57、至極の恋
約束のタルトは絶品だった。
親戚から送られてきたというマスカットをふんだんに乗せたそれは、ひと口齧ると瑞々しい果汁が口いっぱいに広がり、アーモンドクリームの甘さと交じり合って絶妙なハーモニーを生み出していた。
無言でぱくぱくと食べる私を横目に、甲斐君は嬉しそうに報告した。今度、愛さんと一緒にお菓子作りをするらしい。
「美味しかった。ごちそうさま」
私はこれでも自分のことを理性的な人間である自負していた。子供じみた嫉妬心とは無縁だと、そう信じていたのだ。
けれども実際の私ときたら、勝手に同類だと思っていた友人に醜い感情を抱き、挙句の果てには足を引っ張り、地味なラッピングを押し付けるような女だった。
甲斐君の恋が上手くいかなければいい。
私は間違いなく、そう思っていた。
部室の鍵を閉めて廊下に出ると、外は既に日が沈み、すっかり暗くなっていた。他の部員は早々に帰宅していたので、鍵を返すためにひとり職員室に向かう。運動部はまだ部活中らしく、賑やかな声がグラウンドのほうから聞こえた。
下駄箱から靴を出して片足を突っ込むと、違和感を感じた。脱いで逆さまにした靴の中から、ころんと石が出てくる。
「何してんだ、吉村」
「甲斐君」
帰宅部の彼が、こんなに遅くまで学校にいるのは珍しい。特に愛さんと親しくなってからは、飛び出すようにして教室からいなくなっていたというのに。
「なんでもない。甲斐君こそどうしたの? 愛さんとは?」
「お前なあ、毎日会うわけないだろ」
「うまくいってるの?」
「うまくってなんだよ。普通に友達だし、お前が考えてるようなことはないっつーの」
スニーカーを取り出した甲斐君を横目に見ながら、私もローファーをはいて外に出た。
「暗くなるの早くなったなあ」
「ちょっと前まで夏だったのにね」
なんとなく二人並んで校門を目指す。見上げた空にはちらほらと星が輝いていた。
「もうすぐ修学旅行だよな」
「うん。どこ行くんだろう」
「北海道か沖縄だろ? 俺は北海道希望だな」
「私は沖縄。北海道なんて寒いよ」
「北海の幸を食いたくないっていうのか」
「う! うーん、でも、沖縄料理にも興味あるし」
「まあ俺も、食い物が美味けりゃどっちでもいーんだけど」
甲斐君は自転車通学なので、途中、駐輪場に寄った。そこで別れようかと思った私に、「吉村」と彼が引き止める。
「ごめん」
「なにが?」
足を止めた私を見つめたまま、甲斐君は微動だにしなかった。暗かったせいで彼の表情が分からない。近づこうと一歩足を踏み出したとき。
「せっかく協力してくれたのに、駄目だった」
彼の台詞が、すぐには理解できなかった。
何の反応も示さない私に、甲斐君が言う。
「違うって否定してたけど、俺、愛さんのことが好きだった」
「……そんなの、知ってるよ」
どうにか搾り出した声は、情けないくらい掠れていた。
あれで隠していたつもりなんて笑っちゃうよ。
軽く返そうとして、できなかった。自分でも分かるくらいに表情が強張っている。私が黙っている間に、甲斐君は自転車の鍵を外した。そして目線を下に落としたまま、淡々と教えてくれた。
「愛さん、大学卒業したら結婚するんだって」
「けっこん……」
「ヤバイよなあ、俺。なに勝手に浮かれてんだって感じ。ほんとバカ」
「バカなんかじゃないよ!」
思った以上に大きな声が出た。びっくりした甲斐君が顔を上げた。
「なんでバカなの。全然バカじゃないじゃん」
結婚のことを、いつ知ったんだろう。焼き菓子を渡してから、一週間以上がたっている。その間、私は甲斐君の話を聞こうとしなかった。やんわりと避けて、耳を塞いでいた。
「告白、しないの?」
「なんで。できるわけないだろ」
「好きって言うくらい、いいじゃん。言いなよ、甲斐君」
答えは決まっているとはいえ、想いを告げちゃいけないなんてことはない筈だ。
甲斐君の心をこんなにも持っていったんだから、気持ちくらい聞いてあげてよ、愛さん。
そのとき、駐輪場に備え付けられた電灯が点滅した。何度かカチカチと音を立てて、パッと明るくなる。
ようやく見えた甲斐君の顔には、しっかりとした笑みが浮かんでいた。
「俺はさ、将来、パティシエになりたい」
「……なんでいきなり夢を語ってんの」
「まあいいから聞けよ。俺が前に言ったこと、覚えてるか? 料理に大事なのは、食べたひとが幸せを感じるかどうかだって」
「覚えてる、けど」
「じゃあ分かるだろ? もう腹いっぱいになって幸せな愛さんに、『こっちも美味いから食べてほしい』なんて俺が言えると思うか?」
「……でも、でもさ、このまま気持ちを伝えられないなんて、甲斐君が可哀相だよ」
この大嘘つき。
甲斐君の足を引っ張ったくせに。どの口でそんな綺麗ごとを言うんだ。
よかったじゃないか、甲斐君の恋が破綻して。可哀相だったねと言えたこの瞬間が、最高に嬉しいくせに。
私たちには恋なんてまだ早いんだよ。
本当はそう思ってるんだろ、リホコ。
「おい、なんでお前が泣いてんだよ」
「泣いてねーし。これは、」
「鼻水とか言うなよ」
先に言われた。
慌てて俯いて、袖で涙を拭った。下を向いた視界に、甲斐君の自転車の車輪が映る。すぐ上から、彼の静かな声が降ってきた。
「俺、可哀相じゃないぞ」
返事のない私に言ってるんじゃない。自分に言い聞かせるようにして、甲斐君はなおも言った。
「本当に好きだったから、俺は可哀相なんかじゃない」
気持ちも伝えられなかったのに?
なんにも報われてないじゃん。地面に落ちた甲斐君の影を睨みつけて、そう思った。
「吉村に相談したり、一緒にお菓子作りしたりさ。愛さんを好きだった間、ずっと楽しかった。不安になったり緊張したりもしたけど、振り返ったら、こう、なんつーの」
「なに」
「素敵な時間だったよ」
直後にべしっと頭を叩かれたので、咄嗟に顔を上げると、真っ赤な顔をした甲斐君と目があった。
「恥ずかしがるくらいなら言わないでよ」
「うるせー!」
「素敵な時間だったよ……」
「真似すんな!」
耳まで赤く染めた甲斐君は喚きながら自転車に跨り、全速力で去っていった。途中、「敷地内で自転車に乗るんじゃない!」と先生に怒られていたけれど。
静かになった駐輪場から出ると、背後から声を掛けられた。
「吉村? まだ帰ってなかったのか」
振り返った先にいたのは、ユニフォーム姿の岩迫君だった。校門のほうを見て、「あれって甲斐だよな?」と訊いてくる。
「うん。ちょっと話してた」
歩き出すと、岩迫君もついてきた。空を見上げて、「暗くなるの早くなったな」とさっきの甲斐君と同じことを言っている。
「一緒に帰っていい?」
「……うん」
二人並んで校門を出ると、左に折れて歩き続けた。大通りを過ぎてからは行き交う人も少なくなって、やがて途絶える。だからだろう、私はぽつりと言った。
「岩迫君」
「なに?」
「私を、殴ってつかーさい」
「うん。……ええ!!」
悲鳴じみた声を上げて立ち止まった岩迫君に対峙すると、目を見開いて固まる彼にじりじりと近寄った。
「よっ、吉村!? なに言ってんだよ!」
「いいから殴って。いっそ、そのラケットで!」
「できるわけないだろ!」
いいや、やってもらわなくては困る。
私は、私は最低なヤツだ。
何も分かっていなかった。甲斐君を素直に応援するどころか妬み、可哀相だと決め付けて、安い涙まで流した。友人としてやってはいけないことをピンポイントでやり尽くした私は、痛い目を見るべきなのだ。
「自分が、こんなにも最悪な人間だとは思ってなかった」
メグっぺのことだってそうだ。彼女には彼女の世界があった。漫研にいるときだけが、メグっぺじゃない。嫉妬した。私が知らないものを、後輩である彼女は知っている。
「意味が分からないっ、吉村のどこが最悪なんだよ」
「女は表には出さないだけで醜い部分を持ってるの! さあ殴って! さっき『うん』って言ったでしょ!」
よそ様のお宅の外壁に岩迫君を追い込むと、さあ殴れと迫った。ここで駄目なら帰宅してから兄に頼んでもいい。
私はどうしても傷つきたかった。それが少しでも償いになると信じていたから。
「わ、分かった……」
搾り出すような岩迫君の声を合図に、ぎゅっと目を瞑った。
さあ、来い。
全身を硬くして、衝撃に身構える。
ふにっ。
……ん?
なんだ今の軟弱な打撃音は。
もっとこう、『ドン!』とか『メメタァ』とかを予想していたのに、頬に『ふにっ』だと。
「岩迫、君……?」
恐る恐る目を開けると、至近距離に彼の顔があった。
「うわああああああ!!」
叫び声を上げて、道路の反対側にある外壁まで後ずさった。ゴンっ、と頭を打って眼鏡がずれる。痛い。私が欲しかったのはこういう痛みだ。
驚愕の表情を浮かべる私に向かって、岩迫君がゆっくりと近づいてくる。正直、恐怖を感じた。
「わ、私、殴ってって、言ったんだけどっ、」
「殴れってことは、何されてもいいってことだろ? だからキスしていいかなって」
わけが分からん。その発想は一体どこから来たのだ。
あれか、ニュートンが木から落ちる林檎を見て万有引力の法則を見出したように、殴ってほしいというお願いからキスしてもいいという論理の飛躍に至ったと。もしや岩迫君は天才なのだろうか。
って、んなわけあるか! 落ち着け私!
「す、ストップ! 来ないで!」
「なんで? 怒ってる?」
すぐ目の前で、岩迫君は止まった。街灯の光を背後から浴びて、顔が翳る。優しい彼の顔が、見えなくなる。
「勝手にして、ごめん」
謝るくらいならしないでよ。
文句のひとつも言いたかったけれど、彼の謝罪を受け入れることにした。笑って済ませてなかったことにしたかった。安全な家に帰りたかった。それなのに。
「でも今度は、口にするから」
彼はまったく反省していなかった。
口→頬に変更。いきなり唇はいかんよな、ということで。