68、なんでお前がここにいる
前回から間が空いてしまってすいません。仕事が忙しくて……と言いたいところですがぐうたらしてたのがほぼ原因です。本当に申し訳ない。『60、他生の縁』から続いているので、そこから読みなおしていただくと分かりやすいと思います。
私を乗せた車は市街地を抜け、オフィス街を疾走していた。
正確な時間は分からないが、拉致されてから一時間もたっていないはずだ。ちらりと盗み見た外の風景には、見覚えがあったから確信できる。
電車を使えば特急で二十分程度の距離。浚った連中は、まさか私がこの辺の地理に詳しいとは思ってもいないだろう。いざとなったら逃げる覚悟を決めた私のすぐ横を、アニメイトの看板が後方へと流れていった。
「降りろ」
車は大通りから外れ、狭い路地で止まった。
周囲は古びた雑居ビルが立ち並び、人通りはほとんどない。注意深く辺りを見回しながら、大通りのある方向だけはしっかりと覚えておいた。
「歩け」
後ろから頭を小突かれて、ムッとしながらも指示通りに歩き出す。どうやら車が止まったすぐ横のビルに連れ込まれるようだ。
今は使われていないのか、一階の郵便受けにはどれも名前が入っていなかった。エレベーターは見当たらない。前後を男共に挟まれながら、コンクリート打ちっぱなしのビルの階段を上った。
最上階まで上りきると、二人がドアの横に立ち、残りは階段を下りていった。入れ、とドアに向かって顎をしゃくられる。一度唾を飲み込んでから、わずかに震える手でドアノブを捻った。
「また会えて嬉しいわ、里穂子さん」
部屋の中にいる人物を見た瞬間、驚くというよりも、げんなりとしたというのが正しい。
――奥様。
私の微妙な表情に違和感すら抱かず、この誘拐の首謀者はふんぞり返っていた。薄暗い室内だというのに、毒々しいまでの赤い口紅がやたらと目立つ。その唇からは一体どんな超理論が吐き出されるのか、想像するだけでHPが削られる思いである。
「さあ、こっちに来て座ってちょうだい。貴方とはね、話したいことがたくさんあるの。そう、たくさんね」
なんの内装も施されていないビルの室内には、簡素なソファとテーブルだけが中央に鎮座していた。住人はいなさそうだが、ガスと電気は生きているらしい。飲み物を持ってどこからともなく現れたのは、あの運転手の男性だった。
ソファの手前で立ち止まった私に、奥様はサングラスを外しながら言った。
「なにもひどいことはしないわ。さあ座って」
誘拐してきた時点で十分にひどいことをしている自覚はないだろうことは把握した。はあ、ほんと、世の中色んな人間がいるなあ。
渋々ソファに腰掛けた私の正面には、サングラシを外し素顔を晒した奥様がいる。丁寧に化粧された彼女の年齢は分かりにくいが、決して若いとは言いがたかった。世に言う美魔女というやつだろうか。全身から金のかかった匂いがプンプンする。
「用件は手短に済ませましょ。貴方はここにサインをしてくれるだけでいいの」
軽く手を振ったのを合図に、運転手の男性が一枚の紙を目の前のテーブルに提示した。頭には他よりも大きなフォントサイズで『誓約書』と書かれていた。
「……なんですか、これ」
「あら、漢字は苦手かしら?」
いいえ、得意なほうです。
しかし訊きたいのはそういう意味じゃない。奥様は文面から作者の意図を読み取る問題が絶対に不得意だっただろうと想像をめぐらせた。
これはせいやくしょというのよ。せ、い、や、く、しょ。わかる?
幼稚園生に話しかけるがごとくの奥様を無視し、文面に視線をすべらせた。そこには簡単に要約すると、私こと吉村里穂子は、倉崎虎吾郎の遺産を受け取らない、と書き記されていた。
遺産というフレーズに、面食らった。
「……なんですか、これ」
さっきと同じ台詞が口をついて出た。
「明日が、なんの日か分かってるんですか。遺産って、なにを、これじゃまるで、虎さんが死ぬかもしれないって、そんな、」
相手に対する怒りと、その怒りを言葉にして伝えきれない焦りとで、舌が上手く回らなかった。このひとは、どうして平然とソファに座っていられるのだろう。明日はあんたの父親の、手術の日じゃないのか。
「分かっているからこうしてサインしてほしいと言ってるのよ」
目の前に座る人間がひどい我儘を言って自分を困らせている。奥様のとる態度は、まるで被害者のそれだった。聞き分けの無い子供を宥めるような口調がいちいち癇に障る。私が何も分かってない、無知で馬鹿な女子高生だとはなから決めて掛かっている。
「無理です。サイン、できません」
「あら、どうして? ここに貴方の名前を書くだけなのよ。簡単でしょ? 判子も用意してあるのに」
「そもそも私は、虎さんの友達であって、家族じゃありません。遺産を受け取る権利なんてないでしょう」
「ええ、そのとおりよ。でもね、世の中には遺書なんていう厄介な代物があるの」
奥様のトーンが明らかに変わった。
やおら足を組むと、網目の大きなストッキングに包まれた美脚を見せ付けてくる。
「手術を前にして、父も気が弱くなったのね。急に一族を集めて何をするかと思ったら、『遺産相続について意志を固めた』と言いだしたの」
奥様の目が忌々しげに細められる。視線がこちらに向けられ、その瞳に宿った激しい感情に思わず肩が跳ねあがった。彼女は自分が何者であるのか、もはや隠す素振りすら見せないでいる。
「……それが私とどう関係が?」
「遺産の配分を書き記した遺書は、大事な女に預けたと父は言ったの」
しばらく沈黙が落ちた。その沈黙を破ったのは、「はあ?」という私の素っ頓狂な声だった。
「あの、まさか、私がその遺書を持ってるって、貴方は言いたいんですか」
「違う?」
「違いますよ! 虎さんからは何も受け取っていません!」
なんで出会ったばかりの小娘に、そんな大事なものを預けたと思ったのだろうか。そういうものは弁護士に保管させるとドラマで学んだぞ。
「でも貴方はあの写真の女にそっくりだわ。父があの女にどれほど執心しているか、幼いころから見てきた私には分かる。母が死んだときには涙ひとつ見せなかったくせに、あの写真の女を想っては今でも泣くのよ」
馬鹿みたい!!
最後はヒステリックに叫んだ奥様だったが、すぐにその苛烈さを押し込め、私に微笑んで見せた。
「でも、遺書のことはもういいの。貴方の鞄からは何も見つからなかったし、さすがに家に侵入するのはリスクが高すぎるもの」
何も言えずに固まる私を気にも留めず、奥様はさらに語った。
「大事なのは、遺書そのものよりも遺書の中身よ。父が死を目の前にして、トチ狂った内容を書き記してないかが問題なの」
手術は、きっと成功する。
このひとのしていることは、まったくの無意味だ。そう思うのに、すべてが解決しても、私はきっと納得も安堵もできないだろうということが分かった。
虎さんの身を案じるよりも、どんな手を使ってもいい、己の欲望を満たそうとしている人間がここにいる。その事実が、私をひどく打ちのめしていた。
「ねえ、里穂子さん。貴方、随分と父から可愛がられているみたいじゃない」
ねっとりとした声音が耳に絡みつく。
いつの間にか隣に移動していた奥様の手が、私の右手に触れた。
「貴方といる父のあんなに楽しそうな顔、久しぶりに、いいえ、初めて見たかもしれない。本当の子供である私たちにすら、見せたことのない表情を浮かべていたもの。ねえ、ほんの少しでも悪いと思うのなら、この書類にサインして。そうしたら家に帰してあげるわ」
ペンを握らされ、上から握り締められる。
サインをすれば、私は無事に家に帰れるだろう。奥様が本当に約束を守れば、だけど。
誓約書に視線を落とす。名前を書くだけ。簡単なことだ。
「何をそんなに躊躇っているの?」
「……こんなこと、虎さんが知ったら、」
「知ったら? そうね、勘当されるかしら。でももう手遅れだわ。父の傍には実がいるもの。賢いあの子のことだから、すぐに私に目星をつけていたでしょうね」
「分かってるんならどうして、こんな真似するんですか」
これじゃまるで親の気を惹きたい子供みたいだ、――言いかけて、けれどそんなはずはないと自分自身を否定した。
不審な表情を浮かべた奥様に気づき、私は慌ててペンを手放した。
「サインできないなら、どうしようかしら。私、口約束なんて信じなくてよ」
「……信じてもらわないと、困ります」
「でもサインしたくないってことは、やっぱり貴方、遺産が欲しいと言ってるのと同じよ」
それはひどい誤解だ。
表情を歪め、間違わないように言葉を組み立てる。私は、私という人間を、いや、彼女の父親がいかなる人間かを、知ってもらいたかった。
「遺書には、私に遺産を譲るなんて、きっと書いてない。私が困るようなことを虎さんはしないし、私がそんなものを欲しがってるなんて、あのひとは思ってもいません」
反応はなかった。無表情で話を聞く彼女の様子を窺いながら、さらに言葉を重ねた。
「サインしないのは、貴方のお父さんが、身内でもない女にほいほい金をやるような人間じゃないって信じてるからです。分別があって、思いやりのある素敵な男の人だってことを、知ってるからです」
言い切ってからの沈黙は長く続いた。ヒステリックに言い返される覚悟はあったから、身構えて待つ。
やがて、彼女はぽつりと言った。
「実の娘である私の前で、父を誰よりも知ったふうに言わないでちょうだい」
「そ、そういうつもりは」
「……私だって知ってるわよ、そのくらい」
吐き捨てるようにそう言うと、彼女は立ち上がって窓辺へと歩き出した。ずっと黙って成り行きを見守っていた運転手の男性が、気遣わしげな表情を奥様に向けている。
明るい大通りのほうをぼんやりと見つめる奥様の横顔からは、明確な感情は読み取れなかった。こっそり部屋を抜け出しても気づかれないくらいに、彼女は何かここにはないものをじっと見つめていた。
私にとっての居心地の悪い空気が流れる中、階下から誰かが駆け上ってくる音が聞こえた。やがて、背後にある部屋唯一のドアが激しい音を立てて開かれた。
「母さん!」
混乱したように叫びながら入ってきたのは、私と同い年くらいの少年だった。混乱した様子で奥様の元へ駆け寄ると、どうしよう、やべえよ、とますます取り乱す。
彼の顔に、見覚えがあった。
コタロー。そう、虎さんちの蔵で遭遇した、ミノりんの従弟だ。
「あの女の鞄が部屋からなくなってたっ、実だ、あいつにバレたんだっ」
上擦った声が、あの夜の記憶を揺さぶった。
私を引き倒し、無理矢理に鞄を奪おうとした男の声と、目の前で喚くコタローの声とがぴたりと重なり合う。
間違いない。確信を抱いた瞬間、汗が噴き出した。思わず腰が引け、座っていたソファをぎしりと鳴らした。
不意にコタローが動きを止め、血走った目をこちらに向けた。
最初はふらりと、なんとも頼りない足取りだった。それが徐々に駆け足となって、私に向かってくる。
「やめなさい!」
奥様が叫んだ瞬間、コタローに掴みかかられていた。
「なんでジジイの前に現れたんだよ! なんでっ、なんであの女と同じ顔してんだよ!!」
乱暴にソファに押し付けられながら、あまりの剣幕に悲鳴すら出てこない。ただ呆然とコタローを見上げ、呼吸が苦しくなるばかりだった。
「お前がいると母さんが不安になるだろ! どうせ金目当てのくせにっ、じじいの周りをうろつくんじゃねえよ!」
「やめなさいと言ってるでしょうっ、その子を離しなさい! 田川っ、なにぼさっと突っ立ってるの! この子を止めて!」
コタローを引き剥がそうと必死な奥様に呼ばれ、田川と呼ばれた運転手の男性が慌ててこちらに駆け寄ってくる。そのときにはもう酸欠と驚愕で、私の頭はぼんやりとしていた。
だから気づかなかった。開けっ放しになった部屋のドアから誰かが入ってきたことに。
なんだかとっても聞き覚えのある声がしたような、しなかったような。ぼーっとしている私のすぐ目の前で、コタローの顔が大きく歪んだ。
首の圧迫が消えたと思った瞬間、コタローの体は吹っ飛び、巻き込まれた奥様も尻餅をついていた。
「大丈夫?」
ソファにへたりこむ私の肩に、誰かが触れる。そこでやっと呼吸することを思い出し、あえぐように空気を吸い込む。そして盛大に咳き込んだ。
「大丈夫、じゃなさそうだな。ごめん、もっと早く乗り込みたかったんだけど、あいつに邪魔されてさ」
「暴力を振るっている瞬間を記録できれば、今後の交渉に有利かなと思いまして」
「外道だねー」
「恐縮です」
ミノりんの声がするのは分かる。私をこういう状況にぶちこんだのは、彼なんだから。でも、片方の声にはどうしたって納得がいかなかった。
涙目でヤツの顔を見上げ、なんでと訴えかける。なんでここにいるの。まるでヒーローみたいに颯爽と現れて、私を助けてくれちゃったりなんかしてんの。
「前に言ったろ? リホちゃんがピンチのときは、飛んできてやるよって」
飛んでないじゃん。
掠れた声で言い返すと、ヤツはぷっと吹き出した。「リホちゃんはどこまでもリホちゃんだね」そう言いながらひとしきり笑うと、私に向かって手を伸ばす。
「飛べないけど、俺はいつだってリホちゃんを助けたいって思ってるよ」
兄と同じくらい大きな手が、頭にふれた。その重みと、あたたかさに、どうしてか鼻がツンと痛くなる。唇を噛み締めた私に、ヤツはトドメを差した。
「なんで我慢すんの? 俺がいるんだから、もう怖くないだろ」
見ないからさ。
俯かせるようにして、頭の上に乗った手に力が入る。その反動でぽつり、またぽつりと涙が落ちていく。
おお リホコよ ないてしまうとは なさけない
バカなテロップが頭の中を流れていくの感じながら、私はしばし、神谷の手に身をゆだねたのだった。
涙が落ち着いてきたころ、にわかに階下が騒がしくなった。
警戒心をにじませてドアを見やった私の手を、ずっと頭をなでていた神谷が握った。「大丈夫だよ」いつもはチャラいくせに、こういうときだけ頼もしい表情で言うものだから、ついつい私もその言葉を信じてしまった。
「どうやら下のほうは片付いたみたいですね」
ミノりんが言ったと同時に、背の高い男が部屋に飛び込んでくる。髪を乱し、口端を血でにじませた兄だった。
泣きはらした私の顔を見た兄はおおいにうろたえていた。しかし私の手の先が神谷につながっているのに気がつくと、心配から一転、憤怒の表情で食って掛かってきた。
「神谷てめえ、先に行ってんじゃねえよ!」
「リホちゃんがピンチだってときに順番なんて関係ある?」
「うるせえ! 俺が行くっつっただろ!」
「ゴリラみたいなおっさんの相手で忙しそうだったじゃん。実際にリホちゃん、危なかったし」
神谷が視線を向けた先には、いまだに目を回しているコタローと介抱している奥様がいた。「首絞められてたんだぜ」神谷がチクった瞬間、形相をさらに凶悪にさせた兄がコタローに突進した。
「ああ、ショータ君。のびてるのがひったくり犯で、女のほうは誘拐犯ですよ」
ミノりんんんんん!!
火に油を注ぐどころかなにミサイルを打ち込んでんだよ! ワザとか、ワザとだな!
兄を止めるべく飛び出そうとした私を、背後にいた神谷が制止した。
「邪魔すんな! 兄ちゃんを止めないと!」
「なんで?」
「あの顔ヤバい! 殺しちゃう!」
「大丈夫。このミノルってひとがもみ消してくれるよ」
「鋭意努力します」
どうしよう、味方が誰もいない。
神谷とミノりん、二人のモラルの欠如っぷりに絶句している間に、兄が気絶しているコタローをつかみ上げていた。やめてとすがりつく奥様が乱暴に振り払われる。
誰かこの状況を止めてよ。もがきながら祈ったとき、能天気な声が聞こえて耳を疑った。
「おー、いたいた」
「ったく、なんでエレベーターがねえんだよ」
「ショータ先輩!」
「やべ、鼻血止まらねえんだけど」
「さっきの俺のパンチ見たか? ビッグサンダーパンチって名付けよう」
「チョコ食いたくなるからやめろ」
千客万来。次から次へとなんなんだもう、一度に来い、一度に。
腹立ち紛れに振り返ると、入ってきた何人かには見覚えがあった。浅野と澤田、それから黒歴史を晒して以来、店に顔を見せなかったタモツだ。後ろの何人かは知らないが、おそらく佐倉木の生徒だろう。そろいもそろって、いかにも喧嘩してきました、という出で立ちだった。
神谷といい、こいつらといい、なんでここにいるんだ。いや、今はそんなこと考えてる場合じゃない。
「兄ちゃんを止めてください!!」
突然叫びだした私に、全員の注目が集った。
「あそこ! 止めて! 兄ちゃんが殺しちゃう!」
必死になって指を差すと、今度はそっちに視線が集中する。兄はまだコタローを痛めつけてはいなかったが、「起きろコラ」と言いながらガクガクと揺さぶっていた。起こしてからヤるつもりだ。
「おいタモツ! 兄ちゃんを止めろ!」
「は? なんで俺だよ」
「いいから行け! じゃないとあのことバラすぞ! いいのか!」
あのことが何を指すのか、タモツは瞬時に察したらしい。痛々しい痣の浮かんだ顔をさっと強張らせると、見るからに焦りだした。
「あのことってなに、リホちゃん」
「あと三秒で教えてあげます。いーち、にーい、さー…」
「言うなバカ! 行きゃあいいんだろ!」
ちなみに土下座して謝罪したのと、兄に覚えてもらえずに泣いたほう、どっちを言われたくなかったんだろう。まあどっちでもいいか。これから先もこのネタでお前をいいように使ってやるからな、タモツ。
「つーか、タモツに止められるわけねえじゃん」
「あー殴られた」
「俺らもう帰っていいっすか」
「二時間働いたからあ、一万円?」
「うひょー! 俺らリッチ!」
ミノりん、こいつら時給五千円で雇ったのかよ。出しすぎだろ、私なんて時給八百五十円だぞ。
「ご苦労様です、皆さん。お給料は下にいる僕の部下から受け取ってくださいね」
それまでニコニコと笑みを浮かべながら――何がそんなに面白かったのかまったく理解できない――今にもヤられそうなコタローと呆然と座り込む奥様を眺めていたミノりんが言った。
「ショータ君、その子から離れてくれますか。それくらい脅せばもう十分です」
「ああ? お前は十分でも俺は収まりがつかねえんだよ」
「君の気持ちなんてどうだっていいんです。ほら、どいて」
ミノりんが無造作に手を伸ばす。それをはじこうと手を上げた兄は、次の瞬間、腕をねじられ地面に押さえつけられていた。
神谷たちが色めき立つ。ミノりんに襲い掛かろうと全員が身を乗り出したが、それよりも早く兄は解放された。
コタローの脇にしゃがみこんだミノりんは、彼が完全にのびていることを確認すると、へたり込む奥様に視線を向けた。
「ミエコ叔母様」
「……なによ」
「もう気は済みましたか」
奥様は何も言い返さなかった。ただ真っ赤な唇をきつく噛み締め、ミノりんを鋭い眼差しで睨み返している。
「欲も過ぎれば身の破滅を呼ぶということが、よく分かったでしょう。おじいちゃんはちゃんと貴方の分の遺産を用意していたっていうのに、結局全部失ってしまいましたね」
哀れみのこもったミノりんの台詞に、奥様はきょとんと目を瞬かせる。それも一瞬のことで、次にはもう彼女は笑い出していた。笑うつもりは無かったのに、笑ってしまった、そんな感じで。
「……気でも狂ったんですか」
不意をつかれたミノりんは動揺を隠し切れなかった。
「違うのよ、フ、フフ、あんたって意外と子供だと思って」
プライドを刺激されたのか、ミノりんの表情に一瞬ひびが入る。それを満足げに見やった奥様は笑みを引っ込め立ち上がった。
「里穂子さん」
「はい」
「なに普通に返事してんだ、リホちゃん」
神谷に呆れられた。ついだよ、つい。
「巻き込んで、ごめんなさいね」
彼女のしたことは、謝って済まされる問題ではない。だというのに、私はこの謝罪を素直に受けいれていた。それはきっと、先ほどの彼女の笑みで確信してしまったからだろう。
私が気づいたことに、奥様も勘付いたようだ。少しバツが悪そうに表情を緩めているのを見て、彼女が思った以上に優しげな顔立ちをしていることにはじめて気がついた。
「処分は追って知らせます。部下に送らせますから、今日は家に帰ってください」
冷たい表情で言い放ったミノりんに従い、奥様は部屋を出て行った。そのあとをコタローを背負った田川さんがついていく。
「金の亡者が」
後姿に向かって吐き捨てるミノりんは、なるほど子供だった。
このひとも虎さんが絡むとほんとどうしようもねーな。天井を仰ぎながら、長い長いため息をついた。




