55、おいてかないで
今持てる自分のすべてを出せた自信がある。何度も何度も繰り返した練習のどれよりもうまくできたという手ごたえがあった。
心臓というものは、速くなりすぎるとぐうっと膨らんで胸を圧迫する感覚がするものなのだと初めて知った。
その心臓も、今では穏やかだ。少なくとも、今だけは。
「終わったみたいだぞ」
背後から肩を叩かれても、振り返る気にはなれなかった。パイプ椅子に座ったまま、ぶるっと震える。それだけだ。
落ち着いていたと思った心臓が、また鼓動を速くする。
名前を呼ばれてステージに向かう自分の足が、自分のものではないようだ。指先の感覚がだんだんと遠のいていく。思わず隣に立つ彼の腕を掴んでしまった。
『今年の優勝は――』
十年。
今年が、最後なんだ。だからお願い。
ぎゅっと目を瞑って、耳が拾う音だけに集中した。
そして。
『――春日坂クレイジーソウルズ!』
隣では、甲斐君が泣いていた。
「今日ほどお前をバカだと思ったことはない……」
甲斐君が、組んだ手に額を乗せて項垂れていた。
ここは肌を焦がすほど強いスポットライトの当たるステージではなく、春日坂高校二年六組の教室である。
「失礼な! あのキヨシ師匠が私たちの漫才を見て『ヤスシ君にも見せてやりたかったわ~』って泣いたんだよ!?」
「夢の中でだろ。ていうか、なんで俺がお前と漫才コンビ結成してんだよ」
「普段から私のボケに対していちいちツッコミしてくれるからじゃない?」
無防備にさらされた甲斐君のつむじを眺めながら、私は今朝見た夢の内容を反芻した。
コンビ結成十年目にしての栄光。グランプリの規定により、結成から十年以上たったコンビは出場資格がない。崖っぷちに立っていた私たち『春日坂クレイジーソウルズ』は、優勝を逃したらお笑い界から足を洗おうとさえ考えていたのだ。
「コンビ名がまたダサすぎる……なんだよ春日坂クレイジーソウルズって」
「お笑いに対して俺たちの魂はどこまでもクレイジーでいようぜって、甲斐君がつけたんでしょ?」
「知らねえよ! なに夢の中の出来事をさも現実のことのように語ってんだ! なんだよクレイジーソウルズって! 夢の中の俺のセンスはどうなってんだ!?」
さすがは『春日坂クレイジーソウルズ』のツッコミ担当。てっぺん獲っただけのことはあるな。
「まあでも、グランプリ獲ったからって気を抜いてはいけないよね。本当の試練はその先にあるよ。フリートークで面白くなきゃ、お笑い界では生きていけないんだからね」
「もういい。俺は寝るから話しかけるな」
あと十分で一時限目の授業始まるというのに、甲斐君は机に突っ伏して眠ってしまった。たぶん本気で寝てはいないんだろう。私との対話を拒否するとは、ツッコミ役としてあるまじき態度だぞ。
四時限目の授業が終わると、隣の席の岩迫君はクラスの男子と一緒に食堂へと行った。私はいつものメンバー、ちよちゃんと村っちとお弁当を食べるべく、お弁当を取り出した。
立ち上がろうとした私の背中を、なにか尖ったものがつついてきた。
「なに、甲斐君」
振り返ると、難しい表情を浮かべる甲斐君と目が合った。
「ちょっと話があるんだけど、お前んとこの部室に行っていいか?」
「話……春日坂クレイジーソウルズのこと?」
「違う」
甲斐君の目が冷たい。そんなにこのコンビ名がお気に召さないのだろうか。まあたしかにコンビ名としては長すぎるよね。お茶の間の皆さんに覚えていただくには、もうちょっと短くてもいいかもしれないな。
「ここじゃ話しにくいんだけど」
「分かった。ちょっと待ってて」
ちよちゃんと村っちに今日は部室で食べることを伝えると、甲斐君を連れて旧校舎に向かった。
話しにくい話って、一体なんだろう。やっぱり春日坂クレイジーソウルズのことか? はっ! もしかして甲斐君はコンビではなくピンでいきたいんだろうか。お笑い界という荒波に、ひとりで挑むつもりか?
漫研の部室に着くまで、私の勝手な妄想は続いた。
「甲斐君、お茶いる?」
都合の良いことに、部室は無人だった。甲斐君を先に座らせると、私は鍋に水を注いで火にかけた。ティーバックに入った緑茶を取り出しながら、部室をきょろきょろ見渡している甲斐君を振り返る。
「おー、いるいる。漫研の部室って、便利だなー」
「そういえば甲斐君って帰宅部だっけ?」
「料理研究部に入ってたぞ。一年のときにやめちまったけどな」
「なんで?」
部室にひとつしかない机で、甲斐君と向かい合って座る。
「俺以外、女子しかいなかったから。居心地悪くて」
「なるほど」
うちの五味は居心地悪いどころか馴染んでるけどな。ヤツは例外だと思う。普通の男子なら、女子だらけの空間には放り込まれたくないだろう。
「あと部長と喧嘩したから、かな」
お弁当を入れている巾着のひもを解いていた私は、手を止めて甲斐君を凝視した。彼はすでにお弁当を食べ始めていた。
「自慢じゃねーけど、俺、けっこう料理上手いんだよ」
「文化祭のときに焼いてくれたケーキ、たしかに美味しかったね」
「部長は、それが気に食わなかったみたい。男のくせに、料理上手くてどうすんの、って言われた」
「甲斐君、部長より上手だったんだね」
「まあな」
今食べているお弁当は、もしかして甲斐君の手作りだろうか。昨日の夕食で出た肉巻きと、ちくわとレンコンの炒め物、全体的に茶色な私のお弁当と違って、甲斐君のお弁当は緑、赤、黄のおかずが入り、彩りに気をつかっているのが分かる。
「男が料理できてなにが悪いんだよ。誰がつくったかなんて、そんなに大事じゃないだろ。大事なのは、料理を食べたひとが幸せを感じるかどうかだってのに」
そのときのことを思い出しているのか、甲斐君はいつになく険しい顔で語気を強めていた。けれど目を丸くしている私に気がつくと、途端にバツの悪い表情を浮かべた。
「悪ぃ。なんか熱く語っちゃって、格好悪いな、俺」
「なんで格好悪いの? いいじゃん、熱く語ったってさ。私も今ハマってるアニメについて熱く語っていい?」
「それはいつかな」
はい出た、いつか。二度とやってこない機会。大人のような口をききやがって、甲斐君め。
「早くメシ食べろよ。あとお湯、沸いてるぞ」
「それで、話ってなんなの?」
お弁当を食べ、お茶も飲み、五時限目が始まるまでまだ三十分以上もある。
甲斐君は最初、余裕を保った態度でいたのだが、今は緊張しているのか耳がわずかに赤い。机の上で重ねられた両手は、さっきから右手が上になったり左手が上になったりと、せわしないことこの上ない。
たっぷり間を取ってからようやく喋りだした甲斐君だったが、その第一声は失礼極まりないものだった。
「……吉村って、女だよな?」
「甲斐君、まだお湯残ってるんだけど、ぶっかけていい?」
「待て! シャレになんねーぞ!」
「冗談だよ。で、私に喧嘩売りたいがために部室まで来たのか、甲斐君よォ」
「目が据わってるって! 仕方ねえだろ、お前、女子力低いし!」
女子力。
誰が最初に言い出したのかは知らないが、迷惑な単語である。世の中には女子力とやらを高めようにも高められない女だっているんだからな。あと女子力が低いからって、女としての価値も低いと思われるのは心外だった。
「女子力で女を測るんじゃねえよ! そういう甲斐君こそ男子力あんのかよ!?」
「なんだよ、男子力って」
「野生の熊を狩ったり、カジキ一本釣りしたり?」
「ハードル高すぎるだろ」
とりあえず甲斐君には謝ってもらった。私は紛うことなく女子である、と宣誓もしてもらった。
「それで、私が女だと分かった上で、なにを話したいの?」
甲斐君の目が泳いだ。もう十月だぞ、スイミングをするには寒いだろうが。とっとと話せ。
「……女が、プレゼントされて嬉しいものが知りたい」
ぽっ、と頬を染めた甲斐君を見て、今度は私の目が泳ぎだした。その泳ぎっぷりは、苦手な背泳ぎ並に左右にぶれた。
プ、プレゼント、だと? それも女に? 甲斐君が?
「い、言っとくけど、別に好きとかそういうのじゃねーからな!」
「説得力がまるでないよ、甲斐君。それとちょっとは落ち着きなよ、熱湯飲む?」
「お前も落ち着けよ。恐ろしいこと言ってるぞ」
そうだ、落ち着け、ビークールだ。
これはつまり、恋の相談である。甲斐君は否定しているが、間違いない。
「その子って、甲斐君とはどういう関係なの?」
「うちの、料理教室に通ってるひとだよ」
訊けば、甲斐君のお母さんは、料理教室の講師をしているという。そこに通っている生徒が、甲斐君がプレゼントを渡したい相手らしい。
「そのひとって、年上? 高校生が料理教室ってあんまり聞かないし」
「大学二年って聞いてる」
「女子大生か。甲斐君、やりますな」
「だから違うって! お礼だよ、お礼!」
甲斐君が言うには、一週間前のこと。図書館で彼女と偶然出会ったらしい。その時点で、二人は顔見知り程度には親しかったという。
「中間試験の勉強してたら、話しかけられてさ。向こうは料理本をいっぱい抱えてて、ああ、本当に料理好きなんだなあって思って」
緊張で噛み締められていた甲斐君の口元が、今は自然と綻んでいる。ただの知り合いに向けるにしては、愛しさが溢れすぎている気がする。
「もうすぐテストだって話したら、英語教えてもらって」
「英語、得意な人なんだ」
「うん。高校のときにイギリスに留学してたんだって。発音がすっげー綺麗なんだ」
甲斐君があまりにも嬉しそうに話すから、私はどういう顔をしていいか戸惑ってしまった。なんだろう、私、今、すごく恥ずかしい。相手が甲斐君だからだろうか。彼の放つ好き好きオーラに、ちょっと耐えられない。
岩迫君が向けてくるそれとは違う。対象が私の場合は、焦って真っ先に防衛機能が働くけれど、甲斐君みたいにここにはいない誰かを想う姿というのは、なんでこうも眩しいものなんだろうか。
「教え方も上手かったから、この間の中間テストは今までで一番点数が高かったんだ」
「だから、そのお礼がしたいの?」
「うん。あー……もしかして、それでお礼とか渡したら、引くかな?」
「そんなに高くないものならいいと思うよ」
「そ、そっか! いや、ほんと、お前に相談してよかった。ありがとな、吉村」
ほっとして笑う甲斐君に、私も笑みを返した。引き攣らないように、精一杯、頬の筋肉を動かして。
私は心のどこかで、彼も自分と一緒なんじゃないかと思っていた。
他人に対して、特別な感情は抱かないんじゃないかって。好きという気持ちを、まだ知らないんじゃないかって。それなのに。
「こちらこそ、どういたしまして」
甲斐君が、遠い。