70、少女M
更新の間が空きすぎて作中の季節は冬まっただ中ですが、温かい気持ちで読んでやってください。
冬休みが終わり、明日から始まる三学期。
宿題は済ませたし、クリーニングに出した制服も取りに行った。あとやることと言えば、小腹が空いたのでキッチンで何か食べるものを探すだけなんだけど、リビングのコタツから出られる気がまったくしない。むしろトイレにすら行きたくない。さっきから尿意と戦ってんだけど、私は絶対に打ち勝ってみせる。
「カナ、お姉ちゃんの代わりにトイレに行ってきて。行ったついでに冷凍庫から肉まん出してチンしてここまで持ってきて」
「やだ」
「じゃあ兄ちゃん」
は、寝てた。
仕方なく我慢することにしたが、限界は割りと早くやってきてしまった。人間としての尊厳を失う前に、寒い廊下の先にあるトイレに駆け込んだ。
「私の肉まんもよろしくねー」
すっきりして戻ってくると、ちゃっかりお願いしてくる妹にぶつぶつ文句を言いつつ、冷凍してあった肉まんを取り出した。俺も、と低い声が聞こえたので振り返ると、さっきまで寝ていた兄が目を擦っていた。
仕方なく三人分の肉まんを電子レンジに入れて解凍した。一分半がとても長く感じる。かじかむ足先をすり合わせながら、表示される時間を焦れる思いで見つめた。
チン、と鳴ってすぐに扉を開ける。指で突くと熱が通っているっぽいので、横着だけど、どてらの裾を使って熱々の肉まんを三つ一気に持ち上げた。
「どいてどいて」
コタツのテーブルに頬杖をついていたカナはすぐに体を引いたが、突っ伏していた兄の額に転がり落ちた肉まんがヒットした。
「あっちーな!」
「それ兄ちゃんのね」
「リホ、みかんも取ってよ」
「へいへい」
お茶も欲しかったからついでだ。悪態をつく兄は無視して、キッチンからお茶パックとみかんをいくつか持ってくる。お湯はポットにまだ残っているよね。小走りでリビングに戻ると、急いでコタツの中に滑り込んだ。
「はー、ミッションコンプリート」
冷えた体にコタツの熱が沁みるわー。
「カラシは?」
「あ、忘れてた」
「取ってきてよ」
「やだよ。もう出たくないもん」
「俺のウスター」
「それも自分で取ってきて! 本日の私は閉店しました。またのご利用をお待ちしております」
正直、私もカラシ欲しいけど、コタツを出るくらいなら我慢する。妹と兄も我慢することにしたようだ、文句たらたらで肉まんのラップを剥がしていた。
「番組変えていい?」
肉まんに齧り付きながらリモコンに手を掛ける。返事がなかったのでいいのだろう。適当に回してみたが、特別見たい番組はやっていなかった。仕方なく音楽番組にすると、ちょうど週間ランキングを発表していた。見事にアニソンだらけで、兄妹がいる手前、ちょっと気まずくなった。
「あ、この曲知ってる」
「なにィ!」
「二ツ木が好きって言ってたから聴いてるの。私、歌えるよ」
マジかよカナちゃん、愛する男のためにゲームだけじゃなくアニソンまでも……! どんだけ彼色に染まるつもりだよ。付き合ってねーのに。
「こ、今度一緒にカラオケ行かない?」
「いいよ。奢ってくれるんなら」
まさか妹とカラオケに行く日が来るとは、お姉ちゃん感激である。よっしゃ、二人でカラオケの履歴をアニソンで埋め尽くしてやろうぜ!
嬉しさのあまり歴代の十八番を思い出そうとしていると、突然テレビ画面が真暗になった。かと思えばスポットライトが灯され、俯いた少女が照らし出される。
やがてピアノソロが流れ出し、少女がゆっくりと顔を上げた。艶々とした黒髪に左右対称の顔のパーツ、文句なしの美少女だった。
「Mプリンセスだ」
「なにそれ」
「知らないの? けっこー人気のアイドルグループだよ。メンバー全員の名前のイニシャルがMなんだって」
最初に映った子がメインボーカルっぽい。一番画面に映りこむ回数が多いから、この子が一番人気なんだろう。短いスカートから白い太ももを惜しみなく晒してダンスしながら歌っている。スタジオって寒くないんだろうか。
「このグループ、恋愛禁止なんだよ」
「へえー。こんな可愛いのに、男の子と付き合っちゃいけないのか」
「でも裏じゃ絶対に彼氏いるって。一番右で踊ってるのなんて、二股しそうな顔してるもん」
「そう? 大人しそうな顔してるじゃん」
「二ツ木もバカだよね、あんなののどこがいいんだか」
「なんだ嫉妬か」
「あ、音程外した。やーいバーカ!」
「やめたまえ、見苦しい」
およそ四分の曲を歌いきると、アイドルグループは決めポーズをとって静止した。再び画面はフッと暗くなり、直後に拍手が鳴り響いた。
次に映ったのは、歌い終わったMプリンセスたちがスタジオに並んで座り、画面の向こうの視聴者に愛想を振りまいている光景だった。メインボーカルの子は司会者から一番近い席に座っている。
「もう変えてよ、リホ」
「いーじゃん。他に観るもんないし」
変えろと言う割にはカナの視線は画面に釘付けだった。その目は恋敵を駆逐せんとギラギラ光っている。
「あっ、今の見た? ジュース飲むだけなのに超ぶりっ子してる!」
「普通に飲んでただろ」
「両手でグラス持つところがあざとすぎる!」
「駄目だこの子、嫉妬で我を忘れてる」
恋敵がちょっと動くだけでギャーギャー喚いて難癖をつける妹に一種の哀れみを感じた。そんなに心配しなくてもこの子は画面から出てこねーから!
『マドカちゃんって初恋はいつなの?』
『えーっとぉ、小学生のときですね』
フリートークでもメインボーカルの子を中心にして話題が振られ、番組が進行していく。他のメンバーはカットされたのか、さっきからほとんど喋っていない。初見の私にですら、メンバー内での明確な格差というものを感じ取ってしまうくらいにあからさまな構成だった。
『初恋ってどんな子? 知りたいなあ』
司会の男性がスタジオにいるお客さんにも同意を求める。練習でもやったのか、知りたーい、という揃った声が返ってきた。
『えー、恥ずかしいですよぉ!』
カナが舌打ちした。どうどう、恋敵以外にまで牙を向けるな。アイドルなんだから嘘でも恥らうって。私みたいに「初恋? んなモンねーよ」とか言うわけないだろ。
ふと、兄が画面をじっと注視していることに気がついた。怖いくらいに真剣で、しかも眉間の皺がどんどん深くなっている。なになに、兄ちゃんまでアイドルという存在に否定的なの?
『初恋の子はぁ、同じ小学校の子でぇ』
カナちゃん、チッチチッチ舌打ちうるさい! これぐらい許してやれよ、アイドルというお仕事の一環だから!
『周りに流されないっていうか、ちょっと鈍いんですけど、すっごく格好良いんです。私のヒーロー、みたいな』
「ッカー! あざとい! 何がヒーローだよ」
テーブル叩くな! あとオッサンみたいだぞ。とてもじゃないが今の妹の姿は二ツ木君には見せられん。
『今でも好きなんじゃないの?』
『うふふ』
恋愛禁止というルールがありながら、彼女は含みをたっぷり滲ませた笑みを浮かべていた。可愛い顔をしてけっこう強かな女子であるようだ。
フリートークはまだまだ続く。ここでようやく他のメンバーにもスポットライトが当たり始め、番組は和やかに進行していった。
「見て、リホ。マドカってやつ、けっこう性格悪いみたいだよ」
「お前は何を調べてるんだ」
スマホをいじっていた妹が画面を見せてくる。ちなみに兄妹の中で兄だけはガラケーのままだ。喧嘩でしょっちゅう携帯を壊すので、高価なスマホは買わないようにしているらしい。
「ほらほら見てよ。楽屋じゃかなりキツイこと言ってるんだって」
「カナちゃん、もうやめるのです。それ以上は憎しみしか生みませんよ……」
というか恋敵はどうなったんだよ。ほとんど喋る機会を与えられてなかったら可哀相になったって? お前けっこう優しいな。
「マドカって、どっかで見た気がするんだよね」
「テレビで何度か見てるんじゃないの?」
「そうじゃなくて、実際に見たことがある気がするってこと。どこだったかなあ」
「似たような子が学校にいるとか」
「あー最近こういう清純ぶったファッションしてる女子が多いんだよねー。茶髪から黒髪に戻して、化粧薄く見せてさ。中身は私と変わんないのに」
「アライグマ女子だな」
「なにそれ」
数年前から近所でもたびたびアライグマが目撃されているが、可愛らしい見た目に反してかなり凶暴なので絶対に近づかないようにと回覧板で回ってきたのだ。それを説明してやると、突然アライグマが襲い掛かってきた。
「誰が凶暴だよ!」
「今まさにだろうが!」
アライグマなんて可愛いもんじゃないよ、メスゴリラだよお前は。しばらく押し合いへし合いしてると、ダンッ、とものすごい音と共にテーブルが揺れた。
「寝る」
コタツから出た兄は、足音荒くリビングを去っていった。寝るにはまだ早すぎる時間だ。私たち姉妹は掴み合ったまま、互いの顔に視線をやった。
「リホがからかうからだよ」
「いやいや、カナが先に手を出してきたんでしょ」
「すっげー怒ってたよね」
「うん。姉妹の醜い争いにぶちギレてたね」
そろそろと手を離し、大人しくコタツに入りなおした。テレビ画面にはいつの間にか違うアーティストが映っていた。
***
翌日は朝から体育館で三学期の始業式が執り行われた。
表彰式や教師の去就、校長先生の長い話を、白い息を吐き出しながら拝聴した。防寒具の着用は認められていたが、寒いもんは寒い。コートにマフラー、カイロを握り締めて震える一時間半の始業式だった。
二年六組の教室に戻ると、クラスメイトがすぐさまストーブのスイッチを入れた。エアコンは今のところ三年生の教室だけで、一年、二年の教室にはまだ設置されていないのだ。
ストーブ周辺にはあっという間に生徒の人だかりが出来上がった。あそこに体を押し込む気にはなれなかったので、大人しく自分の席につく。後ろのほうだから授業中はあてられにくいが、冬場は暖気がまるで届いてこない不毛の地であることに最近になって気がついた。
「寒かったー」
遅れて教室に入ってきた岩迫君が隣の席に座った。コートを椅子にかけ、冷えた指先に息を吹きかけていた。
「薄着でテニスしてるんだから、あれくらい平気じゃないの?」
「体動かしてたらいいけど、突っ立ってるだけだと寒いよ」
「校長先生のギャグも寒かったしね……あれ誰か笑ってやれよってすごいヒヤヒヤしたもん」
「そんな場面あったっけ? 俺、全然気づかなかった」
雑談をしていると、担任の茂木先生が教室に戻ってきた。正月の間に先生は明らかにふっくらとしていたので、さっそく生徒からイジられていた。
寒いというのに、先生は教室のドアを開けっ放しにしていた。その意味を知ったのは、先生が教壇に立ったときだった。
「転校生を紹介するから、皆、早く席につけー」
ええっ、とクラスメイトたちがざわめき立ち、全員の視線が開いたドアに釘付けとなる。そこには誰もいないと思われたが、中の様子を窺うように女子生徒がゆっくりと姿を見せた。
「マドカ?」
一番前の席に座っていた女子が、信じられないと言わんばかりの声を上げた。それをきっかけに、教室は徐々に収拾のつかない騒ぎへと発展した。
嘘! そっくりさんだろ。いや本人だって。
と会話はもうめちゃくちゃに交じり合い、先生が大きな声で静かにしろと言っても誰も聞いちゃいなかった。
「はじめまして」
けれど、彼女が発した一言で、再び教室はしんと静まり返った。大勢を目の前にして慣れているかのような立ち居振る舞いに、ここがステージか何かかと錯覚するほどだ。
「なあ、吉村。あの子って有名人?」
隣に座る岩迫君がこそこそと訊いてくる。
「たぶん、Mプリンセスっていうアイドルグループの一員、だと思う」
私も昨晩知ったばかりだけど、おそらく同一人物だ。ああいう子って芸能科がある高校に通っているもんだとばかり思ってた。
「春風まどかです。今日からよろしくお願いします」
まるで彼女が歌い終わった後みたいに、拍手が鳴り響く。やっぱりホンモノだったんだ、と誰かが興奮気味に叫ぶ。
歓迎されていると分かったのか、春風さんはほっとした表情を浮かべていた。
「で、席なんだけど、」
ぐるりと教室を見渡す先生の視線に、皆ドキドキしていた。空いている席は後ろのほうだけだ。机と椅子は置いてないが、スペースがある。
「せっかくだし、席替えするか」
次の瞬間、教室が爆発した。いや、物理的にじゃなくて、感情的にね。突然のアイドルの登場にただでさえ興奮を抑えきれないのに、席替えなんて言われたから我慢できなかったんだろう。と、皆のテンションについていけない私はそう分析するのであった。
「えー席替え? やだなあ」
なんか隣でテンション低い子がいるけど、理由は訊かん。訊かんよ。
先生がクジを作っている間に、春風さんの机と椅子を取りに行くと言って男子五人が教室を飛び出していった。お前ら、そんなにいらねーだろ。
クジを待つ時間も、皆の視線は教室の前のほうにいる春風さんに注がれていた。前の席の子が果敢にも話しかけている。彼女は割りと気さくで、普通にお喋りしていた。カナちゃん、性格悪いは嘘情報っぽいぞ。
「じゃあクジ引き始めるぞ。まずは、春風からな」
「はーい」
クジを引く姿すらも可愛いとかどういうことだ。アイドルってすげえなあと感心しながら見守っていると、彼女は折りたたまれた紙片を開き、ぱっと笑顔を浮かべた。
「十五番です!」
ォオオオと歓声が上がる。何の歓声だコレ。
黒板に書かれた番号、十五番が消されて春風さんの名前が書かれた。ちょうど教室の中心部だった。
そこから前後左右の席を巡って、熾烈なクジ引き戦争のゴングが鳴った。人気あるんだなあと暢気に眺めていた私は、ふと春風さんと目が合ってぎょっとした。
向こうも教室の風景を眺めていたんだろう。偶然視線がぶつかったのだと思って、私は挙動不審に逸らしてしまった。愛想笑いくらいは浮かべておくべきだったか。感じの悪いヤツ、と思われたかもしれない。
もう一度視線を戻すと、彼女はまだこっちを見つめていた。内心ぎょっとしながらも、今度は勇気を出してぎこちなく頭を下げる。彼女は笑った。とっても嬉しそうに。
……ん? なんだ今の。
どっかで見たことあるような、懐かしいこの感覚。
「まだクジ引いてないやつ、早く来い」
私と岩迫君が同時に立った。教壇前まで行くと、春風さんはもう私を見ていなかった。
「先生、私、六番です」
「俺は二十番」
廊下側から一気に窓側へとなった私に対し、岩迫君は、
「これで全員の席が決まったな」
転校してきた春風さんの右隣に決定した。
***
今日は始業式と席替えだけで終了し、帰ることになっていた。
だというのに、二年六組の生徒のほとんどが教室を出ようとせず、それどころかよそのクラスの生徒までうちの教室に詰め掛ける始末だった。
「すげーな」
「アイドルだもん」
前の席に座る甲斐君が、教室の中心部を見て言った。
ちなみに甲斐君、私の後ろから前に移動していた。一学期が左隣で、次が後ろで、今は前。なんだね君は、いつまで私に付き纏うつもりなのかね。
「クジでそうなったんだからしょうがねーだろ」
「今度は右隣にくるつもりでしょ。どんだけ私のことが好きなんだよ」
「好きなのは岩迫だろ」
「おだまり!」
肩をグーで殴ってやった。声でけーよ!
「でも岩迫が可哀相だよな。外に出たいのに、囲まれてるし」
春風さんの隣の席になった岩迫君は、彼女目当てにできた生徒の壁の中でさっきからおろおろしていた。部活に行きたいんだろうけど、人が凄すぎて躊躇している。さすがの彼も女子の群れを押しのけるなんてことはできないようだ。
「吉村、助けてやれよ」
「神様は乗りこえられる人にだけ試練を与えるのだよ、甲斐君」
あの中に入っていくなんて絶対ムリ。だから薄情ではあるが、私は彼を見捨てることにした。
「帰んの?」
「うん。いつまでたっても人が引けないし、早く家に帰ってコタツ入りたいから」
「じゃあ俺も帰ろーっと」
揃って教室を出ようとすると、岩迫君から助けを求める視線を投げかけられた。すまんな、頑張れ。甲斐君と二人、ビシッと敬礼を送り、教室を後にした。
正門のところで甲斐君と別れ、学校近くの本屋に寄った。新刊がないか探したり、雑誌を立ち読みしたり。結局、前から気になっていた漫画を一冊買って本屋を出る。
住宅街に差し掛かったところで、それは起こった。
「リホちゃん」
後ろから呼びかけられ、足を止めた。振り返ると、教室にいるはずの転校生が立っていた。
「春風さん? 学校にいるんじゃ」
「会いたかった」
目を潤ませてそう訴えかける彼女に、これは芝居の一環かと思わず周囲を見渡してしまった。クラスメイトによると彼女は今、ドラマに出演しているらしい。もちろん撮影スタッフなんているはずもなく、私と春風さん、二人だけがそこにいた。
「えっと、あれ? さっき名前呼んだ?」
なんで知ってるの、と訊ねれば、春風さんはクスクス笑った。可愛い。可愛いんだけど、なんだろう、胸の辺りがぐにゃっというか、誰かに握りつぶされているかのような変な感じがする。
「私のこと、忘れちゃったの?」
一歩、また一歩とこちらに近づいてくる春風さんの顔を、私は昨日のテレビで初めて見たはずだった。
ついに目の前に立った彼女の顔をじっと見つめていると、
「眼鏡、外して」
「へ」
「目を見せて」
彼女の手が伸び、私の眼鏡を取り去る。一気に不明瞭になる視界に、よく見ようと眉間に皺が寄った。
「やっぱり、今もショータ君にそっくりね」
ぼやけた彼女の顔が、今、どんな表情を浮かべているのか分からない。けれど私の脳裏に、はっきりとした顔が浮かび上がる。
『ショータ君とそっくりだね』
昔、同じことを言った少女がいた。親友だった。親友だと思っていた、その子の名前は。
「まさか」
揺れるランドセル、給食袋、二人で通った飼育小屋。
「……マドちん?」
目の前の少女がくすぐったそうに笑った。
無邪気な笑顔が、思い出の中の少女と完全に重なり合った瞬間だった。