67、うららとリホコ
「着きましたよ」
ミノりんから鞄を返してもらった翌週の日曜日。私は彼と一緒に大学病院の前にいた。
広い駐車場に停まった車から降りると、目の前にそびえ立つ高い壁を見上げる。最近塗り替えたばかりなのか、太陽の光を受けて輝かんばかりの白さを放っていた。
病院内に入ると、ミノりんは一階のカフェを指差してこう言った。
「僕はあそこで待っていますから」
「一緒に行かないんですか?」
「貴方ひとりだけのほうが喜ぶでしょう。僕のことは気にしないで、たくさんお話をしてあげてください」
あっさりと別れを告げられ面食らった私だったが、仕方なく病室に向かうことにした。
エレベーターを使って八階まで上ると、802号室を目指して歩き出す。大学病院というだけあって、かなり広い。延々と続くガラス張りの廊下からは外の景色が一望でき、隣接するモノレールの駅にはちょうど車体が吸い込まれていくところだった。
風景を眺めながら歩いていると、目当ての病室を発見した。ノックを二回。「誰だあ?」と不機嫌そうな声が中から聞こえた。
「あの、吉村です。虎さん?」
一瞬、病室を間違えたのかと思った。
何度もプレートに書かれた番号を確認していると、スライド式の扉が開き、中からスーツ姿の中年男性が顔を見せた。
「どうぞお入りください」
促されて中に入ると、想像している以上に中は広々としていてびっくりした。クローゼットやテレビ、ソファも置かれていて、私の知る病室と随分と違う。
部屋の真ん中には、パジャマ姿の虎さんが半分起こしたベッドに身を預けていた。
「リホちゃん! よく来てくれたな!」
「こんにちは、虎さん」
元気そうな姿にほっとした。小走りでベッドに駆け寄ると、顔をくしゃくしゃにさせて笑う虎さんが出迎えてくれた。
「あの、これ、お見舞いに持ってきたんですけど、」
持ってきた見舞いの品を鞄から出したところで、部屋の一点に釘付けになった。虎さんの向かい側に置かれたテレビの隣には、おそらくウン万円するであろうフルーツ盛り合わせや、高級そうな菓子箱が山と積まれていたからである。
それに比べたら私が持ってきた手作りクッキーなんてゴミじゃん!!
ミノりんが持っていくなら手作りのお菓子がいいって言うから、夜中にクッキー焼いたけど、こんなところで出せやしねーよ。
やっぱり何でもありません。そう言って鞄に仕舞いなおそうとした。
「それ、もしかしてリホちゃんが作ってきてくれたのかい?」
「いや、まあ、」
そもそもお見舞いに手作りクッキーはない。甲斐君レベルならまだしも、私のクッキーなんて市販を買ったほうがマシなレベルだ。実際、妹に食べさせてみたら、「口の中の水分がすべて奪い取られる……苦しい」と言ってたし。兄は無言で食べてたけど、あとで牛乳一気飲みしてたの知ってんだからな!
「嬉しいねえ。もらっていいかい?」
駄目ですとも言えず、ラッピングされたクッキーは虎さんの手に渡ってしまった。
「手作りもんなんて何十年ぶりだろうなあ」
「言っときますけど、美味しくないですよ!」
「リホちゃんが作ってくれたってのが大事なんだよ。なあ、お前さんもそう思うだろ?」
「もし娘が作ってくれたものなら、私はタワシでも食べられる自信があります」
部屋の中に招き入れてくれた男性が、至極真面目な顔で頷いた。
「好きな娘からの手作りプレゼントなんて、男冥利につきるぜ」
相変わらずキザなことを言って、虎さんはラッピングを開けてクッキーにかじりついた。喉を詰まらせるんじゃないかと気が気じゃない私は飲み物を買いに行こうとしたが、それよりも早く紅茶の香りがして足を止めた。
「会長、どうぞ」
「おう」
「お嬢さんもどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
ソファに誘導され、目の前のローテーブルに紅茶の入ったカップが置かれた。
「お砂糖は?」
「大丈夫です」
四十代くらいの男性は、もしかしたら虎さんの秘書かもしれない。秘書といえば女性をイメージするが、彼の振る舞いはまさに秘書そのものだった。
「それでは会長、私は失礼します」
「ああ、なんかあったら呼ぶよ」
虎さんと私にお辞儀をして、彼は病室を出て行った。
二人きりになったものの、私は中々会話を切り出せずにいた。紅茶を飲みつつ、横目で虎さんの様子を窺う。彼は嬉しそうにクッキーを食べていた。
「あー美味かった。ありがとうな、リホちゃん」
「いえ、」
ぜってー美味しくなかったよ!
でもそんなことを億尾にも出さない虎さんの態度に、むず痒いような恥ずかしさを覚えてしまう。ときどき無自覚にこっちを照れさせる岩迫君と同じものを感じた。
「また作ってきてくれねえか?」
「えっ、いや次は、お店のやつ買ってきますよ!」
「だあから、リホちゃんが作ったのが食いてえんだよ。駄目かい?」
「駄目じゃないですけど、」
こっ恥ずかしいったらありゃしない。
相手は自分の祖父とそう変わらないというのに、なぜだろう、同年代の男の子を相手にしているような緊張感を抱いてしまう。虎さん、若いころは絶対に女の人にモテただろうな。
「じゃあ、虎さんが退院したら作って持っていきますね」
「おう、楽しみにしてるよ」
手術は三日後。退院は様子を見つつ、問題がなければ二週間後になるとミノりんは言っていた。
今は体調を万全にすることが何よりも大切だから、先日起こった誘拐未遂事件のことを、彼はまだ知らされていない。私から言うつもりはないし、ミノりんからも固く口止めされている。無駄に心配させるのは体にも良くないだろうということは、今日の彼の姿を見なくても分かる。
少し冷めて飲みやすくなった紅茶を飲みながら、ベッドの上にいる虎さんをこっそり観察した。痩せたな、というのが今日最初に抱いた印象だった。
「でもよ、もし手術が失敗したときは、墓前にでも供えといてくれよ」
カップがソーサーにぶつかり、甲高い音を立てる。
思わず虎さんの顔を見つめると、彼は複雑な表情を浮かべながら、中身の無くなったラッピングペーパーの皺を丁寧に伸ばしていた。
「そんなに、難しい手術じゃないって、ミノりんが、」
「うん、そうなんだけどよォ」
「弱気になっちゃ駄目ですよ! 病は気からって言うじゃないですか」
「でも、万が一ってこともある。実際、絶対に失敗しない手術で死んじまったダチだっているしよ」
病気がなんだとガハガハ笑って吹き飛ばしそうな彼が、しょんぼりと肩を落としている。大柄な体が、今は本当に小さい。
「……その死んだお友達って、うららさん、ですか?」
私の言葉が終わるよりも早く、虎さんはがばりと顔を上げ、私を凝視した。ぎょろりと浮かんだ目が驚愕に見開いている。
「ミノりんから、聞きました」
「そ、うか、あいつか、」
一瞬にして張られた緊張の糸が、ゆっくりと元に戻っていくのを感じた。それだけ虎さんにとって、『うららさん』というひとは大事な部分を占めているのだろう。
ベッドに力なく体を預けた虎さんは、大きく息を吐き出して脱力した。
「実はどこまで話した?」
「……虎さんが、私に、……その、死んだうららさんを重ねている、とだけ聞いています」
苦々しい表情を浮かべた虎さんは、数秒黙り込む。
私と彼が出会ったのは、やはり偶然などではなかった。こうして確信を持った今、感じるのは寂しさばかりだった。
「なあ、リホちゃん」
「はい」
「俺の言い訳、聞いてくれるかい?」
弱々しい笑顔が私の胸を締めつける。無言で頷くと、虎さんは少し間を置いて、そして秘密の話をしてくれた。
俺とうららは、いわゆる幼馴染ってやつだった。
もうひとり幼馴染のヤロウがいたが、まあそいつのことはどうでもいい。俺たちは同じ長屋の隣三軒に生まれ育って、暇さえありゃあつるんでたよ。親は仕事で忙しかったから、ガキだけで一日過ごすなんてこともざらにあった。こう、狭い部屋にきったねえ布団一枚並べてよ、三人でくっつきあいながら眠ったりしたもんだ。
そうだな、家族に近かったかもな。あいつは大人しい性格だったから、いつも俺と、もうひとりの幼馴染の背中に隠れてびくびく震えてた。気弱で、喧嘩もできねえ。背もこんなに小さくってよ。だから余計に俺が守ってやらなくちゃって思ってたよ。
十五のときだ。
そのころにはもう、俺は働くために上京してた。がつがつ働いて金稼いでよ、家への仕送りもそうだが、うららに腹いっぱい食わせてやりたかった。あいつ、遠慮してろくに食わねえもんだから、いつまでたってもチビでガリガリのままなんだよ。あの時代は今と違って好きなときに好きなもんが食えるってわけにはいかなかったからな。将来、俺があいつを養って生きてくんだろうなんて漠然と考えてた。
好きだったのかって? ……少し、違うな。俺にとってのうららは、もう家族だった。形としては夫婦かもしれねえが、世間一般の男女の愛とは別もんだろうな。うまく説明できねえけどよ、あー、なんだ、性欲のない愛っていうのも、存在すんだよ。ただ両腕に囲って一生守ってやりたいって気持ちがな、あったんだよ。
なんか話が逸れちまったな。十五の、盆に帰省したときのことだ。
実家に戻ってた俺は、いつもの三人で近所をぶらぶら歩いてた。都会はあっという間に様変わりしちまうのに田舎は何も変わらねえ、そんなことを話しながら歩いてた。
すると突然、目の前をガキが横切っていったんだ。手に何かを抱えてな。後ろからは怒鳴り声が聞こえて、ああ盗みだなってすぐに分かったよ。まだまだ貧しい時代だったから、そんなことはしょっちゅうだった。
見送って、終わるはずだったんだ。あのガキが捕まりさえしなきゃな。
袋叩きにされてるガキを助けようとして、俺たちよりも先にうららが飛び出していっちまいやがった。普段はおどおどしてるくせに、年下や自分より小さなヤツには優しかったからな。だから、我慢できなかったんだろう。
ガキを庇って突き飛ばされて、気を失っちまった。そのガキは俺たちが逃がしてやったが、うららはその日、目を覚まさなかった。
翌朝、あいつは俺たちよりも早起きして、メシを作って持ってきてくれた。お礼だって言ってたな。ただのふかした芋だったけど、あいつが作ると妙に美味いんだよ。
芋を食った日に、俺はまた仕事場のある都会に戻っていった。早いとこ金を貯めて、うららを迎えに行ってやろうって誓ってな。
それまで以上に頑張って働いたよ。けど戻って一週間くらいたったころ、職場にもうひとりの幼馴染から電話がかかってきた。
うららが死んじまったってな。
たぶん、あのときだ。打ち所が悪かったんだろう。
――そういえばあいつ、頭痛いって言ってたよなあ。
幼馴染の泣いてる声を、ぼんやりしながら聞いたのを覚えてるよ。
しばらくは抜け殻みたいになっちまったな。周りの話じゃ、幽霊みたいな形相で働いてたそうだが、よくは覚えてねえ。逃げてたんだろうな。
それから十年後に嫁さんもらって会社つくって、今はただの死にかけのじじいだ。
周りは俺のことを幸せもんだと言うだろう。たくさんの子供や孫、地位や財産もある。けど羨ましがられるたびに、うららのことを思い出すんだ。いろんなもんを手に入れてきたが、本当にほしかったもんは駄目だったからな。
心臓をやっちまったのは去年のことだ。現場の視察中に倒れて、一時はやばかったらしい。なんとか回復したものの、俺もそろそろ引退かって思ってた矢先のことだった。
病院からの帰り道、また発作を起こすかと思ったぜ。だって、うららが、あいつが昔と変わらねえ姿で歩いてたんだからな。
「それが私ですか?」
「おうよ。自分の正気を疑ったぜ」
虎さんが咳き込んだのを見て、室内にあった冷蔵庫からミネラルウォーターを見つけて差し出した。彼はそれを美味しそうに飲みながら、再び話しはじめた。
「悪いが、リホちゃんのことは調べさせてもらったよ。うららと血縁関係があるんじゃねえかと思ってな」
「まさか、あったんですか?」
「いや、なかった」
それにほっとすると同時に、なんだか悪いような、申し訳ない気持ちも生まれた。
「所詮は赤の他人だ。どんなに似ていても、うららじゃねえ。だからリホちゃんと接触するつもりはなかったんだ。だって気持ち悪いだろ? 幼馴染と似てるからって理由で見知らぬじじいが近づいてきたらよ」
気持ち悪いかどうかは分からないが、戸惑うのは間違いない。でも相手は虎さんだ。
歳の割にはお茶目でオシャレな、粋なじいさん。彼と一緒にいて嫌な思いをしたこなんて一度もない。いつも私に気を遣って、楽しませてくれようとしていた。彼は私にとって、自慢の友達なんだけどなあ。
「こんなに仲良くなっておいて、今さら気味悪がれなんて無理な話ですよ」
「うららに似ていなかったら、たとえ出会っていたとしても、俺はリホちゃんのことを相手にすらしていなかったんだぜ。それでもいいって言うのか?」
「他人同士の繋がりなんて、理由は色々ですよ。たまたま隣同士の席だったとか、数学の問題教えてあげたとか。些細なきっかけで相手を認識して、一生の付き合いに発展していくなんてことざらにあるじゃないですか。偶然顔がそっくりだったっていうのも、きっかけのひとつですよ」
虎さんは納得いかないという顔で、さらに言い募った。
「自分じゃない誰かと重ねられてる。それはリホちゃんを見てないってことだ。嫌じゃないのかい?」
「ああ、そういえばそうですね。で、それって本当なんですか?」
ミノりんからは話としては聞いているけれど、本人の口から本心を語ってもらいたい。まあ答えはもう分かっているんだけど。
「……最初はそうだったよ。うららがそこに存在しているみたいで、幸せな気分に浸れたからな。でも」
ひと呼吸置いて、虎さんは言った。
「中身が全っ然似てねえ!! 別人だ別人!!」
ですよね。話聞いてて、私もそう思いました。
「あいつは今にも消えちまいそうな儚さがあったが、リホちゃんはなんつーかこう、しぶとそうなんだよな」
「そこですか? 違うでしょ!」
体育の長距離走じゃ、HPの大半を削られるほどの儚さなんですけど。
私がいかにか弱く、花のように繊細か訴えようしたが、虎さんの言葉のほうが早かった。
「うららと重ねるのは、どうしたって無理だったよ。やっぱりあいつはあのとき死んじまって、俺だけが歳をとっちまったんだ。そんなこと、とっくの昔に分かってたつもりだったんだがなあ」
窓の向こう側へと視線を投げかる虎さんが、今どんな表情をしているのか、私がいる位置からは見ることはできなかった。
雲ひとつない澄み渡った空が、大きくとられた病室の窓を埋め尽くしている。ときどき雀がじゃれ合いながら飛んでいく以外は、静かな光景だった。
物音を立てないように、ソファに座りなおす。虎さんが満足するまで、話しかけるのはやめておこうと思った。
何十年たっても色褪せない気持ちがある。
他人をこれだけ想えるという事実を目の当たりにして、私は感動すると同時に、ひどく安堵していた。
恋じゃなくてもいいんだ。
私は心のどこかで、恋ができない自分を欠陥品のように感じていることがあった。けれど彼の話を聞いて、変な話だけれど、希望が持てたのだ。
欲しい、手に入れたいという強い気持ちを、必ずしも持たなくていいのかもしれない。私は、恋をしなくてもいいのかもしれない。
そう思うだけで、ひどく安心できた。私は何もおかしくないんだと、許してもらえたような気がしたのだ。
「リホちゃん」
顔を上げると、虎さんと目があった。
彼はまるで憑き物が落ちたかのような、すがすがしい表情をしていた。少し目元が赤かったのは気づかないふりをして、はぁい、と応える。
照れたように笑う虎さんの顔は、相変わらずくしゃくしゃで、そして少年のようにあどけなかった。
病室にある時計の針は四時にさしかかり、予定どおり、お暇することにした。でもその前に、私は疑問と好奇心を解消するため、虎さんへと問いかける。
「うららさんってそんなに私と似てるんですか?」
世の中には三人似た人間がいると言うけれど、私に似ているといったら微妙に売れてる芸人ぐらいだ。しかも男。
「似てるよ。なんなら見てみるかい?」
虎さんはベッドサイドにあった伏せたままの写真立てを手にとり、私に差し出した。病室に入ったときから気づいていたけれど、家族が映ってるんじゃなかったんだ。
恐る恐る写真立てを裏返した私は、次にはもうかぶりつくように凝視していた。
「私! このひと私ですよ!!」
「だろ?」
ドヤ顔で胸を逸らす虎さんが見間違えるのも頷ける。
セピア色の写真に映るそのひとは、顔の輪郭、髪型、表情、どれをとっても瓜二つだった。さらに私という人間から眼鏡とオタク要素を廃したのが、うららさんだと思ってくれていい。
大事な要素をふたつも取り除いたら、そら中身は似てねーわな。
「あ、隣に映ってるの、虎さんですよね」
「おうよ。格好良いだろ?」
「ガテン系って感じですね。男らしい!」
「へっへっへ、もっと言ってくれ」
うららさんを真ん中にして、右隣に若かりしころの虎さん。そして反対隣には背の高い少年が映っていたが、顔の部分は破れているせいで判別することはできなかった。
「こんなに似てたら、そりゃあ声かけちゃいますよ」
うんうん頷く私から、なぜか虎さんは視線を外して微妙な顔をした。
顎に指を置いて無言になったかと思えば、すぐに表情を明るく変えた。
「声かけた理由は別にあるんだが、俺の口からは言えねえなあ。でも理由は、向こうから言ってくるだろうよ」
「向こう?」
「どんな顔して話すのか、見ものだな。そんときは俺も同席させてもらうぜ」
悪ガキだ。悪ガキの顔だ。
虎さんが何を企んでいるのかは知らないが、随分と楽しそうだ。ちょっと前まであんなに手術を不安がっていたのに、やっと私の知る元気なじいさんに戻ったようだな。
退院後にふたたびお見舞いに行くことを約束し、その日のお見舞いは終了した。
病室を出て、一階のカフェテラスに向かう。患者と見舞い客で賑わうフロアを見渡すと、窓際に座るミノりんを見つけた。
声をかけると彼は立ち上がり、向かいの椅子を引いて座らせてくれた。
「おじいちゃん、どうでしたか?」
「元気でしたよ。ミノりんも会ってくればよかったのに」
「そうしたいんですが、見舞いには来るなと言われてしまって」
可愛い孫には弱った姿を見せたくないってやつかな。強がりだから、元気な姿だけ見ていてほしいんだよ、きっと。
虎さんの心情を勝手に想像しながら、店員さんが持ってきてくれたお冷に口をつけた、その瞬間。
「リホコさんを後妻にするなら、全力で場を整えますと言ったら怒られてしまって」
ぶしゃあっ、と盛大に水を吹いた私は、周囲の視線に晒されながら呆然とミノりんの顔を見つめた。
聞き間違いか、たちの悪い冗談を聞いた気がする。
あ、あれだな。ミノりん、お茶目さんだから、私が水を飲むタイミングを狙ってジョークでも言ったんだろう。そういうのは小学校の給食時間で卒業しとけよな。
水まみれになった顔を拭きながら平静を保とうとする私に、しかしミノりんは追い討ちをかける。
「冗談なんかじゃありませんよ。僕、本気ですから」
「またまた、ミノりんったら」
「年上、お好きですよね?」
「……本当に怒りますよ」
怒りを滲ませた声を発するも、ミノりんはうっすら笑ったまま本気の目をしていた。
「僕は、おじいちゃんの崇拝者ですから」
だから、なんでもしてあげたいんですよ。
それが自分の幸せだとでも言うように、ミノりんは笑みを深めてみせた。
「おじいちゃんが欲しいと思ったものがあれば手に入れますし、邪魔だと思えば排除します。おじいちゃんが大事にしている貴方が害されたのなら、害した人間を徹底的に潰してみせる」
「……ミノりん、それ、ヤンデレっていうんですよ」
「知ってます」
自覚があるんなら、なおのことたちが悪い。
「前に言ったでしょう? 責任とってくださいねって」
「私はうららさんに似てはいても、本人じゃありません。それは虎さんが誰よりも分かってます。なのに結婚だなんて、暴走もいいところですよ」
「おじいちゃんのためです。多少の暴走行為には目を瞑っていただければ幸いなのですが」
「言ってることがおかしいって自分では分かりませんか?」
「自覚はあります。ご安心を」
なあ、実はからかって遊んでるだろ?
掴みどころのないひとだとは思っていたが、こちらの想像以上にぶっ飛んでいたようだ。加えてジジコンのヤンデレ。天はミノりんに三物を与えたようだ……間違った方向にな!
「すいません、イライラしてきたんで甘いもの食べていいですか?」
「もちろん。奢りますから好きなものを頼んでください」
ケーキを注文して食べていると、すぐ近くでシャッター音がした。見ると、スマホで私を堂々と盗撮するミノりんがいた。
「これからは隠れてコソコソ写真を撮らなくて済むので、楽ですねえ」
今までは隠れてコソコソ撮ってたんかい。
情報収集ですよと彼は言うが、立派な犯罪である。私が天使のように清らかで広大な心の持ち主であったことを感謝すべきだな。
「おじいちゃんに送信、と。これで許してくれるといいんですが」
「結婚なんて馬鹿な考えを捨てたら、即許してくれると思いますよ」
「まあそのあたりの話は、事件を解決してからにしましょう」
空気が変わった。
私はフォークを止め、正面に座るミノりんに視線を向けた。
「ねえ、リホコさん。僕はね、おじいちゃんのためならなんだってできるんですよ」
「でしょうね」
「そのせいで恨まれたり、憎まれたりしても、おじいちゃんが幸せなら、僕は刺されたってかまわない」
ヤンデレって刺すほうだと思ってたけど、刺されてもオッケーだったとは知らなかった。世界は広いな。
「麻酔から目覚めたおじいちゃんに、全部終わったと報告したいんです。だからね、リホコさん」
続けて言い放たれた言葉を飲み込むのに、随分と時間がかかった。
顔面を引き攣らせた私の手元では、形の崩れたケーキの上から、苺がころりと落ちていった。
病院を訪ねてから、今日で二日たった。
明日は、いよいよ虎さんの手術が行われることになっている。朝から始まり、昼過ぎには終わるそうだ。目が覚めたら一番に連絡するよとたった今メールがきたが、その優しさの少しでもいい、ヤンデレの孫にも分けてやってくれ。
返信をしてから携帯を閉じると、私はいつもの道を歩き出した。
兄との待ち合わせ場所のバス停は、もうとっくに通り過ぎている。ひとりで帰宅するのは、何日ぶりだろう。
ふと上げた視線の先では、夕日が住宅街の屋根の向こうへと沈んでいくところだった。
この時間帯を、逢魔時、というらしい。なかなかに中二心をくすぐる単語である。背後からは明るい空を塗りつぶすように薄闇が迫ってきていて、夜に移り変わろうというこの時刻は、たしかに何か良からぬものと遭遇しそうな、そんな不吉な予感を抱かせる。
背後で、バイクが走る音がした。
ばっと振り返った私の目の前を、主婦らしき女性がスクーターを運転して走りぬけていった。
違った。
ほっと息を吐いて、再び歩き出す。家に近づいていく分、空は暗さを増していた。街灯が点滅して路地を照らす中、私は走りだしそうな足に自制をきかせ、ことさらゆっくりと家路を辿っていた。
もうすぐ家に着いてしまう。
ごくりと唾を飲み込み、さらに歩くスピードを落とす。このまま何も起こらないんじゃないか。淡い期待と落胆を感じた、そのときだった。
前方の道を塞ぐように車が停止した。中からは誰も出てこない。
不審に思って足を止めた私の背後で、今度は別の車が道を塞ぐ。一本道、前後を封鎖されては、私の行き場はどこにもない。
人間、緊張しすぎると汗さえ出てこない。そして声も。短い息遣いが、やけに耳につく。
やがて、前後に停まった車のドアがほぼ同時に開き、中からぞろぞろと男たちが降りてきた。もちろん知らない連中だ。
……ちょっと多すぎじゃね?
話が違うよミノりん!
内心の絶叫に応えてくれる人物は、もちろんこの場にはいなかった。