58、ごめんなさい
「なに彼氏でもない男とキスしてんだこのアバズレがあ!!」
タモツ渾身のケツキックを浴びて、私は文字通り飛び上がった。
人通りの絶えた住宅街に、痛みに呻く声と、虫たちの鳴き声が響き渡る。
「で、どういういきさつで岩迫とキスしたんだ」
それを聞いてから蹴ってほしかったよね!
地面を転げまわりたいほどの激痛は通り過ぎ、涙目で悪魔を見上げた。すぐに文句を言えなかったのは、痛みのせいではなく、私自身に非があったからだ。
今日一日を振り返ってみると、私の仕事ぶりは散々なものだった。
注文の聞き取りミス、おつりの渡し間違え、お皿は二枚も割った。それらすべてをカバーしてくれたのがタモツだった。ただし心配する声を掛けながらも目はまったく笑っていなかったが。
九時過ぎにバイトが終了し、タモツはいつものように自宅まで送ってくれた。その道中、ぼうっとしていたせいもある。「今日はどうしたんだよ」という問いかけに、思考力の鈍っていた私はあっさりと答えてしまったわけである。
『昨日、岩迫君にキスされちった』と。
直後のケツキックは本日の迷惑料として甘んじて受けてやった。
「コンビニ寄るぞ」
「ええ? お尻痛いし帰りたいんだけど」
「もう一発蹴られたくなかったらついてこい」
「……ウス」
24時間営業のコンビニでホットコーヒーと肉まんを奢らされた。私はホットティーを買うと、駐車場横の植え込みに座った。
「公園行こうよ。コンビニ前にたむろする不良みたいで嫌なんだけど」
「めんどくせえだろ。ここで話せ」
タモツは慣れた様子で肉まんを食べ始めた。周りの視線が気になって落ち着かない私と違って、ヤツはむしろ周囲にガンを飛ばしていた。
「じゃあ、話すけどさ」
ホットティーの缶を両手で包み込みながら話したのは、友人に嫉妬したこと、彼の恋路を邪魔したこと、そして岩迫君に殴って欲しいとお願いしたことだった。
話をしている間、タモツは一切口を挟まなかった。ときどき視線は感じたけれど、相槌もない。本当に聞いてんのか、と思って顔を向けると、タモツは目を細めて怒っているのか呆れているのか、判別しがたい表情を浮かべていた。
「キスってほっぺたかよ」
「そうだけど」
「意気地のねえヤツ」
私は大変助かりましたけども。
頬に受けた柔らかい感触を思い出し、一気に顔が熱くなった。誤魔化すようにホットティーをぐびぐび飲んでいると、タモツが言った。
「お前が悪い」
「はあ?」
「ったく、聞いててアイツが可哀相になったぜ。お前も大概、悪女だな」
「はああ?」
こいつ、やっぱり話をちゃんと聞いてなかったな。
するとタモツは心底バカにしきった顔で指を突きつけてきた。
「お前、本当に岩迫が殴ると思ってたか?」
顔は女っぽいくせに、男らしいタモツの人差し指を見て、咄嗟に反論できなかった。
「思ってなかっただろ? 自分を傷つけるわけないって、タカをくくってた。違うか?」
「それはっ、」
違わなかった。
殴るとしても、本当に弱い力でコツンとやられる程度だろうと、心のどこかでは分かっていた。
「そういうお前のズルイところを、アイツはちゃんと気づいてた。自分は『安全な男の子』だって思われてることもな。だってそうだろ? 普通は好意を示してる男の前で、女は目なんか瞑らねえよ。なにされるか分からねえからな。なのにお前は、相手が何もしないはずだとナメてかかってた」
あのときの、彼の顔がどうしても思い出せない。背後の街灯に照らされて輪郭だけが光っていた。岩迫君は、どんな表情で私を見つめていたのだろうか。
「だから岩迫はお前に教えてやったんだよ。自分は『危険な男』だってな」
俺のこと、意識してよ。
別れ際に言われた言葉の意味を、今、ようやく理解した。理解して、後悔が痛みとなって心を襲った。
私は結局、自分のことしか考えていなかったのだ。甲斐君のことで自分の醜さに傷ついたフリをして、それを岩迫君にどうにかしてもらおうとしていた。優しい彼なら私を救ってくれるんじゃないかと期待していたのだ。
それを、利用と言わず、なんと言う。
思い至った瞬間、血の気が引いた。
「でもまあ、ほっぺにキスで済んでよかったな。そんだけナメてかかってたら、乳揉まれても文句は言えねえぞ」
項垂れる私の頬に、タモツの指が突き刺さった。
ほんとコイツは顔は綺麗なのに言葉が下品だな!
「お前と違って岩迫君は紳士な子なんだよ! オッパイ揉むわけないだろうが!」
「その紳士っていう認識がナメてるってことに気づけよ。あと俺が岩迫ならお望みどおりぶん殴ってるっつーの」
たしかにタモツなら、殴ってほしいというこちらの頼みに嬉々として応えるだろう。それが分かっているだけに、岩迫君に殴れと迫った私は本当にズルかった。彼なら決して殴らないと、知っていたんだから。
「あとダチに嫉妬どーこーってやつ、あんなの当たり前だろ」
「当たり前って、」
「俺はな、他人に対して醜い感情を一切抱きませんなんて言うようなヤツは信用しねえ。どんなに仲が良くても嫉妬はある。お綺麗な感情だけで付き合えるような人間関係なんて存在しねえんだよ」
「そんなことないと思うけど……」
「ある。いいか、性善説なんざクソだと思え」
こいつが性善説という言葉を知っていたことに驚きを感じた。いやだって、ブルータスのこと知らなかったんだもの。今日の授業は現社だったのか? そこで習ったのか?
疑問を顔いっぱいに貼り付けていると、タモツは立ち上がって「帰るぞ」と歩き出した。携帯を開くと、もうすぐ十時になろうとしていた。やばい、遅くなりすぎた。
次の角を曲がれば自宅というところで、タモツは急に立ち止まった。つられて足を止めた私に、ヤツは「ようく聞けよ」と偉そうな口調で切り出した。
「岩迫がイイヤツだと思ってたら、昨日みたいに痛い目見るのはもう分かっただろ。これからはちゃんと警戒しろ。一緒に帰るな。二人きりにはなるんじゃねえ」
「お前はひとり娘を持つ心配性の親父か」
「真面目に聞け。たぶんこれから、アイツはぐいぐい迫ってくるぞ。言ったんだろ? 今度は口にするって」
「冗談かと」
「ボケナスブスが。いいか、明日からはマスクをつけて登校しろ。メシのとき以外は外すな。それか毎日納豆を食っていけ。息の臭さで萎えさせろ」
「できるか!」
私のただでさえ低い女子力を暴落させる気か。
「とにかく自衛は怠るな。そうじゃなきゃ俺が」
言いかけて、タモツは口を噤んだ。ご丁寧にも両手で口を押さえるくらいだ、よっぽど続けて言ってはいけない言葉を言おうとしたらしい。
「そういえばタモツ君」
「……なんだよ」
「私と岩迫君をくっつけるなって、誰かに言われてたんだよね?」
「……なんのことだか」
踵を返して走り去ろうとするタモツの背中はがら空きだった。逃がすか。咄嗟にしがみついて逃亡を阻止した私に焦ったヤツは、激しく抵抗した。
「黒幕は誰だ!」
「いねーよそんなもん! 離せ!」
頭を思いっきり後ろに押しやられるも負けじとしがみつく。しかしとうとう引き剥がされて地面にお尻から落下した。痛え、ケツキックの名残が。
それでも逃げようとするタモツに手を伸ばした、その瞬間。
「俺の妹になにしてやがる」
タモツが、宙を舞った。
その飛距離、二メートル。地面をゴロゴロと転がったヤツは、私の目の前で停止した。
暗闇の中で、長身の影が動く。這い蹲る私とタモツを見下ろしていたのは。
「ショ、ショータ、せんぱい、」
「誰だお前」
後輩ですよ! 二年で一番の下僕ですよ!(ただし自称)
さすがに可哀相になって、地面に転がったままのタモツの顔を覗き込んだ。
……泣いてたけど見なかったことにしよう。
「リホ」
「なに?」
「なに、じゃねえよ。遅いだろうが。今何時だと思ってんだ」
ひとり娘を持つ心配性の親父がここにもいたか。
素直に謝ると、眉間に深い皺を寄せながら「バイトなんて辞めろ」と言ってきた。辞める気はないのでスルーした。
「おいタモツ、大丈夫か?」
「ショータ先輩、先輩が、俺のこと、覚えてない、覚えてないよお……っ」
「落ち着け! キャラがブレまくってんぞ!」
よーしよしよし、大丈夫だ、顔を覚えられていないくらいなんだ、気にするな。うちの兄妹は揃いも揃ってひとの顔を覚えるのが苦手なんだ。親もそうだ。これはもう遺伝だ。逃れられない運命なんだ。だから泣くなってー。
私の適当な慰めが効いたのかどうかは知らないが、タモツはめそめそ泣きながらも起き上がった。
しかし聳えるように立ちはだかる兄の冷たい眼差しをもろに浴びると、ぴゃっ、と悲鳴を上げて私の後ろに逃げ込んでしまった。だからお前キャラが。
「そいつと一緒にいたから遅れたのか?」
「違う違う! この子はバイト先が一緒で、さっきまで悩みを相談してて! そうっ、私が引きとめたんだよ!」
嘘ではない。嘘ではないから睨むのはやめてくれ。
両手を胸の前で組んでやたらと瞬きを繰り返しながら見つめると、兄は無言で視線を逸らし「分かった」と言ってくれた。こうすれば大抵のお願いは聞いてくれるはずだという妹の助言は本当だったな。カナちゃんありがとう。
顔を背けてなにやら難しい顔をしていた兄だったが、急にこちらを向くと、背後で縮こまるタモツを尊大に見下ろした。
「おい、ガキ」
「はっ、はい」
背中にくっついたタモツが震えているのが伝わってくる。悪魔を怖がらせるとは、兄よ、相当だぞ。
「謝れ」
「え?」
「リホに謝れ」
地面に振り下ろされたことをだろうか。それよりもケツキックのほうが数段痛かったぞ。でもあれは迷惑料だし、むしろさっきの相談料をまだ払ってないし。ていうかプライドの塊ともいえるタモツが私に謝るわけ、
「ごめんなさいリホコさん!」
こいつプライドを捨てやがった……!
「ちょっ、やめろタモツ! いいから! 謝らなくてもいいから! お前これ絶対に黒歴史だぞ!」
キャラがブレまくってるどころの話じゃねえぞ。タモツというアイデンティティーが今崩壊の危機を迎えてんぞ。
土下座して謝罪するタモツをどうにか立たせようとするがびくともしない。しかも小さな声で「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい以下エンドレス」って言ってるし。怖っ。
「兄ちゃん!」
もう許してあげてと振り返ると、兄も引いた顔をしていた。「もういい」と許した途端、タモツは神様に出会ったかのような表情で兄を見上げていた。駄目だこいつ、重症だ。
「リホ、帰るぞ。こっち来い」
腕を引っ張ると、兄は腕の中に私の体をしっかりと抱き込んだ。視線はキラキラした眼差しを向けてくるタモツを最大限に警戒していた。どうやら相手を要注意人物と認識したらしい。よかったな、タモツ。
兄は私を抱えたまま全速力で走り出し、そのまま帰宅した。
おいタモツ、捨てたプライド、ちゃんと拾っとけよ。