64、鬼の竜蔵
「兄ちゃん、次の交差点、右ね」
ぐるぐるに巻いたマフラーの隙間から指示を出す。くぐもった声のとおりに、兄は交差点を右折した。
休日の朝ということもあって、交通量はそれほど多くない。ただ気温が零下に近いとあって、風を切って走っていると指先の感覚がなくなってくる。手袋をしていてこれだ。鼻水が絶え間なく垂れてくるので、さっきからスンスン鼻を鳴らしっぱなしなのが情けない。
目の前の信号機が黄色になり、兄はバイクの速度を緩め、最後にキュっとブレーキをかけた。
「いでっ」
反動で目の前の背中に顔をぶつけた。絶対、ワザとだ。兄は後ろをちょっと振り返り、にやっと笑った。やっぱり。
「お父さんみたいなことしないでよ」
「なんでオヤジが出てくんだよ」
「ママチャリの後ろに乗ってると、しょっちゅうブレーキかけて今みたいなことしてきたじゃん。小さいときだけど、兄ちゃんもやられなかった?」
「……あれか」
「お父さんってさ、強面のくせに子供みたいなことよくするよね」
出張ばかりの父は今は一体どこにいるんだか。ときどきおみやげだけが郵送されてくるけど、この間は仙台の牛タンだった。次は青森のリンゴがいい。
「兄ちゃん、青だよ」
話しているうちに信号が変わり、兄はバイクを発進させた。
北川家はもうすぐそこだ。
「ごめんなさい!」
ときは遡ること三日前。私がひったくりに合った翌日、放課後の部室でのこと。
「いきなりなによ」
机に突っ伏して謝る私を、キタちゃんは不気味そうに見下ろしていた。
一年生はまだ来ていない。いつ部室にやってくるかも分からないので、私は今のうちに事情を説明することにした。
「キタちゃんから借りた小説、鞄ごとひったくられちゃった……」
「ひったくりに遭ったのってあんただったの!?」
「声がでかい!」
この時間、部室近くの廊下では合唱部が練習している。歌声に乱れがないから、たぶん聞かれなかっただろうけど。
ひったくりのことは話さずにしれっと新品を購入して返すという手も考えていた。でもそうしなかったのは私が私であり、キタちゃんがキタちゃんであったからだ。つまりは何が言いたいのかというと、親友相手に小細工は無用、これに尽きる。
「けっこう抵抗してみたんだけど、駄目だった。本当にごめんね。ちゃんと買って返すからね」
「バカ! あんた弱いんだから、抵抗なんかしたら余計な怪我するだけじゃない。相手はバイク? 引きずられて、死んでたかもしれないんだよ?」
思った以上に心配されて、照れくさい。……いや正直に言おう、超うれしい。
うひひと笑ったら軽くビンタされた。調子に乗りましたごめんなさい。
「よし、あんた明日からうちに泊まりな」
「いきなりだなあ」
お泊りなんて夏休みぶりだ。明日は土曜日だし、朝から行くことが決定した。
「じゃあDS持っていくから、夜通しモンハンしよーぜ」
「はあ? なに言ってんのよ、遊びじゃないのよ」
浮かれる私を険しい目つきで射抜き、キタちゃんはピシャリと言い放った。
「じいちゃんにも相談して、リホでもできる護身術を叩き込んであげる」
なにその猿でもできるみたいな言い方は。北川家は私のスペックを低く見積もりすぎてるだろ。
いやいや、それよりもなに。護身術ってなに。オタク同士のお泊りといったらゲームとアニメ三昧って相場が決まってるもんでしょうが。護身術なんてお呼びじゃないよ!
「あ、あー、そういえば明日は眼科に行くんだったー」
「それが終わったらうちに来なさい」
「お、親知らずが痛いから歯医者にも行きたい」
「引っこ抜いたら私の家に集合ね」
「……というか、さっき私に抵抗するなって言ってなかった?」
「技術じゃなくて心構えを叩き込んでやろうって言ってんのよ」
私が私であるように、キタちゃんもまたキタちゃんであった。つまりは何が言いたいのかというと、逃げられない、これに尽きた。
土曜日の北川道場は、朝から子供たちの元気な声が響いていた。
現役警察官が顔を見せるのは主に夕方から夜で、午前中は近所に住む門下生の子たちが指導を受けている。キタちゃんもその中に混じって、特に小さな子の面倒を熱心に見ていた。
ジャージに着替えた私は、道場の隅っこで、じいさまから手ほどきを受けることになった。私も子供たちと一緒に「めぇん」とか舌足らずに言いたかったんだけど。
「なにをもうへばっとる。本番はこれからだぞ」
柔軟体操ですでに体力を使い果たした私に、道着姿のじいさまが容赦のない声をかける。
へろへろになって道場に這い蹲る私を見下ろす様はまさに鬼だ。そんな怖い顔してるから、門下生の子がすぐに辞めちまうんだよ。現代っ子の打たれ弱さナメんな。
「ちょっと休憩」
「これからだと言っとるだろうが。立て」
「いやだ、休む。温かいお茶が飲みたい」
「甘えるな」
ジャージの襟首を掴んで無理矢理立たせると、じいさまは「いいか」と厳しい声音で私に言った。
「この世には危険が溢れ返っている。その荒波の中で自分の身を守れるのは、自分だけだと心得ろ」
「今って戦国時代とかじゃないっすよね?」
時代錯誤にもほどがある。
私はただ、ついていなかっただけだ。そもそもひったくりなんて一生に一度遭うか遭わないかの確立の低さなんだから、この先もう一度同じ目に遭遇するかと問われれば、きっとないと言えるだろう。危険は去った、だから護身術なんて必要ないと思うんだけれど。
「それが甘いと言っておるんだ!」
道場に怒声が響き渡る。打ち合いをしていた門下生たちが動きを止め、突然怒り出したじいさまを、誰もが息を呑んで注視した。
「痛みから何も学ばない人間は、成長できんぞ」
「学びましたよ。身長も中学から5センチ伸びたし」
「そういうことを言ってるんじゃない」
いや、今のは私の小粋なボケだから。真面目に返されるとスベった感じになるからやめて。
あの子怒られてよく泣かないよな、とギャラリーとなった門下生の子たちが言ってるけど、じいさまに会ったばかりのころは怖くて泣きまくったわ。礼儀作法とか口出しまくってくるし、他所の子なのに容赦ないし。キタちゃんには悪いけどこのクソジジイと思ってた。
昔は大嫌いだったじいさまは、不意に暗い顔をした。
「世の中には、予期せぬ不幸に見舞われて、一生を台無しにさせられてしまう者もいるんだ。そんなとき、何もできない人間でいてどうする」
厳しい態度の中にひそむ、こちらを心配する気持ち。それに気づけないほど私は子供ではなかった。形相は恐ろしいのに、目だけが裏切っている。そういうのは卑怯だ。
「……分かった」
渋々やる気を見せると、じいさまの表情がいくらか和らいだ。和らいだといっても、片方の唇の端がほんのわずか上がっただけの拙いものだったけれど。
このひとは笑うのが壊滅的にヘタクソだ。
けれど私はそんな表情を見るたびに、年下の男の子に向けるような、微笑ましい気持ちになるのだった。
北川一家と夕食を共にし、お風呂をいただいたあとは、キタちゃんの私室で眠ることとなった。
これがただのお泊りなら、深夜までゲームかアニメで盛り上がっていたはずだ。しかし明日も早朝から剣道場で護身術の稽古があるからと、九時だというのにすでに布団に入っている。
両手を突き出し、酷使した体をぐうっと伸ばす。明日は筋肉痛で使い物にならない気がするけど、そこからさらに己の体を苛めてこそアスリートは作られていくのだという北川家一同の言によって、明日の私はボロ雑巾のようにさせられるのは確実である。
「明日、ちゃんと起きられる自信がない」
「誰が同じ部屋で寝てると思ってんの? 安心しなさい」
安心じゃなくて不安が襲ってくるんだけど。
明日はグズらずに一度で起きようと誓った。前は起きなかったせいでアンクルホールドをきめられ、これ以上はないというほどの目覚めを迎えさせられたのだ。同じ徹は二度と踏むまい……と言いたいところだがすでに五、六回は踏んでいるんだよなー。でも私は悪くない、低血圧が悪い。低血圧と寝起きは関係ないらしいが、悪いのは私じゃない、低血圧のほうだ。
「じいちゃんがさ」
低血圧に責任を押し付けていると、となりに布団を並べて寝そべっていたキタちゃんが、にやにや笑いながら言った。
「リホがひったくりに遭ったって聞いた日から、夜回りしてんの」
「徘徊じゃなくて?」
殴られた。
「よっぽどショックだったみたいよ。すぐに星野さん呼び出して、事情を訊いていた」
「守秘義務どこいった」
「あんたから聞き出すか、星野さんから聞き出すかの違いでしょ。気にしない気にしない」
いや、警察が一番気にしろよ。
しかし規律には人一倍うるさそうなじいさまがねえ。
意外そうに呟くと、キタちゃんは苦笑いを浮かべた。
「リホってさ、うちのじいちゃんが怖いとか厳しいとかよく言うけど、じいちゃんはあんたに初めて会ったときから、ずっと優しかったよ」
「はいダウトー、いくらなんでも騙されませんー」
私の記憶がたしかならば、初対面で「小さいな。本当に麗華と同い年なのか?」と言われてカチンときたのを覚えている。当時の私の身長は、まあ平均値よりかは小さかったのはたしかだが、おたくの孫娘がデカいんですよ、とはキタちゃんを前にしては言えなかった。
相手は友達のお祖父さんだし、しばらくは猫を被って愛想笑いをしていた。内心では会うたびに小言の多いじいさまに、「口うるせーんだよ」と思っていたけども。
「でもじいちゃんのおかげで、あんたの猫背、治ったじゃない」
「う、まあ、」
「お箸の持ち方も綺麗になった。うちのじいちゃんのおかげだよね」
「ですね……」
「身内以外じゃ、リホだけだよ。じいちゃんが気をかけてるのは」
「うーん、信じられん」
ツンデレってあるじゃん。じいさまがその類だとはどうしても思えない。
「あんたってどうしてそう素直じゃないのかねえ。普通さ、こういう場合、ちょっとは嬉しがるもんでしょ」
「これは性分だからなあ」
「本当にそれだけ?」
何気ない問いかけに、ドキリとした。
固めの枕を抱きしめながら、しばし無言。静まり返った部屋の中、時計の針の音だけがやけに耳につく。先に沈黙を破ったのはキタちゃんだった。
「ブレーキかけすぎてると、そのうち走り方まで忘れちゃうわよ」
私が何かを言う前に、キタちゃんは「おやすみ」と告げて布団を被ってしまった。すぐに寝息が聞こえてくる。たぶんまだ起きているんだろうけど、それを確かめる気にはなれなかった。
やがて私も頭の上まで布団をすっぽり被り、目を瞑る。
キタちゃんの言葉を何度も何度も思い返しながら、しばらくは眠れぬ時間を過ごすことになった。
筋肉痛は思った以上にひどかった。
翌朝、涙目でキタちゃんに訴えると、特大のため息ひとつ。食卓で痛みと戦いながらもそもそと朝食を食べる私を見て、じいさまもどうやら諦めたようだ。午前中は軽い柔軟だけをして、午後は自由時間となった。
キタちゃんの部屋にふたりで戻ると、彼女はテレビの電源を入れた。
「体が動かせなくてもやれることはあるわ。イメージトレーニングよ」
「イメトレっすか」
「格闘家の動きっていうのは、見るだけでも勉強になるわ」
キタちゃんはウキウキとした様子でDVDの並んだ棚を漁っている。お、なんだ、アニメでも観るのか。アクションシーンがぬるぬる動くと評判のあれかな。
「さあ、リホ、どれがいい?」
そう言って彼女が見せてきたDVDは、
「武田鉄矢とジャッキー・チェンと、スティーブン・セガール。私のオススメは武田鉄矢の『刑事物語』なんだけど。ハンガーに対する価値観が根底から覆されるわよ」
「ハンガーに対する価値観ってなにかね」
あれは衣服をかける道具であって、それ以上でもそれ以下でもないと思う。
戸惑う私をよそに、キタちゃんの口調が徐々に興奮を帯びてきた。
「ジャッキー・チェンは鉄板すぎるかしら? でもスティーブン・セガールの『沈黙シリーズ』は、昔はよかったけど最近はカメラワークと演出に懲りだしたせいで、逆にそれが彼の格闘術を上手く見せられていない観があるのよね。観たいのなら初期のほうにしましょ」
「落ち着けぇえええ!!」
誰も、観たいとは、言っていない。
「なによ、筋肉痛で動けないんでしょ? だったらDVD鑑賞でいいじゃない」
「他のにしようよ! アニメとかアニメとかアニメとかさあ!」
「アニメのアクションシーンは非現実的な部分が多いからイメトレには向いてないのよね」
「イメトレから一旦離れようぜ!」
しかし、格闘オタクでもあるキタちゃんの暴走は止まらなかった。私の意見を無視してジャッキー・チェン主演の『新香港国際警察』をデッキにイン。
「ジャッキーの動きはトリッキーすぎてイメトレにはちょっと向いてないんだけど、まあ入門的な意味合いとしてはもってこいだと思う」
私は一体どこに入門させられようとしているのだろうか。
えーやだよーアニメがいいよーとぶうぶう文句を言ったら、「うるさい」とガチで怒られてしまった。おいおいマジかよ、筋肉痛のおかげでトレーニング回避できたと思ったら、ジャッキーの襲撃を受けるなんてよ。
かといって隣で漫画を読むこともできないし、させてもくれないだろう。仕方ない、彼女の趣味に付き合うことにした。
映画を観はじめて一時間が過ぎたころ。物語は後半に差し掛かり、主人公は背後から撃たれそうになっていた。あれだけ不満たらたらだった私は「ジャッキー後ろ後ろー!」とハラハラしながらテレビ画面に釘付けになっていた。
ときどき隣からキタちゃんの「どうだ面白いだろう」という視線を感じたが、それどころじゃない。固唾を呑んで展開を見守っていると、俄かに家の外が騒がしくなった。
いいところなのに、うるさいな。
喧嘩だろうか。内容までは聞き取れないが、言い争う声が部屋の中まで聞こえてくる。
「じいちゃんだ」
立ち上がったキタちゃんに驚き、耳を澄ませてみると、たしかに片方はじいさまの声に違いなかった。DVDは一旦停止し、ふたりで部屋から出て、騒ぎの発信源である玄関に向かった。
「リホちゃんがいんのは分かってんだっ、とっとと出しやがれくそじじい!」
「そっちもじじいだろうが!」
玄関先では、道着姿のじいさまと、スーツを着てヤクザ顔負けに威嚇する年配の男性が舌戦を繰り広げていた。
廊下で立ち止まり、キタちゃんと顔を見合わせる。じいさまが唾を飛ばして怒鳴る相手を、私はよく知っていた。
でもなんでここに? 不思議に思いながら、じいさまの後ろから顔を出す。
「リホちゃん!」
「こんにちは、虎さん」
小さく手を振ると、怒りで真っ赤になっていた虎さんは途端に笑顔になり、両手を広げて近づいてきた。
それを遮ったのは、眉間に思い切り皺を寄せたじいさまだった。
「リホ、麗華と一緒に部屋に戻っていろ」
「私の知り合いなんですけど」
「それはコイツから聞いた。いいから今は部屋に」
「おい待て竜蔵! 俺はリホちゃんを迎えに来たんだぞ」
「何が迎えに来ただこの色ボケじじいが。名前まで呼ばせて、恥を知れ」
「てめーもじじいだろうが!」
オイじいさんたち、さっきと同じ会話してんぞ。
私を引っ込ませようとするじいさまに逆らい、一歩前に出た。
「虎さん、じいさまとはお知り合いなんですか?」
「こんなじじいは知らんなあ」
「ボケたか、虎吾郎」
「嫌味だバーカ!」
「相変わらず怒り方が子供みたいなヤツだ。成長しておらんということだな」
「ムッツリのお前に言われたくねえよ!」
仲が良ろしいことで。
これもう部屋に戻ってジャッキー観たほうがいいんじゃない? 同意を求めるようにキタちゃんを振り返ると、彼女も頷いていたので踵を返そうとした。
「待ってくれ、リホちゃん」
慌てて止めたのは虎さんだった。彼を頑固そうに見せている太い眉毛をへなりと下げて、急に態度がおとなしくなる。こちらを窺うように見つめてくると、不安げな表情で訊いてきた。
「ひったくりに遭ったって本当かい?」
「本当ですけど」
どこで知ったんだろう。そう思った瞬間、両肩をがしりと掴まれ、目の前に虎さんの泣きそうな顔が迫った。
「俺がついていながら、なんてことだ……っ」
いやいや、あのとき虎さんいなかったからね。
なんか責任を感じているみたいだけど、まったくそんな必要ないから。悪いのは人様のものを盗んでいったひったくり犯のほうだ。あの野郎、鞄の中身を物色してキタちゃんから借りたBL小説をプゲラッチョしてたらマジ許さねえ。
「怪我は? なんもされてねえか!?」
「転んだときの擦り傷と打撲くらいです」
「びょっ、病院は! 精密検査はちゃんとしたのか!?」
「診断書をもらいに行きましたけど、そこまではしてませんよ」
「なっ、そりゃ駄目だ! 今すぐしたほうがいい!」
「大げさですよ。頭とか打ってないですし」
「分からんだろう! ポックリ逝ったらどうするんだ!」
いやどっちかってーとポックリ逝くのはそっちのゲフゲフ。
ここまで心配されて突き放すのも難しい。困ったなあと弱り果てていると、後ろのほうから伸びてきた手が、私の肩にあった虎さんの手を乱暴に落としてしまった。
「年頃の娘に気安く触れるな」
「お前なに疚しいこと考えてんだ? っかー、これだからムッツリはよお!」
「四六時中、疚しいことを考えてるお前に言われたくない」
このふたりは普通に会話ができんのか。
言い争うふたりを呆れて眺めていると、開けっ放しになっていた玄関扉からこちらを覗く男性とばっちり目が合った。
「あ、ミノりん」
「どうも、リホコさん。お邪魔しています」
「いや、私もお邪魔してるんですけどね」
虎さんの家を訪ねて以来の再会だった。言い争う祖父を仕方ないなあという顔で見やり、次いで柔らかい表情を浮かべながら私の顔を覗き込む。
「大変な目に遭ったそうですね。体は本当になんともありませんか?」
「はい、平気です。でもなんで私がひったくりに遭ったこと、知ってるんですか?」
それだけじゃない。私が北川家にいることを彼らはどうやって知り得たのだろう。
「まあそれは、倉崎家の情報力は世界一、ということで」
ジョジョネタをぶっこんでくるとは、やるなミノりん。
彼のボケに毒気を抜かれていると、ミノりんは突然、堪えきれないと言わんばかりに噴き出した。
「お祖父ちゃんってば、貴方がひったくりに遭ったと聞いて、すぐに見舞いに行くと部屋を飛び出したはいいんですが、勢いあまりすぎて縁側から庭に突っ込んでしまって」
「ええっ、大丈夫だったんですか」
「体だけは丈夫みたいですから、その点については心配いりませんよ。昔はトラックに轢かれても平気だったと言ってましたし」
そんな馬鹿な。
歳も歳なんだし、私よりも虎さんのほうがよっぽど病院に行くべきだと思う。
「お祖父ちゃんがあんなに取り乱す姿を見せるなんて、初めてですよ。チンピラに絡まれたときだって眉ひとつ動かさなかったひとなのに」
いいものを見せてもらいました。
お礼を告げられて、微妙な気持ちになったのは言うまでもない。私にそんな大した影響力はないんだけどなあ。
虎さんとじいさまは、相変わらず言い争いを続けている。子供のように幼稚な文句をふりかざす虎さんを見つめたまま、不意にミノりんが言った。
「リホコさんは、運命って信じますか?」
「へ? ……はあ、うーん、あんまり」
運命とか宿命とか二次元じゃあスタンダードなんだけど、現実でも信じるかと訊かれたら、はっきり言ってノーだ。
偶然が重なり続けたら、それを運命と言うのかもしれないけれど、元はやっぱりただの偶然でしかない。計り知れない何かの力というやつを、私は二次元以外の世界ではまったく頼りにしていないのだ。
「現実的ですねえ」
私のドライとも受け取れる意見を聞いて、ミノりんは面白そうに唇の端を持ち上げた。
「そういうミノりんこそ、運命とか鼻で笑ってそうなイメージがあるんですけど」
「おや、ひどい。僕は中学生のときから運命というものを信じてますよ」
「意外とロマンチックですね」
「席替えで三回連続同じ席になったとき、運命の存在を確信しました」
「小さ!」
それこそ偶然だ。ミノりんのボケにすばやくツッこむと、彼はそれはそれは嬉しそうにしていた。ツッコミに飢えてやがる。
「そもそもなんでいきなりそんなこと訊いてきたんですか」
脈絡のなさに怪訝な表情を浮かべる私とは対照的に、ミノりんは一体何がそんなに楽しいのか、にこにこ笑いながら祖父である虎さんを眺めていた。
「お祖父ちゃんを見ているとね、思うんです。このひとは運命を信じて、今まで必死に生きてきたんじゃないかって」
まるで眩しいものに当てられたかのように目を細めた彼は、どうしてか私を振り返り、挑むような表情を浮かべた。
「貴方に責任はないけれど、責任とってくださいね」
「はあ?」
戸惑う間に、ミノりんは口論するじいさまたちに割って入っていった。喚く虎さんを若い力で押さえつけながら、彼は頭を下げて北川家を退出した。