぼすか、彼女が知らないはずがない。
根も葉もない噂を否定してくれればいいのに、マドちんはそれをしない。岩迫君と毎日楽しそうにおしゃべりして、噂の種をばらまいている。
ここまで考えて、まるで被害妄想だな、と思った。
これじゃあ美男美女に嫉妬する女そのものだ。噂が本当になってるじゃん。
心配顔のちよちゃんと村っちに別れを告げ、早々に下校した。
正門を出て、しばらく歩いて川沿いに出たところだった。後ろから複数の足音がしたので振り返ると、
「リホ先輩!」
テニス部の集団がランニングをしていた。五味が大きく手を振りながら、跳ねるように走ってくる。
「もう帰るんすか? 部活は?」
「今日はいい」
「そっかー。じゃあまた明日ー」
「うん。明日なー」
元気に走りすぎていく後輩にひそかに癒される。あいつ噂とか知らんのかな。アイドルと同じテニス部の先輩の恋愛スキャンダルだぞ。でも五味だしな、気にしてなさそうだな。ほんと癒される。
二列になって走るテニス部の集団、その最後尾に彼はいた。いつものように手を振って、がんばれーと声をかけるはずだった。
「岩迫く……んんー?」
目は合った。それはもうハッキリくっきり合った。
なのに、逸らされた。
目の前を通り過ぎていく彼の背中を見送りながら、風で乱された前髪をのろのろと指で直す。まるで手なんて振ってませんよ、私は最初から前髪を直したかったんですよ、と言わんばかりに。
今、猛烈に恥ずかしい。
そして、悲しい。
今、無視した? 私ってば、無視された?
心臓がドキドキしている。嫌な汗で背中がじっとりと濡れていた。冬なのに震える指先をぎゅっと握りしめ、落ち着け、とりあえず帰ろうと足を動かそうとした。
「リホちゃん」
突然聞こえた声に身が竦む。一体いつからそこにいたのか、マドちんが背後に立っていた。
冷たい風がマドちんのゆるくウェーブした髪をさらっていった。ドラマの一場面みたいにキマっている光景に、私はしばし言葉を忘れて見つめてしまった。
視線が絡まること数秒。マドちんが白い息を吐き出し、明るく言い放った。
「かわいそうだね、リホちゃん」
同情する言葉が、まったく胸に響いてこない。
だってマドちんは、これ以上なく嬉しそうな顔をしていたから。
「辛いでしょ?」
一歩、彼女が近づいてくる。
「悪口言われて、無視されて、悲しいでしょ?」
マドちんの笑みがどんどん深くなっていく。ひとはあまりにも笑顔がいきすぎると、歪んで見える。今のマドちんがそうだった。
そのとき、ひらりと視界に白いものが落ちてきた。雪だ。
こんな状況だというのに、目を奪われてしまった。この辺りはほとんど降らないし、初雪だったからかもしれない。
ぼんやりと宙を舞う雪に魅入る私に、マドちんが言った。
「リホちゃんなんて、大っ嫌いよ」