71、彼女はアイドル
学校に行きたくないと思ったことは何度かあるが、今日ほど強く思ったのは初めてかもしれない。
生徒たちが行きかう正門の前で立ち尽くしていると、黒い車がすぐそばで止まった。運転席にいた男性と目が合った瞬間、後部座席のドアが開いた。
「リホちゃん、おはよう!」
車の中からマドちんが下りてきて、私に向かって駆け寄ってきた。登校してきた生徒が彼女に気づき、辺りが騒がしくなる。注目される中、マドちんは私の腕を絡め取ってものすごい勢いで話しかけてきた。
「もうっ、昨日走って帰っちゃうんだからびっくりしちゃった」
「ご、ごめん」
「ねえリホちゃん、メアド教えて。あと番号も」
「え、あー」
「ね、ね、いいでしょ? いいって言ってよぉ」
「マドカ、やめなさい」
車の中から下りてきた運転手の男性が間に入って制止してくれた。助かった。いや、助かってない。周囲はこっちを興味深々で見てくるし、写真を撮ろうとしてくるし。すると男性が体をずらして、スマホの撮影から庇うように立ってくれた。
「申し送れました。私、こういう者です」
渡されたのは名刺だった。株式会社云々……聞き覚えの無い名称だったがおそらく芸能事務所なんだろう。お笑いならともかくアイドル関係に疎い私の怪訝な表情を見て、マネージャーという肩書きを持った男性、平瀬さんは苦笑いしていた。
「まさかこちらにマドカの幼馴染がいたとは驚きです」
「はぁ」
「どうかマドカと仲良くしてやってくださいね」
頭を下げられ、曖昧に頷く。平瀬さんはどこまで知っているのだろうか。私とマドちんの関係を。
「リホちゃん、一緒に教室行こ? じゃあ行ってきますね、平瀬さん」
「はい、いってらっしゃい」
腕を引っ張られて正門を通る。後ろを振り返ると、平瀬さんは私たちが校舎に入るまでずっと直立不動で見守っていた。
「心配性でしょ。まるでお父さんみたい」
「うん、そうだね」
平瀬さんの見た目はどちらかというと地味で、いわゆる業界人という雰囲気は一切なかった。小太りで気の弱そうなお父さんという印象が一番しっくりくる。マドちんはそんな彼をとても信頼しているようだ。
「今日から授業だよね。私、勉強なんて久しぶり」
「そうなの?」
「うん。一応、高校は通ってたんだけど、早退が多かったから。ここってけっこうレベル高いんでしょ? 私、ついて行けるかなあ」
「編入テストに受かったんなら大丈夫だと思うけど。でもマドちん、なんでこっちの高校通うことになったの?」
彼女が転校していったのは、今から五年前。戻ってくるとは思っていなかった。
「今ね、おばあちゃんと一緒に住んでるの。そこから通ってるのよ」
小学生のときに何度も会った、マドちんの優しいおばあちゃん。家に遊びに行くたびにお菓子やジュースを出してくれた。字が綺麗で、習字を教えてくれたこともあった。マドちんが転校してから、一度も会っていないけれど。
「そっか。おばあちゃん、元気?」
マドちんの顔から表情がふっと抜け落ちた。けれどすぐに笑みを浮かべ、「もちろん」と彼女は頷いた。
私だってもう小学生の子供じゃない。それ以上は訊かずに、上履きに替えて教室に向かった。
***
「なーんか気に入らないんだけど」
甲斐君の机に浅く腰掛けて、クラスメイトの真柴さんが半眼でマドちんを睨みつけていた。一時間目まで、あと十分ある。
「ちやほやされて調子に乗ってるってカンジ。ね、甲斐もそう思うでしょ」
「は、はい」
甲斐君がビビっている。派手な女子は苦手って言ってたもんな。
「たしかに可愛いけどさあ、メイク完璧すぎじゃん。学校なのにそれってどうなの? ねえ? リホリホ」
「ですね、仰るとおりです」
ここで下手に反論すればカナみたいに怒り狂うのは必至。女の敵は女なのだ。
「ていうかリホリホ、マドカと知り合いだったわけ?」
「あー、はい、まあ」
教室までは一緒に来たが、教室に入った瞬間、マドちん目当てのクラスメイトに群がられ、私だけがゴミのように集団からぺっと吐き出されてしまった。いいんですよ、ええ、これが格差社会というものです。
「小学校で、クラスが同じだったんだ」
「ふーん、それだけ?」
「何度か遊んだことはある」
嘘は言ってない。転校するまでの六年間ずっと同じクラスだったとか、何度かというのが正確な数を表してはいないけど。
マドちんのおばあちゃんちと私の家を行き来して、ご飯も一緒に食べて、いつも二人で帰っていたけど、訊かれていないから言わないことにした。
「ドラマ観てたけどさあ、そんなに上手じゃなかったよね」
「……こっわ」
「甲斐、なんか言ったァ?」
「言ってません。たしかにちょっと棒読みでしたよね」
「よし」
甲斐君、君のプライドはどこへ行った!! もはや完全なイエスマンと化した彼に哀れみを感じた。
「ドラマっていつやってるの?」
「火曜日だよ。お前、見てなかったのか」
「だって、本人だって気づくどころか、Mプリンセスっていうアイドルの存在すら知らなかったもん」
「お前、そういうの疎そうだもんな」
「逆に甲斐ってアイドルとか好きそうよね。ライブ行ってペンライト振り回してそうだもん」
「ちげーよ……」
「あ? なに」
「なんでもありません」
縮こまる甲斐君がもう見ていられなかった。フォローしておくと、真柴さんは普通に良い人だからね。釣り目で気が強い発言が誤解されやすいけど、中身はひとりの男性を一途に想う乙女だからね。
「田辺も塔元も、ミーハーすぎだし。あいつらMプリのこと散々こき下ろしてたくせにさあ」
マドちんを囲む輪の中には二人の姿があった。彼女に話しかけている大半がクラスでも派手なグループの子たちばかりだったので、当然といえば当然なんだけど、むしろそこに真柴さんが加わっていないことのほうが不思議だった。
「私、アイドル好きじゃないもん」
「なるほど。友達とられたから怒ってたんだね」
「違うわよ!」
「ガキか」
「甲斐のくせにナマイキよ!」
甲斐君の首を締め出した真柴さんを羽交い締めにして止めていると、一時間目の授業の先生がやってきた。名残惜しそうに教室の中心から離れていくクラスメイトたちの隙間から、マドちんがこっちを見て笑っていることに気がついていたけれど、私は知らぬフリをして教科書の準備をした。
***
休み時間になるたびにマドちんは囲まれ、騒々しく話しかけられていた。そのどれもに笑顔で応対し、嫌な顔ひとつしない態度には素直に感心する。甲斐君は営業スマイルと言っていたけど、眉ひとつ顰めないのは立派だと思う。
「昨日はよくも俺のことを見捨てたな」
岩迫君が恨み言を吐き出しにやってきたのは、その日の放課後だった。彼は囲まれる前に脱出すればいいことを、昨日で学んだらしい。
「見捨てただなんてそんな言いがかりですよ、ねえ甲斐君?」
「俺たちにはどうすることもできなかったんだ」
「甲斐も甲斐だよ。俺と席、代わってくれたらよかったのに」
「さてと、私は部活に行きますか」
「吉村が逃げた」
逃げるに決まっとるわ。なんでも最近、岩迫君は甲斐君に恋愛相談してるらしいよ。んなことせずに勉強しろ!
いつもより人ごみに溢れた教室を脱出し、静かな旧校舎に向かった。そういえばマドちん、部活入るのかな。入らんか、アイドルだもんな。
「春風まどかです、よろしくね?」
数分後、漫研の部室には、なぜかマドちんの姿があった。ほんとなんでだろうね……気づいたら後ろにいたんだよ。知らずに部室に入って声掛けられて、文字通り飛び上がって驚いたわ。
「リホのクラスにアイドルが転入してきたって本当だったんだ」
「テレビで見るのと同じひとです……」
「キャー握手してくださーい!」
物怖じしないマリちゃんの要求に、マドちんは快く応えていた。メグっぺもおどおどしながら握手してもらい、嬉しそうだった。キタちゃんは最初こそ驚いていたものの、あとはフーンという感じで、つまりはいつものキタちゃんだった。
「ここが漫研の部室かあ。私が想像してたのと違うけど、面白いね」
「元は生物化学準備室だったんです」
「へえ、備品はそのままなんだ」
今はお茶を囲んでのティータイム中だ。マリちゃんが積極的に話しかけ、芸能界の話を訊き出している。あの女優はすごく優しいとか、あの男優は神経質だとか、マドちんはサービス精神旺盛に教えてくれた。
話題はやがて、マドちんがこの街を引っ越す前、小学生のときの話になった。
「マドカさんって、絶対、小学生時代もモテましたよね」
「まさか。私、今と違って地味~よ、地味~」
「ええ、嘘だあ」
「ほんとほんと。おどおどしてて下ばっかり向いてたから、クラスの女子から苛められてたもん」
「え、そうだったの」
ずっと同じクラスだったのに知らなかったぞ私。
「リホちゃんは」
マドちんがしょうがないなあという表情を浮かべて、言った。
「周りのこと、気にしないっていうか、興味ないって感じだったよね」
「先輩、ドライすぎ」
「ご、ごめん」
いやほんと、全然気づかなかった。興味ないとはまではいかないと思うんだけど、鈍感だったというか、テストの裏に絵を描いてばっかりで、他のことはあまり関知してなかった気がする。あれ、言われているとおりじゃね?
「でもね、リホちゃんはイジメに誘われても絶対に参加しなかったんだよ。それどころか、誘ってきた女子を泣かしてたんだから」
「え、知らん。覚えてない」
「リホ先輩……」
「いや、え、マドちん、本当なの?」
「本当」
まるで記憶にございません。
本当に、欠片も、一ピクセルも記憶にない。そもそもこの大人しい私がイジメをするような気の強い女子に立ち向かえるわけもないんだが。
「そうだリホちゃん、ショータ君は元気?」
「兄ちゃんは元気だよ」
「よかった! 会いたいなあ」
目をキラキラさせて言うもんだから、ああこれは、と鈍い私ですら気がついた。
音楽番組で言っていた初恋の君というやつは、もしやうちの兄なのではないだろうか。小学生時代は、たまに兄も加わって三人で帰っていたし。
でも問題は兄が覚えているかどうか。人間に対する物覚えの悪さには定評のある私以上に、兄はひとの顔を覚えないからだ。
「実はさっきから気になってたんだけど、その本って」
マドちんが指差したのは、部室の机の上に積まれた上下巻のハードカバーの本だった。私も貸してもらったことがある、キタちゃんの私物である。
「私のだけど」
「そうなんだ。私もこの作者が好きなんだ。でも最近出たハードカバーはまだ読めてなかったの。やっぱり面白いよね? ね?」
「面白かったよ。この作者が好きってことは、女剣士シリーズは読んだことある?」
「ある! 最初は図書館で借りて読んだんだけど、あとで自分で買って揃えたくらいハマったの!」
「分かる。私も学校の図書館で読んで揃えたクチだもん。ファンタジーなのに世界観がすごくしっかりしてるよね。本当にこんな世界があったんじゃないかって思うくらい細かい設定がしてあってさ」
「お話の中で歴史もちゃんと用意されてあるんだよね。私、自分で年表作っちゃったもん」
「ほんと!? 私も!!」
「キ、キタちゃん?」
クールな君はどこへ行ったんだ。唖然としていると、キタちゃんはハードカバーの新刊をマドちんに貸してあげていた。初対面の、マドちんに。
「嬉しい! あとで絶対感想言い合おうね」
「もちろん」
えーちょっと私は? 私も貸してもらったから感想言ったのに、キタちゃんの反応はここまでじゃなかったぞ。
「アイドルって本読まないかと思ってた」
「マ、マリちゃんっ」
「あはは、バカっぽいイメージあるよねー」
マドちんが借りた本を大事そうに抱えながら言った。
「賢そうにしてたら人気でないの。バカすぎるのもアレだけど、ちょっとバカっぽいのが、一番可愛いんだって」
「はー、なんか大変なんですねー」
「そ。アイドルって、大変なお仕事なのよ」
言うと同時に、マドちんのスマホが鳴った。これからお仕事らしい。
また来てくださいねと誘う部員に、マドちんは嬉しそうに頷いてから去っていった。
来なくていいぞと思った私の心は、確実に狭い。
***
自宅に帰ると、一体どこから聞きつけたのか、マドちんの存在を知ったカナが騒ぎ立てていた。
先生からはSNSに書かないようにとお達しがあったけど、一体どれだけの生徒が守っているのやら。人の口に戸は立てられないというのもあるし、近隣の学校に噂が回っていてもまったく不思議ではない。
「やっぱり家に来てたマドちゃんだったんだ!」
昔の知り合いが今や芸能人ということに、妹は興奮しきっていた。ねえねえ学校の様子教えてよ、としつこいし煩い。普通だと答えても、もっと教えろとさらに絡んでくる。
無視してリビングのコタツに入り、テレビをつける。よりにもよってMプリの特集をやっていて、カナがさらに勢いづく。
先に帰っていた兄が騒ぎを聞きつけ、リビングに顔を出した。
「マドちん、覚えてる? その子がうちの学校に転校してきたんだ。そしたらカナがうるさくてうるさくて」
たぶん覚えてないだろうなと思っていたが、兄の顔は険しいどころか凶悪になり、こっちにやってきたかと思うとカナの首根っこを掴んで引っ張り上げた。
「カナ、いい加減にしろ」
「なによ兄貴。いいじゃん、話聞くくらいさ」
「よくねえよ! 二度とあの女のことは訊くな!」
「はあ? ワケ分かないんだけど。離してよ、痛いっ」
「ちょっと、兄ちゃん」
盛大に舌打ちしてカナを離すと、来い、と言われたので仕方なくコタツから出て兄に着いていく。後ろでは妹がバカバカと喚いていた。
階段を上ると、兄は自分の部屋にさっさと入っていった。その後ろに続いて部屋に入ると、扉を閉めて座れと言われた。兄の部屋にはクッションどころか座布団すらなかったので、仕方なくラグの上に座った。
「マドカに会ったのか?」
「会ったどころか同じクラスだよ」
また舌打ち。今度はチッ、どころかヂッ、だ。相当苛々している。
「マドちんのこと、覚えてたんだ」
「忘れるわけねえだろ」
意外だ。三人で帰ったり、家にマドちんが遊びにきたことはよくあったとはいえ、二人が親しかった記憶はあまりなかった。それとも私が知らないところで、親交はあったのだろうか。マドちんが苛められていることに気づかなかったくらいだ、あり得ない話ではない。
「マドカには近づくな」
しかし会いたいと頬を色づかせて願っていたマドちんに対し、兄のほうは会いたそうには見えなかった。むしろ仇敵に出会ったかのように忌々しげで……これは一体どういうことだ。
「マドちんと何かあったの?」
「何かあったのはお前のほうだろ」
ドキリと波打った感情を表には出さないように、なるべく平静を装った。そんな私の強がりは、兄にとっては無いも同然のものだったかもしれないけれど。
兄から視線を逸らし、窓の外を見る。厚い雲が空を覆って、今にも雪が降りそうだった。