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69、愛、それは

しれっと更新再開。

 ミエコさんが去ったあと、ミノりんはドアを睨みつけたまま微動だにしなかった。プライドを傷つけられたその背中からは、どす黒い何かが渦をまいているのが見えた気がして、私はそっと距離をとった。

 制服の胸ポケットに入れていた携帯を開くと、時刻は午後九時をさしていた。メールの着信が一件。妹のカナからだ。

『リホのプリン、食べたから』

 食べていい? どころか、事後報告。

 ちゃんと名前書いてたのになんで食うんだよ。怒りのメールを返信しておいた。

 携帯を閉じると、自然と肩の力が抜けて、私はそばにあったソファに座り込んだ。非日常が日常に戻った瞬間だった。

 ソファにだらしなく背中をあずけながら、もう一度携帯を開く。もうすぐ帰るからと妹にメールを打って、送信ボタンを押した。 

「――ってえ、ここ、どこだ?」

 声のしたほうを見ると、タモツがこめかみを押さえながら起き上がり、周囲を不思議そうに見渡していた。兄に殴られた際に気を失っていたらしい。記憶が混濁しているのか、私と目が合うとますます怪訝な顔をしていた。

「どうしたタモツ、記憶喪失か?」

 ならばと私はソファから身を乗り出し、一気にまくし立てる。

「いいか、お前は私の下僕だ。リホコ様と呼んでいたんだぞ」

「嘘を教えるな、嘘を」

 後ろからスパーン!と頭を叩いてきたのは澤田だった。左手には二万円の入った封筒がしっかりと握られている。隣に立つ浅野は、今日の報酬をさっそく自分の財布に移していた。

「なんでまた澤田さんたちがこんなとこにいるんですか?」

「むしろこっちの台詞だよ。お前、物騒なことに巻き込まれてんな」

「ショータに頼まれて、ミノルって人に雇われたんだよ。ビルの下固めてる連中をのすのが俺たちの仕事だったってわけ」

 大事そうに財布を撫でる浅野の横で、澤田がうんうん頷いた。

「あれだな、友情のために危ない橋を渡ったってやつだな」

「違うだろ、金に釣られたんだろ」

「それは否定できないなあ」

 浅野が悪びれずに肯定する。彼だけ目立った怪我がないのが恐ろしい。

 ちなみに兄は、ミノりんに負けたことがよほどショックだったのだろう。取り巻き連中に慰められては盛大に逆ギレしていた。

「そんなあぶく銭、パーッと使っちゃいましょうよ。リホコお肉が食べたいな」

「ざけんな。なんで体張って稼いだ金でお前を食わしてやらなきゃならねえんだよ。家帰ってソーセージでも食ってろ」

 澤田は吐き捨てると、「俺らもう帰るから」と言って浅田と共にあっさり部屋を出ていった。

「俺もそろそろ帰ろうかな」

 床に座り込むタモツを引き起こしながら神谷が言った。タモツを軽々支えると、私の目の前で立ち止まる。

「俺は友情でも、ましてや金のためでもないからね」

 私の目をのぞきこむ神谷の挑戦的な表情が、記憶の底に沈めたはずの出来事をあっけないほど簡単に浮上させた。

 文化祭。あの日、頬に触れた神谷の親指の感触が、生々しいほどによみがえる。恋愛に見向きもせず、二次元に篭っていた私を現実に引きずり出した男。

 さっきまでは平気だったのに、今、目の前に神谷がいる。そのことに私は急に耐えられなくなってしまった。

「そんな顔しないでよ」

 困ったような、けれど面白がるような神谷の声に、首筋が引き攣ったように痛くなった。ああ、絶対顔が赤くなってる。

 私が見せる反応に、神谷はおおいに満足した様子だった。よしよしと頷いて、次の瞬間、なぜかタモツを床に放り投げる。思わずそちらに気を取られた私の顎を、ヤツはすばやくすくいとった。

 リホちゃん呼びですっかり油断していた私の耳に、ふっと息がかかる。

「リホ」

 そして頬に、ふにっとした衝撃が襲った。

「神谷ぁあああああ!!」

 兄の怒号で、我に帰った。

 あれ、なに、今なにがあったの?

 チュッて。チュッっていったぞ。リホコ子供だから分かんない。

 足元ではタモツが驚愕の眼差しを私と神谷の間で往復させ、謎の首フリ人形みたいになっていた。

「これで岩迫と同点かな?」

 ぺろりと唇を舐めて得意満面な神谷に、怒り狂った兄が拳を振り上げる

 二人の取っ組み合いを呆然と眺めながら、私の体はソファからずり落ちていった。




 誘拐事件が起こった日から半月がたった。

 私は朝から台所を占領し、冷蔵庫に貼ったレシピと手元を何度も確認しながら慣れないお菓子作りをしていた。

「リホ、おはよぉ」

 お腹をボリボリ掻きながら、寝ぼけ眼の妹が二階から下りてきた。甘ったるい匂いに鼻をひくつかせている。

「おおおカナちゃんいいところに! 味見して!」

「んー」

 まだ半分寝ているカナは大口を開けた。そこに出来たてのお菓子をひとくち放り込む。

「どう? どう?」

「おいしいー」

「マジで! やった!」

「この豆腐」

「プリンだよ!」

 味覚もまだ寝てんのか。どこからどう食べてもプリンだろうが!

 あれか、まだカラメルかけてないから勘違いしたんだな。きっとそうだ。

 甲斐君直伝のレシピを睨みつけ、仕上げのカラメルをプリンにそそぐ。あとは冷やして完成。家を出る直前に冷蔵庫から出して持って行けばいい。

 二時間後、出来上がったプリンをひっくり返らないようにして紙袋に入れ、家を出発した。目的地は倉崎家である。

「用事が済んだらすぐに帰ってこいよ」

 倉崎家までバイクで送ってくれた兄が苦い顔で言う。

 事件は一応の解決を見せたものの、私がこの家に近づくことを兄はよしとしていないのだ。ミノりんに負けたというのが最大の理由だろうが、それに触れると一気に不機嫌になるのは分かりきっているので何も言うまい。けどな、この世には兄ちゃんより強い人間がたぶん一万人以上はいると思うぞ。

 インターホンを押して来訪を告げると、屋敷の中からは中年の男性が顔を見せた。以前、虎さんの入院する病院で会った男性だ。高村ですと名乗り、名刺を渡された。

「お久しぶりですね」

「はい。あの、今日はお邪魔します」

 持ってきたプリン入りの紙袋を、つまらないものですがという口上を添えて差し出した。しまった、もっとちゃんとした紙袋に入れておけばよかったと後悔したけれど、後の祭りだ。

 紙袋を受け取った高村さんは、背後で威嚇する兄を見てもまるで動じなかった。丁寧に頭を下げられ、兄がちょっと動揺していた。これが大人の対応ってやつだよ、兄ちゃん。

「さあ、中へどうぞ。お二人ともお待ちですよ」

 兄に別れを告げ、頭を下げ下げお邪魔させてもらった。二度目の訪問になる倉崎家のお屋敷は、相変わらずだだっ広い。コタローと初めて出会った蔵を横目に見ながら長い廊下を歩いていく。

 以前、訪問したときと同じ部屋の前までやってくると、案内をしてくれた高村さんが障子に向かって私が来たことを告げた。すぐに虎さんの元気そうな返事がして、中に入るよう言われた。

「よう、リホちゃん。わざわざ来てもらってすまねえな」

 セーターの上に半纏を羽織った虎さんが、満面の笑みで迎えてくれた。いつものオシャレな姿とはほど遠いけれど、見るからに温かそうだ。病院で会ったときと比べて若干ふっくらとした顔に安心した。

 緩んだ空気を引き締めるように、うんっ、と咳払いがした。びっくりしつつ部屋に一歩足を踏み入れると、そこには顔見知りがいた。

 なんでここに、北川家のじいさまが座っているんだ。

 立ち尽くしたまま呆気にとられていると、虎さんが「まあ座んなよ」と勧めてくれた。状況がよく分からないまま腰を下ろした私の顔に熱気がかかる。座卓の上では蓋をされた鍋が湯気を上げていた。

「いきなりこんな仏頂面のじじいが出てきたら、びっくりするだろうよ。リホちゃん、驚かせて悪かったな」

 その仏頂面のじじいは虎さんを鍋越しに睨みつけたまま、むっつりと黙り込んでいる。どうしてここにいるのか、その理由を自分から話すつもりはないようだ。

 高村さんが去り、三人だけとなった。そのタイミングを見計らったように、虎さんが言った。

「ミエコとコタローのことだけどよ、本当に、警察に言わなくていいのかい?」

 元警察官の前で言う台詞だろうか。

 私はじいさまの存在を気にしつつ、こくりと頷いた。

「馬鹿かお前は!」

「うおっ、喋った」

 ずっとだんまりかと思っていたらこのじいさん、いきなり活動を開始した。

「鞄をひったくられて、誘拐されて、挙句の果てには首まで絞められたそうだな。なのに被害届を出さない? 正気か!? もっとよく考えろ!!」

「よく考えた末の結論ですけど」

「甘いわ!」

 んだ、それ。よく考えたのに駄目出しかよ。

 たしかにじいさまの言っていることは間違ってはいないが、それはあくまで一般論だ。私には私の事情というものがあり、感情がある。痛い目にあった当の本人が悩みに悩んで出した答えを、じいさまに否定される覚えはない。

「甘くて何が悪い!」

 目の前の鍋の蓋がわずかに持ち上がった。沸騰寸前だ。

「虎さんは友達だもん、甘い裁定下したって別にいいだろ!」

「ものには限度というものがある!」

「私の限度がどんなもんか知ってんのか! いいんだよ! ひったくられようが誘拐されようが首絞められようが! 生きてるだけで丸儲けって言うだろうが!」

「この馬鹿娘があああああ!!」

 立ち上がったじいさまにつられて私も立ち上がり、ファイティングポーズを取った。

 やんのか、こら。来いや!

 右手をくいくい動かし挑発する。やめなよぉ、という虎さんの弱りきった声が聞こえたような気もしたが無視だ無視。

 先に動いたのはじいさまだった。挑発を続ける右手を掴んだと思った瞬間、引き寄せられる。同時にスパーンと足が掬われ、私の体は宙に浮いた。

 手加減なしかじじぃいいい!

「どうして分からんのだ」

 畳に打ち付けられるはずの体は、ふわりと受け止められた。すぐ目の前にじいさまの顔がある。

「ひとは頭を打っただけでも簡単に死んでしまう。お前は今回、死んでいたかもしれなかったんだぞ」

 じいさまの顔が、痛みに耐えるように一瞬歪んだ。傷ついた表情を見るのは、初めてだった。

「どれほど心配したと思ってる。それでもお前は、大げさだと言って笑うのか」 こちらが反論する前に、畳の上にそっと体を横たえられた。慌てて起き上がると、部屋を出て行こうとしているじいさまに縋りつく。

「そんなんじゃない!」

 私はただ、これ以上心配してほしくなかっただけだ。大したことないって言って、安心させたかっただけなんだ。

 大丈夫だよ。だからそんな顔しないでよ。そう伝えたかっただけなのに。

「勝手に勘違いすんな! 素直になれない十七歳のいじらしさを理解しろっつーの!」

「やめんかっ、着物が脱げるっ」

 あーん怖かったー! と未知やすえばりに言えばよかったんかい。けどな、世の中の女すべてが分かりやすく怯えてみせると思ったら大間違いだ。

「本当はめちゃくちゃ怖かったわ! でもそれを見せないのが女の、人間の意地ってもんだろっ、私はその意地を見せたかったんだよ!」

「わ、分かった、もう分かったから、」

 着物をぐいぐい引っ張られてすっかり着崩れたじいさまは、弱りきった顔で降参した。「笑うな、虎」と私の背後にいる虎さんを睨みつける。

「ほら、もう帰らんから離れろ。男の体に気安く触るもんじゃない」

 やんわり引き剥がすと、乱れた着物はてきぱきと直し、じいさまは元いた場所に腰掛けた。

「リホちゃんに話があって来たんだろうが。帰ってどうする」

「うるさい。お前こそ、リホに感謝しろ。一生分の借りができたと思えよ」

「そりゃもちろんさ」

 な、と虎さんに同意を求められ、一生分なんて大げさなと思った私は苦笑いで返しておいた。

「俺だけじゃねえ、リホちゃんはうちの会社にとっても恩人だ」

 普通、これだけの事件を身内が起こせば、会社にとってどれほどのダメージを負っていたか。従業員は路頭に迷い、取引先にも迷惑をかけていたかもしれない。私が不問に処したことで多くの人生が救われたのだと言われ、あまりのスケールのでかさにそれ以上考えることをやめた。

 騒動が収まったのを見計らったように、鍋の蓋がぐらぐらと持ち上がってついに吹き零れた。虎さんが慌てて蓋を開け、じいさまが火力を弱くした。

「あちゃあ、白菜茹ですぎたか」

「だから芯と葉は分けろと言っただろうが」

「おめーがリホちゃんに喧嘩売るから時間食ったんだろ!」

「私、くたくたの白菜も好きですよ」

 ほうっておいたら延々と言い争いを続けるに違いない二人を仲裁し、しばし食事の時間と相成った。じいさまひとりならまだしも、虎さん相手にはまだまだ遠慮のある私。そのうち付き合いが長くなったら「じいさんたち、とっととメシにすんぞ」と言える日が来るのかもしれない。

「リホちゃん、豆腐いるかい?」

「いただきます」

「竜蔵、おめーは箸ですくえ」

「地味な嫌がらせをするな。リホコ、舞茸も入ってるぞ。好物だろう」

 しばし三人で同じ鍋を突きあう。行き交う会話は、うちで鍋をやったときに兄妹で交わすものと似ていた。

 シメに雑炊。ご飯を投入し、出来上がるのをワクワクしながら待つ。

「そういえば、遺書って結局誰に預けたんですか?」

 大事な女に預けたと虎さんは言ったそうだが、事件はきっとここから始まったのだろう。遺書の行方を捜し、疑われた私がひったくりに襲われた。いや、きっかけはもっと昔かもしれない。そもそもこの事件は、私がうららさんに似てさえいなければ起こっていなかった。こういうのを因果、奇縁と言うのだろうかと、オタクな私は考える。

「あーそれな。うん、ええと、……へへへ」

 なぜか盛大に恥ずかしがっている虎さんを訝しげに見ていると、彼の向かいに座るじいさまが心底苛立たしげに言い放つ。

「照れるなじじい。気色の悪い」

「だって照れるだろうよ!」

「お前の不用意な発言のせいで、リホが巻き込まれる羽目になったんだ。隠しとらんで教えてやれ」

 訳知り顔のじいさまに容赦なくせっつかれ、ついに虎さんは白状した。

「……俺の女房だよ」

「え? でも、たしか」

 すでに亡くなっていると聞いていたけれど。

 聞き間違いかと記憶を辿る。虎さんは両手で顔を覆うと、乙女のように身を捩りながら、

「死んだ女房の墓に、遺書を隠したんだよぅ!」

 と叫んだ。

「なるほどー……ってバチ当たりな!」

「どこの世界に自分の女房の墓を暴く夫がいるんだ」

「アイツなら許してくれると思ったんだよ! うららの墓参りにも勝手に出かけるほど度量のでかい女なんだから!」

 虎さんは言う。うららさんに対する想いを承知の上で結婚してくれたこと、死んだ幼馴染を偲んで泣くそんな貴方が好きよと言ってくれたこと、うららさんの写真は書斎に飾っているが、奥さんの写真は肌身離さず持ってること、それはもう訊いてもいない盛大なノロケをぶちかましてくれた。

「そのことをミエコさんに話してあげてたら、復讐なんて真似、しなかったんじゃないですか」

 いやんばかんと身を捩っていた虎さんが動きを止め、私を凝視した。じいさまの視線も同じように感じながら、私はくつくつと音を立てる鍋を見て、雑炊まだかなと考えていた。

「気づいてたのかい?」

 鍋越しに問いかけられ、頷いた。

「見てれば分かりますよ。まあ、ミノりんは気づいてなかったですけど」

 彼が今ここにいなくてよかったと思う。私の推察を一笑に付しただろうから。

 ジジコンを拗らせすぎた弊害かどうかは分からないが、あのひとはどうにも虎さん以外の人間を侮っているところがある。自分にとって取るに足らない他人が騒ぎを起こした理由も、取るに足らないと思い込んでいた。

「その辺の話も、ちゃんとしとかなきゃいけねえな」

 虎さんはそう言いながらも鍋の蓋を開け、雑炊の具合を確かめる。土鍋の中ではちょうどいい具合に水分の飛んだ雑炊が出来上がっていた。

「まずはひったくりをしたコタロー。あれはハッキリ言ってただのバカだ」

「バカって、身も蓋もない」

「後先考えずにリホちゃんを疑って襲いやがった。バカで十分だ」

 雑炊をよそいながら、だが、と言って手を止める。

「あいつはあいつで、母親を想ってしたことらしい。ミエコが、母親がうららを嫌っていたことを知っていたからな。遺書を奪ってなかったことにしてしまえば、ってな」

 虎さんが書いたという遺書の中身には、当たり前だ私の名前はひとことも入っていなかったという。けれど死んでさえも父親の中に住み続ける女の存在は、ミエコさんだけじゃない、他の親族をも疑心暗鬼に陥らせていたと彼は言った。

「じゃあミエコさんが指示したことじゃなかったんですね」

「最初はな。けどコタローがしでかしちまったもんだから、あとに引けなくなった、いや、これを利用して俺に復讐しようとしたんだ。息子の責任は親の責任。どうせ罰せられるならとことんまでやっちまえってな」

「お前に似て無茶苦茶な娘だな」

「ありがとよ」

 じいさまの分の雑炊を手渡して、苦い顔で笑った。

「誤解は解いたんですか?」

「ああ、ちゃんと伝えたよ。そりゃあ、うららのことは大事だが、生きてる人間のほうがずっと大事だ。女房に惚れた瞬間から、あいつが一等好きだった。あいつが死んでからは、ミエコが、自分の子供たちが何より大事だったってな。そう言ったら、ミエコの奴、泣きながら飛び掛ってきやがってよ」

「早く言えよって感じですもんね」

「はは、その通りのこと言われたよ。全然、伝わってなかったんだとそこで初めて気がつくんだから、俺も大馬鹿野郎だよな」

 引き攣った笑いからは、ただただ後悔だけがにじみでていた。言葉にしなくても伝わっているというのは、本人だけの認識だったというのはよくあることだ。逆に言葉にしてほしくないことも世の中にはあるんだから、人生ってのはなんとややこしく、難しいものであることか。

「でも犯罪は犯罪だ。警察沙汰にはしないことになったが、うちできちっと裁く」

 元警察官のじいさまの目元がぴくりと動く。疑っているようだが、食って掛かることはなかった。

 おもむろに虎さんが座布団から下りる。何事かと思っていると、彼は私の正面に座り、すっと両手を畳についた。

 何をするつもりなのか瞬時に悟った私は慌てて止めに入る。しかし。

「やらせてやれ」

 頭を上げさせようとする私を制したのはじいさまだった。土下座する虎さんを厳しい眼差しで見下ろしている。

「娘と孫に代わって謝罪する。本当に、すまなかった」

 畳に額を押し付け、微動だにしない。

 目の前のつむじを見下ろしていると、彼がひどく責めぬいてほしいと感じているのが伝わってきた。その気持ちは分からないでもないが、だからといって私にできるとは到底思えない。

 沈黙が続く。じいさまにフォローは望めないと思った私は、諦めて座布団を外し、畳に正座した。前にじいさまに言われた作法を思い出しながら指をそろえ、姿勢を正す。そして改めて、土下座する虎さんを見下ろした。

「ねえ、虎さん。頭を上げて聞いてください」

 彼は微動だにしなかった。頑固なんだからと小さくため息を吐き出し、そのまま話すことにした。

「虎さんが初めてうちのお店に来たとき、私、他のお客さんに怒られてましたよね」

 虎さんの頭がぴくりと動く。

 テーブルに水滴が落ちてたって理由だけで猛烈に怒られていたわけだが、テーブルを綺麗に拭いて謝罪するだけでは許されなかった。大きな声で怒鳴られて店中の注目を浴びた私は、あのときたぶん泣きそうな顔をしていたと思う。オーナー夫妻が慌てて厨房から出てくる前に、隣のテーブルに座っていたお客さんが間に入ってくれた。

 それが、虎さんだった。

「それ以上言うなら俺が相手になってやるって、鬼瓦みたいな顔で庇ってくれたこと今でも忘れません。守ってくれて、ありがとうございました」

 あのとき虎さんが守りたかったのは、私じゃなくて、うららさんだったのかもしれない。けど、それでもいい。ひたすら頭を下げて小さくなる私を救ってくれたのは紛れもない事実だ。

「あの日からずっと、何かお返しがしたいと思ってました。その機会がやっとめぐってきたんですね」

 虎さんが顔を上げた。信じられないという表情で、しばらく反応がない。

 やがて大きく開いた目が潤み、ぽかんと開いた口がわなわなと震えた。虎さんはがばっと畳に突っ伏した。亀のように丸まって、その体はときどき何かを堪えるようにぎゅっと力が入っていた。




 お開きになるころには、すっかり暗くなっていた。自宅まで車で送ってくれるというので甘えさせてもらうことにした。

「そういえば、虎さんとじいさまってどういう関係なんですか」

 玄関で草履を履くじいさまが、ぎくっと肩を揺らした。その後ろで虎さんがあくどい表情を浮かべた。

「帰るぞ」

「いきなり耳が遠くなってんじゃないですよ。いいもん、虎さんに訊くもんね」

 虎さんは体をくねくねさせながら「どうしよっかなー」と焦らす態度をとってじいさまを挑発した。

「おい竜蔵、俺はちゃんと包み隠さず話したぞ。おめえも男なら、潔くすべてをぶちまけろ。今日はそのために来たんだろうが」

 着物姿のじいさまは忌々しそうに虎さんを睨みつけていたが、やがて観念したというように視線を落とした。

「……幼馴染だ」

 ぶっきらぼうに吐き捨てると、じいさまは黙り込んだ。え、それだけ? ドラクエの村人だってもうちょっとマシな情報をくれるんだけど。

 そのとき私の脳裏に、ひとつの映像が浮かび上がった。セピア色の、一部が欠けた写真だ。

「あっ」

 虎さん、うららさんと一緒に映っていた人だ。顔の部分を破かれていたのは、じいさまだったのだ。

「分かったんならいいだろう。帰るぞ、リホ」

「おい待て竜蔵」

 踵を返しかけたじいさまの前に、虎さんが立ちはだかる。睨みあう二人の背後に、龍と虎が見えた気がした。

「まあだ言ってねえことがあるだろうよ。俺がリホちゃんに近づくために店に通ったんだ。おめえも孫娘使って繋がり持とうとしたんだろうが」

 二人の幼馴染、うららさんに顔だけは激似な私だ。じいさまも驚いたに違いない。違いないのだが、初対面を思い出してみるとめっちゃくちゃ普通の態度だったような気がするんだけど。

「お前と一緒にするな! うちは麗華が仲良くなって家に連れてくるようになっただけだ。わしは何もしとらん」

 たしかに、キタちゃんの家に行ったのは完全なる私の意思だ。じいさまが連れてこいと言ったなんて話、親友から聞いたことがない。

「でも家に行くたびやたらと私を鍛えようとはしましたよね」

「そ、それはだな、お前があまりにもひ弱で」

「おもっくそ面打たれて脳震盪起したことがあったような」

「なに!? 本当か竜蔵!」

「あれは、悪かったと思ってる」

 しどろもどろになるじいさまに虎さんが食ってかかる。

 あれだろうなあ、うららさんみたいになってほしくなくて、私を鍛えようとしたんじゃないのかなあ。

 生ぬるい気持ちになりながら、じいさまを窺う。目が合うと、口元をもごもごとさせていた。竹を割ったような性格のじいさまにしては、煮え切らない態度だ。

「麗華の友達として紹介されたとき、正直驚いた」

「普通の態度に見えましたけど」

「こいつ、驚いたときほど顔が変わんねえんだよ」

 茶々を入れる虎さんを、じいさまが視線で黙れと訴える。

「わしもずっとうららのことが胸に引っかかっていた。何かしてやれたんじゃないかと後悔ばかりでな。麗華がお前を連れてきたとき、因縁めいたものを感じたよ。名前が引き寄せたのかと思った」

 言葉の意味が分からず、私は首を捻った。しかし間を置いて、理解した。

 キタちゃんの名前……名前……麗華……麗……うらら。

「うわっ、うわぁ、うわー」

 以前、キタちゃんから聞いたことがある。自分の名前は最初、礼華だったって。なのに、じいさまが字を変えたんだって。「じいちゃんのことは尊敬してるけど、礼華のようがよかったな」と言ったキタちゃんの不満げな顔を、私ははっきりと覚えている。派手な名前にコンプレックスを持つ親友には、絶対に聞かせられない話だと思った。

「全部話したぞ」

「最後は話さなくてよかったと思う」

 本人が聞いたら「なんじゃそらー!」と叫んで竹刀を振り回しているだろう。

 意味が分かっていない虎さんに教えてあげると、彼もどん引きしていた。

 微妙な空気を引きずったまま、屋敷の外に出る。送迎の車がすでに待機していた。

「次はいつ集ろうか」

 虎さんが言った。まるで私とキタちゃんが別れ際にするように、さりげないものだった。

「私、来週の火曜日と金曜日ならバイトもないし空いてますよ」

「わしは金曜なら」

「じゃあその日に俺も空けとく。今度は何を食うかなあ」

「餃子パーティしましょうよ! 自分たちで餡作って皮で包むんです」

「お、楽しそうだな」

「材料はどうする。分担するのか」

 ああだこうだと打ち合わせが始まりそうになったが、時間も遅いと傍に控えていた高村さんが止めてくれた。細かな打合せはスマホのメッセージアプリですることになった。スマホの扱いに慣れない虎さんに、じいさまが使い方を教えている光景は実にシュールだった。孫娘とのやりとりで慣れているんだろうけど、違和感は拭えない。

「リホちゃん、何かデザート作ってきてよ」

「今日の美味しかったですか」

「ああ。中々美味い木綿豆腐だった」

「プリンだよ」

 豆腐は鍋のほうに入っていただろうが。全然違う……違うよな? 自信なくなってきたぞ。

「じゃあな、また今度」

 まるで付き合いの長い友達のように手を振って別れを告げた。お店でたぶん会うんだろけど、今日は何かが特別だった。




 某日、私は空港のロビーにいた。

 早朝にも関わらず、ターミナルは観光客やビジネスマンでにぎわっていた。

 国際線搭乗口前の一角で、私はアイスクリームをなめていた。

「納得できない」

「はあ、なにがですか」

 垂れ落ちそうになったクリームをなめながら隣に視線をやる。ミノりんが腕組をして、虎さん以外のこの世のすべてが憎いという表情を浮かべていた。

「ミエコ叔母様とコタローは当たり前として、なんでこの僕が本家を追い出されなきゃいけないんです」

「色々やらかしたからじゃないですか」

「やらかした? 僕が? 事件解決を指揮したのは僕でしょう」

「いたいけな女子高生を囮に使ったのがマズかったんじゃないっすかねー」

 ミノりんが乗る飛行機の出発まで二時間はゆうにある。一時間前には搭乗口を通らないといけないらしいから、ああくそ、あと一時間はこの「僕は悪くない」を聞かなきゃいけないのか。

「拒否しなかったじゃないですか」

「拒否させなかったの間違いでしょう。潔くロンドンに飛んでください」

「嫌だ! こんなの島流しじゃないか!」

「イギリスに謝れ」

 ミノりんにおごらせたアイスクリームを食べきると、今度は塩辛いものが食べたくなった。ラーメン食べたいなあと周囲に店がないか見渡す私の手を、ミノりんが縋るように握った。

「お願いします、リホコさん。あなたの口からおじいちゃんに言ってください。下っ端平社員でもなんでもするから、傍にいさせてくれって」

「ジジコンここに極まれりだな。ミノりん、愛は押し付けるものじゃない、一歩下がって見守るものですよ」

「彼氏すらいたことのない女子高生風情が僕に愛を説くとは笑わせる」

 こいつ全然反省してねーな。今日のこの態度は虎さんにきっちり報告させてもらう。虎さんに頼まれて見送りに来たけど、後味の悪い別れになりそうだ。

「おじいちゃんのためにしたんです。なのに、何がいけないっていうんだ」

 悄然とした様子でソファに座り込む彼に、同情心は一切湧かなかった。何がいけなかったのか分かるまでは、日本に帰ってこれないだろう。

「ミノりんには、虎さんしかいないんですね」

「当たり前です」

「それが心配って虎さん言ってましたよ。自分は確実にミノりんより先に死ぬから、そうなったらひとりぼっちになるって」

 がばっと顔を上げたミノりんは、完全に失念していたという表情を浮かべていた。虎さんは死なないとでも思っていたのか、いや、考えないようにしていただけか。

「何も憎くて家から出したんじゃないってことです。ミノりんのためを思っての、最大級の愛だと私は思いますけど」

「おじいちゃんが、そこまで」

 嬉しいような悲しいような複雑な心境なのだろう。ミノりんは両手を組んで、しばらく祈るような体勢で動かなかった。やがて搾り出したような声で言った。

「でも僕は、誰かを愛したことなんてない。おじいちゃんだけがいれば、よかったから」

「うん。目に見えないものですもん。どうしたらいいのか、分かんないですよね」

 やろうと思ってやれるんなら、私だって今ごろ誰かを好きになってるよ。親友とも家族とも違う『好き』を理解できない私は、ミノりんをどうこう言える立場じゃない。

「別に、無理して誰かを好きになる必要はないと思いますよ」

「でもそれじゃあ、おじいちゃんに合わせる顔がない」

「努力して、それでも駄目なら分かってくれます。この世には、愛とか恋とか理解できない人間もいますから」

 私のようにな!

 ドヤ顔で言ってやりたかったが、反応が怖いのでやめた。ミノりんは寂しげな表情を浮かべたまま、小さく頷いた。

「早いですが、そろそろ行きます」

 駄々を捏ねるのは諦めて、覚悟を決めたのだろう。ミノりんについていって、搭乗口まで見送りに立つ。

「来てくれてありがとうございます。おじいちゃんに頼まれたんでしょう?」

「自分が行ったら情が出ちゃうからって言ってましたよ。愛されてますね」

 当然です、と言ってミノりんは笑った。

「リホコさん」

「はい」

「僕は、君が義理のおばあちゃんになってもいいと本気で思ってましたよ」

 ぎょっと目を剥く私の体を、ミノりんは自然な動作で抱きしめた。そして耳元でこう言った。

「いってきます、おばあちゃん」

 我に返ったときにはもう、ミノりんの背中は遙か前方にあった。

 とんでもない最後っ屁をかまし、彼はロンドンへと旅立っていった。

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