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65、奥様は誘拐犯

 まだ筋肉痛が残る月曜日。

 HRが終わったのと同じくらいに、兄からのメールが着信した。絵文字も何もないそっけない文面を確認すると、私は席を立った。

「吉村、もう帰るのか?」

 廊下に出ると、教室の前のドアから出てきた担任の茂木先生が声をかけてきた。ちょっと話せるかと言われたので頷くと、一階にある生徒指導室まで連れて行かれた。

「悪いな、ここしか空いてなくて」

 優等生を気取っている私には縁のない部屋である。主に遅刻常習者や校則違反者が連行される部屋だが、荒んだ雰囲気は一切なく、窓辺には花まで飾られていた。

 パイプ椅子に座ってすぐ、保健の篠原先生が入ってきた。目が合うとにっこり微笑まれ、私の向かい側に座った。

「これって、あれですか? メンタルケア的な」

「ええ、そうよ。色々質問するけど、リラックスして答えてね」

 と言われてリラックスできる人間なんてそうそういない。何を訊かれるのかとぐっと身構えた私に、隣に座った茂木先生が「リラックスリラックス」と呪文のように唱えてくる。

 でも実際、質問されたことといえば、夜はちゃんと眠れているか、食欲はあるか、授業に集中できているかなど、どうってことのない内容ばかりだった。

 体調はすこぶる良好であるし、授業も眠っていない。ひったくりに遭った直後は動揺し、泣いてしまったが、以降は特に変わったと感じることはないと伝えた。

「夜道が怖くなったとかはない?」

「まあ、ちょっとは警戒するようにはなりましたけど」

 夜道ですれ違うだけで、あいつなんじゃないかと身構えるようにはなった。けれどたいてい外にいるときには兄がいるので、怖いと感じることはない。この兄がいる限り、じいさまから習った護身術を披露する日は来ないだろう。

 その兄は今日、迎えに来るのが少し遅くなるらしい。メールの文面によると、あと一時間は余裕があった。

「今日はこれくらいかしらね。もちろん、何か気になったことがあればいつでも保健室に来てちょうだいね」

「はい、ありがとうございます」

 手元のパソコンを閉じると、篠原先生は部屋を出て行った。

「やっぱいいなあ……」

 白衣の後姿を見送りながら、茂木先生がほとんど無意識といった感じで呟いた。

 篠原先生が好きって噂、本当だったんだな。

 ぬる~い眼差しで担任教師を見つめていると、その視線に気がついた茂木先生はものすごい勢いで言い訳じみた台詞をまくしたてた。

「別に隠さなくたって、二年生全員知ってますよ」

「えっ、えっ、知って、ええ!」

「分かりやすすぎるって、女子からは心配というか気の毒がられてるっていうか」

 ただでさえ色恋沙汰には敏感な女子高生だ、茂木先生の恋心なんてあっという間に看破し、噂は広がっている。当初はあまり信じていなかった私でさえ、先生の態度を見ていればすぐにピンときたくらいだ。

「先生、お見合いしたんですよね」

「どっ、どこでそれを!」

「ホテルのビュッフェに行ったって子が、ロビーで見たらしいです」

「うぉおおおお!」

 顔を覆って机に突っ伏した先生がさすがに可哀相になったので、まだまだある目撃談を教えるのはやめておくことにした。

「篠原先生のこと好きなのに、なんでお見合いしちゃいますかね」

「身内のババァ、いや、おせっかいおばさんが無理矢理っ、俺は篠原先生ひとすじだ!」

 必死になって身の潔白を訴える先生に、生徒としてこれ以上追い詰めるのも悪い気がした。

「先生、外に聞こえちゃいますよ」

「あ、そ、そうだな」

 急に大人しくなった先生は、椅子に座りなおすと頬杖をついて

「なあ吉村。お前、好きな子いる?」

 と訊いてきた。

「生徒指導室でコイバナですか」

「えー、いーじゃん」

「先生、四十超えてますよね。そのノリの軽さ、如何なものかと思います」

「世の四十代なんてこんなもんだって」

 自信満々に言ってるけど、同世代の他の先生たちが聞いたら否定の嵐だろうなあ。歳相応の落ち着きってもんも必要だと思いますよ、先生。

「今時の男女ってどうやって愛を育んでるんだ? いっちょ先生に教えてくれよ」

「先生が生徒に教えを請うってどうなんですか」

「いいか、吉村。人間ってのはな、死ぬまで学ぶ生き物なんだよ」

 なんかよさげなこと言ってるけど、いまいち心に響いてこないな。なんでだろうな。

「なあなあ吉村、どうなんだよ。好きな男の子のひとりやふたり、いるんだろ?」

「最高に鬱陶しい絡み方だな……。私、今は勉学に忙しいのでそういう話はちょっとないですね」

「またまたー。格好良いのが何人かうちのクラスにもいるだろう。お前の隣の席の岩迫とか、女子にキャーキャー言われてるじゃないか」

 その岩迫君にまさかモーションをかけられているとは決して言うまい。

「格好良い男の子と、好きになる男の子は別だと思いますよ」

「ええ、そうか?」

「先生は、篠原先生が美人だから好きなんですか?」

 暗に顔だけか、と訊くと、先生は慌てて首を横に振っていた。

「そりゃあまあ、最初は美人だなあと思って目に入ったけど、それだけじゃ好きにはならんよ」

「ですよね。人間、そう簡単に他人を好きにはならないんですよ」

 友情、尊敬、信頼。好意は多々あれど、付き合いたいだとか、傍にいたいだとか、そういうたぐいの愛情が私にはまだ理解できない。

 マジでさあ、好きってなんなんだよ。

 どうして皆、当たり前のように他人を好きになるんだろうか。誰でもいいから好きというメカニズムを、この恋愛未経験者にも分かりやすく教えてくれよ。

「吉村、なんか達観してるな」

「そんな大そうな境地には至ってませんよ。ねえ先生、なんでひとはひとを好きになるんでしょうかね?」

「吉村、遠いっ、目が遠いぞっ」

 生徒指導室の窓からはグラウンドがよく見渡せた。それぞれが部活にはげみ、青春を謳歌している。視界に映るほぼすべての生徒が、恋というものを経験しているに違いない。

 今度、学校主導で、無記名の恋愛アンケートとかやってくれないだろうか。実は初恋どころか恋心すら理解していない、私の同士が見つかるかもしれない。

「なんだかお前は、ものごとを難しく考えすぎるきらいがあるなあ」

 手のかかる生徒を前にしたときのような表情を浮かべ、茂木先生は言った。

「自覚はあります」

「ほら、それだよ。自覚があるからたちが悪いんだよ。自分の分析ばっかするな、もっとバカになれ!」

「生徒に向かってバカになれとはなんですか。来年受験生ですよ、分かってるんですか」

「お前みたいにふてぶてしいヤツは今までにもたくさん見てきたから分かる。吉村、お前は大丈夫だ」

 ぐっと立てられた親指に宿る信頼性の薄いことよ。適当に言ってんな。

 自分で話題を出しといてあれだけど、受験、という言葉が重くのしかかってくる。キタちゃんはもう受ける大学を決めていると言うし、クラスの何人かもすでに予備校に通い始めているという。

 私はまだ何もしていない。だって何がしたいか分かんねーもん。

「先生、人生のゴールってどこですかね? 希望の大学に入れた瞬間? それとも就職が決まったとき?」

「結婚……じゃないかな」

 ふたりして遠くを見つめ、ふっとため息をつく。

 この教師にしてこの生徒あり。しばらく私たちはグラウンドを眺め、無言で黄昏るのだった。




 グラウンドで部活をしていた陸上部が休憩に入るのが見える。一方、生徒指導室では、教師と生徒が顔を突き合わせて熱心に話しこんでいた。

「マジすか先生、ファミコンまだ持ってるんですか」

「俺の宝物だよ」

「中古ショップに行ったらソフト置いてるけど、誰が買うんだと思ってたら、先生が買ってたんですね」

「今は一個数百円で売ってるからな。俺の子供時代には考えられんことだ」

「スーファミだったら家にありますよ。お父さんの持ち物ですけど」

「遊んだことあるか? 3Dに慣れた人間には面白くないだろ?」

「そうでもないですよ。2Dのゲームは今でも多いですし。でもスーファミはあの脆弱性がなんともねえ」

「ソフトむき出しだからな」

「お母さんに掃除機ぶつけられて、三回くらいセーブ消されましたよ」

 それきりクリアをあきらめたあのゲーム、今度ひさしぶりにやってみっかなあ。

 壁にある時計を見上げると、生徒指導室に入ってから一時間ほどがたっていた。篠原先生と話したのが十五分くらいだったから、茂木先生とは四十分も雑談をしていたことになる。

 今さらだけど、ここって生徒指導室だったよな。ほんと今さらだけど。やっべー、マジでゲームの話しかしていない。

「結局さあ、俺はどうやったら篠原先生をデートに誘えるんだ?」

「だから私に恋愛の講義は無理ですって。ギャルゲーやったほうがよっぽど建設的ですよ」

「ギャルゲーかあ。ときメモしかやったことないな。それもセガサターン版の」

「また懐かしいゲーム機を……私、名前しか知らないですよ」

 またゲーム談義に花が咲きそうになったので無理矢理会話を切ると、私は鞄を持って立ち上がった。兄との待ち合わせの時間まであと十分もない。

「兄が迎えに来る時間なので失礼しますね」

「おう。お兄さんによろしくな」

 手を振る先生に頭を下げて、生徒指導室をあとにした。

 靴箱で靴を履き替えてからは駆け足で正門を出る。兄との待ち合わせ場所は、学校の斜め向かい側にあるバス停だった。遠目に見ても、兄の姿は確認できない。よかった、まだ来てないんだ。

 信号を渡り、今度は歩きながらバス停を目指す。手前にある本屋にちょっと寄っていこうかな。そう思ってお店を覗き込もうとした瞬間だった。

「吉村里穂子さんって貴方かしら?」

 急に後ろから話しかけられ、びっくりして反射的に足を止めた。視線を向けると、車道に黒塗りの乗用車が停まっていた。

 後部座席の窓が五センチほど開いている。薄暗い車内から、サングラスをかけた女性が上目遣いに私を見つめていた。

「えーっと、はい、そうですけど」

 知らないひと、だよなあ?

 少なくとも自宅近くにいるようなオバサマたちとは空気が違う。パジャマ姿でゴミ出しに来るような雰囲気が、目の前の女性からは一ミリも漂っていなかった。

 やがて運転席から四十代くらいの男性が出てくると、後部座席のドアを恭しく開けた。中から出てきたのは、見るからに金持ちそうな女性。ブランドに疎い私でさえ知っている某有名ブランドの小さなバッグを持ったそのひとからは、キツい香水のニオイがした。

 最初は若いと思ったけれど、よくよく見るとそうでもない。派手な化粧と若々しい装いが、ぎりぎり似合っている。

「はじめまして。里穂子さん」

 やっぱり初対面だった。加えて馴れ馴れしい名前呼び。見知らぬ者同士でいきなり距離を詰めてくる人間を、私はあまり信用していない。

「どちらさまですか?」

「ああ、貴方は知らなくていいことよ」

 きょ、拒否だと。

 胡散臭いとは思っていたが、これはもう確定である。不審者だ。

 引き攣った表情で相手の顔を凝視すると、向こうも向こうで私の顔といわず全身をじろじろと観察していた。そして、感心したように言った。

「本当にそっくりね」

「は?」

「まあいいわ。詳しい話は車の中で聞きましょう」

 女性は指を鳴らした。指パッチン……生で見た。

「はい、奥様」

 芝居がかった動作を合図に、ずっと後ろで控えていた運転手の男性がまたしても後部座席を開け、片手をすっと動かした。

 おい、乗れってか。

「は? いや、あの、無理です、乗れません」

「遠慮しなくていいのよ?」

 いやいや遠慮じゃなくてだなっ、ていうかあんたはドコの奥様だって話なんだよ!

「私、家に帰るので、ここで失礼しますっ」

「帰りはもちろん送るわ。それともなに、私が信用できないとでも言いたいの?」

 出会って三十秒の人間を信用できると思ってんのか。なんなんだこのひと、素で言ってるんなら恐ろしすぎるぞ。

 奥様は真っ赤なネイルのついた指を私につきつけると、至近距離で囁いた。

「大人しく従っておくのが貴方のためよ」

「な、なんですかそれ、脅しみたい」

「あら、そう聞こえた? 最近の子は被害者ぶるのが上手ね」

 いやになっちゃうわ、と奥様はクスクスと笑った。全然面白くないわ。

 少しずつ後ずさりする私の背中に、何かが当たった。嫌な予感とともに振り返ると、そこには無表情に佇む運転手がいた。

「申し訳ございません。一緒に来てくださいませんか?」

「申し訳ないと思ってるんなら帰してください」

 一瞬怯む素振りを見せた運転手だったが、奥様のひと睨みで命令を行使する気になったようだ。

 彼はあくまでやんわり、しかし力を込めて、私を後部座席へと押し出しはじめた。

「嫌って言ってんだろ!」

「まあ、怖い。それに下品な言葉遣いね。これだから庶民は」

「あんたも庶民だろーが!」

 ツっこんでいる場合じゃない。

 ドア部分に手を置いて、必死に突っ張った。運転手にはまだ躊躇がある。肩にかかる手が、本当は逃げてほしいと言っている気がする。けれど今度は奥様も加勢を始めた。おいやめろ、背中を押すな!

「これっ、誘拐ですよ!?」

「誘拐だなんて大げさだわ。私はただ、貴方と密室で話がしたいだけよ」

 顔を覗き込んできた奥様のサングラス越しの目が、大きく弧を描く。目じりに皺、やっぱり若くない。呆然と見上げながら考える私の体が、さらに強く押された。


「ちょっとオバサン! その子に何やってんのよ!!」


 知った声がしたかと思うと、バタバタと走る音が聞こえた。突然、私に触れていた手が離れ、反動で後ろに尻餅をつく。

「ああん、もう。今日は駄目ね、行くわよ」

「はい、奥様」

 地面に座り込む私を置いて、奥様と運転手が車に乗り込んだ。「逃げんなコラァ!」という声が、だんだんと近づいてくる。

 二人の乗った車が発進すると同時に、すぐ後ろでクラスメイトの声がした。

「追いかけろ井波っ、市内四位の実力を見せてやんなさい!」

「四位って言うな!」

 怒鳴りながら、見知らぬ男子が綺麗なフォームで車を追いかける。他にもユニフォームを着た生徒が走り抜けていった。

 陸上部。ユニフォームの背中に書かれた文字を、ぼんやりと見送った。

 直後に、背後から肩をぎゅっと抱きしめられた。

「リホリホ、大丈夫!?」

「ま、真柴、さん、」

 同じユニフォームを着たクラスメイトの姿を、信じられない思いで見つめる。なんとか頷くと、彼女は険しい表情を車が逃げていった方向へと向け、「なにあのオバサン!」と悪態をついた。

「ねえ、リホリホ、学校に戻ろう。これ、やばいよ」

 支えられるようにして立ち上がると、膝が震えていることに気がついた。ひったくりのときと一緒だ。ただ怯えているだけで、ろくな抵抗すらできなかった。じいさまから学んだことを、私は何ひとつ活かしていない。

「真柴、駄目だった」

「さすがに車には追いつけませんでした」

 車を追いかけていった陸上部員たちが、肩を落として戻ってくる。

 白昼堂々の誘拐未遂事件。

 恐怖を通り越すと、人間、笑ってしまうものらしい。ガクガク震えながらニヤつく私を見て、真柴さんが怯えていた。




 生徒指導室は、緊張感に包まれていた。

 周りにはずらりと並んだ教師陣。誰も彼もが怖い顔をしていて、正直空気が重苦しい。ちょっと前までは茂木先生とゲームの話で盛り上がっていたというのに、この差はなんだ。

「吉村、携帯鳴ってないか?」

「え、……あああ!」

 兄ちゃんのこと、完全に忘れてた。

「あの、兄なんですけど、出てもいいですか?」

 学校では一応携帯類の使用が禁止されている。まあ誰も守っちゃいないけど。

 許可を得て通話ボタンを押すと、兄のがなり声が聞こえた。

「ご、ごめん、あの、まだ学校なんだけど」

 通話口を手で覆いながら部屋の隅に移動する。事情、話したほうがいいよなあ。どうせ後でバレるんだし。

 で、説明して五分後。兄はバイクで春日坂の敷地に乗り込み、ちょっとした騒ぎを起こしてくれた。不良がお礼参りに来たと、目撃した生徒が職員室に駆け込んできて、様子を見に行った先生たちともみ合いになったらしい。

 騒ぎを知った私が「それたぶんうちの兄です」と申し出て事なきを得たが、兄とは顔も雰囲気もまったく似ていなかったため、中々先生たちには信じてもらえなかった。

「お前はなんでそうトラブルに巻き込まれるんだ? わざとか? ァア?」

 生徒指導室に入って私を見つけるやいなや、兄は不良丸出しで因縁をつけてきた。私のせいじゃないっつーの。

 しかし凄みながらも怪我をしていないか確認してくるあたり、相変わらず不器用なひとだなあと照れるやら呆れるやらである。

「まあまあ、お兄さん。吉村を責めてやらないでくれよ」

「誰だてめーは」

「うちの担任の先生。頼むから敬語を使ってよ」

「んなもん、生まれてから一度も使ったことがねー」

 だろうな。私も聞いたことねーよ。

 春日坂には滅多にいない不良の兄の登場に、生徒指導の先生がさっきからこめかみ辺りをピクピクさせていた。染めた髪やアクセサリーに文句をつけたくて仕方ないって顔だ。

 かなうならどうか私に言い訳をさせてほしい。兄はこれでもイイコなんですよ! そして私はもっとイイコですから!

「兄ちゃん、お願いだから大人しくしててよね」

「あ? 俺はまだなんもしてねーぞ」

「空気をピリピリさせてるだろうが!」

 うちは近隣住民から『ぼけら春高』とか『春日坂牧場』と言われてるくらいに平和的かつ牧歌的な高校である。兄ちゃんみたいな狼は基本いないと考えてほしい。先生たちも慣れてないんだよ。茂木先生を見ろ、さっきのでもうショック受けて涙目になってるだろ。

 小声で兄に注意をしていると、生徒指導室のドアが開いて、漫研顧問の鰐淵先生が入ってきた。

「遅れてすみません」

 走ってきたらしい。息を乱して入室してきた鰐淵先生は、入り口近くにいた私に真っ先に駆け寄ってきてくれた。

「吉村さん、怪我は?」

 鰐淵先生の麗しいお顔に、汗が光っていらっしゃる。

 その光景にびっくりして返事が遅れてしまう。鰐淵先生はショックで私が話せないと思ったのか、「もう大丈夫ですよ」と痛ましいものでも見るかのような視線を注ぎつつ、私の肩を撫でてくれた。なんかすいませんね。

「なんだコイツ、ホストか?」

「兄ちゃん!」

 私の右手が慌てて兄の口を塞ぐ。鰐淵先生の眉が、片方だけ器用にピクっと上がったのを私は見逃さなかった。

「これはこれは、吉村さんのお兄さんでしたか。まっっっっったく似ていないので、どこのチンピラかと思いましたよ」

 フン、と鼻で嗤う鰐淵先生。

 優雅な顔して、喧嘩は買うほうですか。

「チンピラってのは俺のこと言ってんのか? あ? このメガネ野郎」

「私もメガネですけど! 兄ちゃんっ、校内での喧嘩の売買は禁止だっつの!」

 周りの先生たちが慌ててふたりを引き離す。茂木先生、「鰐淵先生、格好良い……」じゃないですよ。なにトキめいてんだ。

 兄と鰐淵先生はそれぞれ一番遠い席に座らされた。でも視線はぶつかりあったまま、睨み合いが続いている。

 すぐに私たちが帰れないのは、学校が警察に通報したからだった。ひったくりのときのように、これから管轄の警察官がやってきて事情聴取。別室には真柴さんたち陸上部の部員も待機していて、目撃者として事情を聞かれるらしい。

 ああこれ、絶対に明日には噂になってるだろうなあ。

 ため息を押し殺して俯くと、鰐淵先生がつぶやくように言った。

「これって、無関係なんでしょうか」

「え?」

 顔を上げて鰐淵先生を見つめると、彼は思案顔でさらに言葉を重ねた。

「この短期間に、ひったくりと誘拐未遂事件に巻き込まれるなんてこと、普通はありえないでしょう? それぞれが無関係だなんて、とんでもなく低い確率だと思うんです」

「はあ、まあたしかに」

「でも、ふたつの事件が繋がっているとしたら、ありえないことじゃない」

 まさか。考えすぎですよ。指導室にいる先生たちが頷きあったり、首を振ったり。私はそういう考え方もあるのか、と驚いていた。

「吉村、なにか心当たりあるか? 恨まれてるとか」

「えぇっ、ないですよ。茂木先生も知ってるでしょ、私って超優しいと評判じゃないですか」

「そんな評判は聞いたことないけど、恨まれるような子じゃないのは確かだな」

 おい、そこは同意しろよ。担任だろ。

「逆恨みということもありますよ。吉村さんに非がなくても、相手が勝手に恨んでいる場合も考えられると思います」

 ……ありえそうな気がしてきた。

 だって今日の誘拐犯は、私の名前を知っていたのだ。学校の前に車を停めて、私が出てくるのを待っていた。誰でもよかったはずがない。

 それを告げると、部屋の空気が変わった。鰐淵先生が険しい表情を浮かべ、苦々しげに言った。

「もしかしたら、ひったくり犯のほうも、吉村さんを知っていたかもしれませんね」

 こっわ!

 得体の知れない恐怖に、ぶるっと体に震えが走る。

 いやいや、マジで? 暗くて相手の顔なんて見えなかったけど、あのひったくりは私を私だと認識して襲ったっていうのか?

 考え込む私のすぐ隣で、机が音を立てて揺れた。 

「そいつら、ぶっころす」

 机を殴りつけた兄は、地獄の底から這い出してきたような形相で見えない敵相手に威嚇していた。相変わらず血の気が多いな。

「まあ、あくまで可能性の話です。だから先走ってだれかれ構わず喧嘩を売るなんて真似、やめてくださいね。犯人じゃなくて君が警察の世話になったりでもしたら、滑稽を通り越して哀れですから」

 鰐淵先生ったら、今日は随分とトガってんな。

 でも言えねー。私も警察のお世話になったことあるなんて、言えやしねー……。

「ガリメガネ、その顔ぶん殴られたくなかったら黙ってろ」

「すぐに暴力で解決しようとするのは、弱い自分を隠したいという心理の現れですよ」

 喧嘩を売る人間がいれば、喧嘩を買う人間がいる。これが公民で習った需要と供給だな。

 一触即発のふたりを眺めながら、来年の社会科の選択に頭を悩ませる。仲裁? もう諦めたわ。

 ふたりを宥めようと騒がしくなる室内で、私はひとり思考に耽っていた。

 鰐淵先生の言うとおりだとしたら、ひとつ、疑問が生じる。

 あの夜、どうしてひったくり犯は、わざわざ私の鞄を取っていったんだろう。私に恨みがあったのなら、脅すだけで済んだはずだ。ただのひったくりに見せたかったから? けれどそんな小賢しい考え方ができるんなら、ひったくりなんていうリスクの高い真似はしない気がした。

 鞄をよこせと、取り乱したようにも聞こえた男の声が、まだ耳に残っている。余裕の欠片もないあのひったくり犯と、今日出会った奥様をつなぐ糸なんて、本当に存在するのだろうか。

 悩みぬいても答えは見出せず、モヤモヤとした感覚だけが、こびりついた染みのように胸に残った。

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