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62、過去から来た男

「警察、すぐ来るって」

 聞きなれない女の人の声で我に帰った。

 警察。なんで警察。

「すまん、見失った」

「あんた、陸上部のエースだっつってたじゃない」

「昔の話を持ち出すなよ。つーかアイツ、途中でバイク乗って逃げやがったんだよ」

 見失った。誰を。

「こんな小さな子の鞄、ひったくるなんて」

 そうだ、私はひったくりに合ったんだ。

 腕を引っ張られ、転んだときの衝撃が、生々しく甦った。

 一度は立ち上がった体が震えだし、へたりこみそうになる。ガックガックの足を見下ろし、生まれたての小鹿とはこのことか……そんなことを思えるくらいには、自分の神経が図太かったことに安堵した。

「歩ける? そこにコンビニあるから、入って待ってよう」

「は、はい」

 最初に声を掛けてくれた男の人の言に従い、路地を煌々と照らすコンビニを目指すことにした。

 自動ドアを潜ってすぐ、いらっしゃいませと言われて、いらっしゃってませんと申し訳なくなった。ここに来たのはただの時間つぶしと風除けである。

 それと待ち合わせ。

 家から走ってきたとしても、兄が来るにはまだもう少しかかるだろう。早く来て欲しいと、甘ったれたことを考えた。

 コンビニの明るすぎる照明に疲れを覚えて俯いた私に、事情を聞いたらしいコンビニの店長が事務所の奥から椅子を持ってきて座らせてくれた。何か飲むかと訊かれて咄嗟に首を横に振ったが、少しして、入れたてのコーヒーをくれた。奢りだと言って。

 体が温まると、余裕が生まれる。付き添ってくれたお兄さんたちにようやくお礼が言えた。仕事帰りの男性ふたりに、女性がひとり。彼らは高校の同級生で、これから一緒に飲みに行く矢先のことだったらしい。

「ここまで連れてきてくれてありがとうございました。兄がもうすぐ迎えにくるので、あの、もう」

 これ以上手間を取らせてはいけないと思った。けれど私の申し出はあっさりと却下された。

「いや、俺ら目撃者だし」

「警察に色々と証言しなきゃいけないし」

「ここで帰ったら薄情者だしね」

 息のぴったり合った三人組に、自然と笑みがこぼれる。場を和ませようと思ったのか、「ねえねえ、その制服、春日坂だよね」と事件のことには一切触れずに会話をしてくれた。

「私たちも春校出身なんだよ」

「えっ、じゃあ先輩ですか」

「うん。そういえば卒業したのって何年前だっけ?」

「八年前だろ」

「うおーマジか。俺らも歳くったなあ」

「私はくってない。永遠の十七歳よ」

「本物の女子高生の前でよくもそんな図々しいことが言えるな」

 ぽんぽんと言い合う三人が、私と岩迫君と甲斐君の三人組を思わせた。特に元陸上部という彼のツッコミには、甲斐君と相通ずるものを感じる。

 「部活なに?」とか、「あの先生まだいる?」とか。内輪ネタで盛り上がっていると、コンビニの自動ドアが開き、客が来店した。

 三人組の視線が自然と出入り口に向かい、すぐに逸らされた。私の兄じゃない。そう思ったのだろう。

「兄ちゃん」

「えええ!」

 ですよね、似てませんよね。

 見るからにガラの悪い男が、この小鹿のようにか弱い私と兄妹だとは誰も思うまい。立ち上がった私をすぐに見つけた兄は、怪訝な表情を浮かべた。そして直後、お世辞にも穏やかとは言えない顔の造作を、これでもかと凶悪に歪めた。

「誰にやられた」

 あとで知ったことだが、私の制服の肩の部分には靴の足跡がくっきりと残っていた。それに加えて兄は短気。以上ふたつを加味すれば、その後の展開は火を見るよりも明らかであった。

「ひったくりだぁああ?」

 兄よ、語尾を上に延ばさないでくれ。普通にしていたって怖いのに、今は七割り増しで怖い。

「相手は? 顔はちゃんと見たのか?」

 黙り込んだまま、首を横に振る。こちらを萎縮させるような舌打ちが続き、スカートを握り締めて俯いた。

「帰るぞ」

 無理に腕を引っ張られてよろめいた。

 兄は苛々していた。優しい言葉も、いたわるような態度も見せなかった。それが少し悲しくて、傷ついている自分がいる。

 ちょっとくらい慰めてくれたって。弱りきった心で愚痴を吐く私に、兄は追い討ちをかけるように言い放った。

「バイトはもう辞めろ。いいな?」

 俯いたまま、私は自然と立ち止まっていた。

 今、なんつった?

「なんで私がバイト辞めないといけないんだよ」

「あァ?」

 助けてくれたお兄さんたちや、コンビニの店長たちが見つめる中、私は目の前に立つ兄を睨み上げなおも言った。

「バイトは辞めない。明日も、ちゃんと行くから」

「はあ? 何言ってんだ、お前」

 凄んでくる兄から腕を振り払い、パイプ椅子に座りなおした。「警察来るから」そう言って、てこでも動かんと足に力を入れる。

「おい、リホ」

「うるさい!」

「リホ!!」

 蹴られた肩を掴まれ思わず呻く。慌ててお兄さんたちが間に入ってくれた。

「なんだお前ら、他人はひっこんでろ」

「私を助けてくれたひとたちに乱暴な口利かないでよ! なんでそうやってすぐに怒るんだよ。兄ちゃんのそういうところ、本当嫌だ」

「んだと?」

 暴れだしそうな兄の体を、今度はコンビニの店長も加わって押しとどめる。肉食獣みたいな目つきで私を見下ろす兄から目を逸らし、唇を噛み締めた。鼻の奥がツンとして、悔しさがこみ上げてくる。

「絶対辞めない。辞めたくない。兄ちゃんには関係ないから、ほうっておいてよ」

 他にも言い方ってものがあったと思う。けれど今の私は、自分の意地を突き通すことしか考えていなかった。

 痛いほどの沈黙が続く。不意に、頭上に影が差した。見上げるよりも早く、胸倉を掴まれて強引に立たされた。

「でかい口叩くなら、自分で自分の身を守れるくらいにはなりやがれ」

 目と鼻の先に、本気で怒る兄の顔があった。怒気に当てられ、涙腺が緩む。けれど、どうしたって自分の意志は曲げたくなかった。

「私、悪くないもん」

「お前なぁっ」

「悪くないのに、なんでこっちがバイト辞めて、逃げなきゃいけないんだよぉ……っ」

 耐え切れずに涙がこぼれる。蹴られた肩が痛い。無理矢理持ち上げられた体も苦しくて、何度か咽る。そのたびにぽろぽろと涙が落ちて、レンズを濡らした。

 兄がこれほどまでに怒りを露にしているのは、私を心配してくれているからだ。バイトを辞めろと言ったのは、妹を案じてのことなのだ。

 分かってた。それでも私は、安全な場所にいてほしいという兄の気持ちよりも、自分の意志を貫き通したかった。あの優しいオーナー夫婦が切り盛りするお店で、これからも働きたい。ひったくりごときで辞めたくなかった。

「また襲われるかもしれねえんだぞ?」

「……うん」

「今度はもっとひどいことになるかもしれねえ。それでもいいのか?」

「……それは、いやだけど、でも私、このまま辞めるほうが、もっといやだ」

 鞄を取られて、バイトも辞めて、奪われっぱなしじゃないか。このまま自分がどんどん臆病な人間になってしまう気がして、それが怖い。立ち向かうほどの勇気は持ち合わせていないけど、でもせめてその場に留まるくらいの根性だけは持っていたいんだ。

「ごめん、にいちゃん」

 兄不孝な自分を許してくれとは言わないけれど、今はどうか見逃してほしい。

 眉間に皺を寄せたまま、兄は怖い顔をして黙り込んでしまった。他のひとたちも何も言わずにただ様子を見守っている。店内に流れる明るいBGMが、余計に沈黙を強調させていた。

 どれほど無言が続いただろうか。兄は胸倉を掴んでいた手をおもむろに下ろし、私を解放した。そして着ていたスカジャンの袖口で乱暴に顔を拭ってくれた。

「泣くな、ハナタレ」

「に、にいちゃん」

 あの、ちょっと、顔面に鼻水を広げるの、やめてくれません?

 被害が拡大していることに気づいてくれたのか、様子を見守っていたバイトのひとりがレジからティッシュを持ってきてくれた。あとなぜか店長も泣いていて、ティッシュのお世話になっていた。

 店内の張り詰めた空気はいつの間にか緩み、いつものコンビニに戻っている。

「お前はほんと、俺の思い通りにはならねえな」

 ヤンキー座りした兄が下から睨みつけてくる。どこか諦めたような響きの声に、私はどんな顔をしたらいいのか分からなかった。

「お前はもっと弱っちくていいんだぞ」

「なにそれ」

「俺の立場がねえってことだよ」

「はぁ」

 分かったように頷いて、実際にはよく分からなかった。けれど傍にいたお兄さんたちは分かったらしい。うんうん頷いていたり、「いいお兄さんじゃない」と言われたり。私の読解力が低いのだろうか、とりあえずここは空気的に理解したフリをしておこう。

 ところで警察はまだなのだろうか。店内にある時計に視線をやった直後、来店を知らせる電子音が鳴った。

 店長がいらっしゃいませと途中まで言いかけて、相手の正体に気がついた。開いた自動ドアの向こうに立っていたのは、待ちかねた警察だった。

 二人組みで入ってくると、まっすぐこちらにやってくる。その片方の人物を、私は知っていた。

「星野巡査」

「リホちゃん?」

 そういえば近くに彼が勤務する交番があったことを思い出す。

 立ち上がりかけた私だったが、それよりも先に兄が立ち上がった。そしてゆっくりと入り口のほうを振り返った。

「マキ」

 どこか呆然としたような、そんな声だった。

 不思議に思いながら、兄の体の後ろから顔を出す。キタちゃん家の道場で何度か会ったことのある星野巡査が驚いた表情で立っていた。

 やがて彼は、どこか困ったように、けれど嬉しさを滲ませて言った。

「久しぶりだな、ショータ」




 到着した警察官と一緒に、私たちはコンビニから数百メートル離れた現場に再び戻っていた。

 襲われた路上には、鞄につけていたキーホルダーが落ちていた。大好きなアニメの登場人物がちびキャラになったやつでお気に入りだったのに、今はボロボロの状態で私の手の中にある。

「じゃあ顔は見てないんだね?」

 職務中の星野巡査は、いつもの気さくな態度は見せず、真面目な表情で私のたどたどしい話を聞いてくれた。なんせ突然だったから、記憶が混乱している。鞄を持っていたのが右手だったか、左手だったか、細かいところを訊かれて何度も詰まっては考え込む私を、しかし彼は決して急かさなかった。

 もうひとりの警察官は、サラリーマンのお兄さんたちから事情を聞いていた。

 兄はあれからずっと星野巡査に背を向け、始終無言だった。

「帽子とマスクをつけてたし、あと暗かったのではっきりとは……」

 鞄を奪われないよう抵抗するのに必死で、相手の顔なんて二の次だった。着ていた服の色は黒っぽかったけど、その程度の情報は何の役にも立たないだろう。「すいません」思わず謝ると、星野巡査は気にしないでと首を振った。

「他に何か気づいたことは?」

「……いえ、」

「声とか、匂いとか、本当に些細なことでいいんだけど、ないかな?」

「すいません、ほんと、必死だったんでそこまでは」

 何か事件に巻き込まれたら、自分は颯爽と切り抜ける。そんなことを妄想したことがあるけれど、実際にはこんなものだ。

「おい、もういいだろ」

 突然、それまでずっと黙っていた兄が割り込んできた。

「いつまでやらせんだよ。こいつ、怪我してんだぞ」

 蹴られた肩は、押せば痛みがあった。膝と掌は転んだ拍子に擦りむけてヒリヒリしている。怪我といっても大したことではなかったが、これは紛れもなく他人から受けた暴力なのだと思うと、体がぶるりと震えた。

「本当はこの後、交番に来てもらって調書を取りたかったんだけど、まあ仕方ないか」

「明日、俺が連れてく。だから今日はもう帰るからな」

「分かった。じゃあここに連絡先と住所を――」

 ふたりの会話の息が妙に合っていたことには気づいていた。けれど、私は何も言わずに大人しくしていた。

 もちろん、あとで根掘り葉掘り訊いてやろうとは思っていない。訊いても兄は答えてくれなさそうだし、それよりも今は大事なことがある。

 キタちゃんから借りたBL小説どうしよう問題が。

 星野巡査によると、ひったくり犯というのは現金やクレジットカードなどをいただいたら、残りは鞄ごとポイするケースが多いのだそうだ。

 あとから落し物として届けられることもあるから、と星野巡査は慰めのつもりで言ったのかもしれないが、実際に現物を目の前に持ってこられて、「この男同士が絡み合っている小説は貴方のですね?」なんて言われた日には、交番で潔く舌を噛み切る覚悟である。

「帰るぞ、リホ」

 話は済んだのか、兄が最悪の想像をして顔色を悪くしている私の手を引いた。

 その前に、お世話になったサラリーマンのお兄さんたちに改めてお礼を言った。兄も小さく頭を下げていたのがちょっと驚きだった。でも嬉しかった。

「ショータ」

 家に向かって歩き出してすぐのことだった。

 兄は数歩歩いて立ち止まり、けれど振り返らず、背中で声を聞いた。

「俺のこと、恨んでるか?」

 言葉の意味を測りかね、思わず兄の顔を見上げた。普段どおりの表情。いや、私の手を包み込む兄のそれが、ほんのわずか、力を増した。

 星野巡査を振り返ろうとしたとき、兄は再び歩き出した。振り返るな。言葉には出さないけれど、手に篭った力がまるでそう訴えているかのようだった。

 気をつけて。

 背後から、星野巡査の声がした。

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