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53、新しい靴を履かなくちゃ

 あれほど恐ろしかったブルータス。

 天使の顔して悪魔だったブルータス。

 恐怖の象徴だった、ブルータス。

「ショータ先輩ってなんであんなに格好良いんだろうな……」

 そして、グラスについた水滴をふき取りながら、恋する乙女のごとく呟くブルータス。

 ああ、ブルータスよ。こんなこと言っちゃダメだって分かってるけど、言わせてくれ。

「もうほんと気持ち悪い! ごめん! 気持ち悪い!」

「ああ? 喧嘩売ってんなら買うぞ、ブスメガネ」

 バイト先のレストランは十分前に閉店した。今日は平日だったので目の回るような忙しさではなかったが、今、精神的な疲労が私を襲っている。

 原因は言わずもがな、ブルータスである。

 三度の飯より兄が好き。二言目にはショータ先輩、ショータ先輩。ファービーだってもっと別の言葉を喋るぞ。

 かつて恐怖そのものであったヤツへの評価は今やリーマンショック並の大暴落を引き起こし、ただの変態ストーカーへと成り下がっていた。あんなに怖がってたのがアホらしくなってくる。

「そういうのは家でやってよ。まだ仕事中なんですけど?」

「俺がなに言おうが俺の勝手だ」

「もし知らなかったら申し訳ないんだけど……世の中はお前を中心にして回っちゃいねえんだよ」

「そんくらい知ってる。ショータ先輩を中心にして回ってんだよな」

 ヤツが本気で言っていないことを切に願うばかりである。

 毒を飛ばしあいながらグラスを拭き終わると、ゴミ出しに出ていたみゆきさんが戻ってきた。

「今日はごくろうさま。来月のシフト表、ここに貼っておくから確認しておいてね」

「はい。おつかれさまです」

 ブルータスは人当たりのいい笑顔をみゆきさんに向けた。っけ! 猫かぶりめ。

 そうやって人によって態度変えてたらいつか痛い目に合うからな。社会はお前が思ってるほど甘くはないんだよ!

 威勢のいい台詞を声には出さずに吐き出したところで、みゆきさんと目が合って微笑まれた。嫌な予感がした。

「リホちゃん。今度のお休み、シフトいれてなかったけど、どこか行くの?」

「ああ、はい。友達と映画を観に行くんです」

「それって男の子?」

「おおお女の子ですよ!」

 失敗した。

 みゆきさんの笑みがますます深まっている。コイバナしたがってる女子高生の目になっているっ。

 その隣ではブルータスが「彼氏? お前が? なんの冗談だよ(笑)」と言わんばかりの嘲笑を浮かべていた。てめーあとで覚えとけよ。

 さらに聞き出そうとみゆきさんが身を乗り出したそのとき、店の奥から彼女を呼ぶオーナーの声がした。助かった。




 おろしたての靴が、歩くたびに肌を擦ってちょっと痛い。

 バンソウコウを貼っておくべきだったかと思いながら、痛みを我慢して駅のホームに降り立った。

 待ち合わせ場所は、改札を出てからすぐのところに設置された大型のディスプレイ前で、お昼ということもあって人でごった返していた。相手を探して誰もがスマホや携帯片手にきょろきょろしている。

 約束した時間は午後一時。岩迫君の所属するテニス部が十二時に終わるそうだけど、学校からここまで来るのに一時間ではギリギリだった。ゆっくりでいいよとメールで伝えたら、「ちょうどに着きそう」という返信があった。

 改札が見渡せる場所に立つと、片方の足を浮かせて踝に触った。やっぱりヒリヒリする。新しい靴にするといつもこれだ。痛くならない履きなれた靴にしようとしたけれど、カナに服と合わないと却下されてしまった。オシャレには痛みが伴うものなのだと知ったのは最近のことだ。

 待ち合わせ場所の目印となったディスプレイは、先ほどから宣伝映像を繰り返し映し出している。今話題の映画も大音響とともに映し出されて、そういえば今日はなんの映画を観るのかまだ知らされてなかったことを思い出した。

 もしかして先週封切されたばかりの劇場版アニメだろうか! ……いやまさかな。そうだとしたらかなり嬉しいけど岩迫君があの深夜アニメを知っているとは思えない。劇場版が発表されたときは一部の人間の間では激震が走ったほどなのだが、まあ、知らないよなー。

 繰り返される映像にぼんやり見入っていると、目の前の大型ディスプレイが時計に切り替わり、午後一時を知らせた。同時に背後から肩をトントンと叩かれる。

「吉村!」

 ぶんぶんと手を振る岩迫君が、正面から駆け足でやってくる。

 そう、後ろじゃなくて、正面から。

「ごめんっ、待たせたよな?」

 手を合わせて謝る岩迫君の目が、私の背後に移動して不思議そうに瞬いた。

 後ろを振り向きたくない。強烈にそう思った私だったが、無情にもヤツは親しげに話しかけてきた。

「偶然だね、リホコちゃん」

 なにがリホコちゃんじゃ。

 思わず吐き出しそうになった罵倒をぐっと飲み込んだせいで喉から変な音がした。

「吉村、知り合い?」

「そうなんです。バイト先が同じで。ね? リホコちゃん」

 やめろ、鳥肌が立つ。お前、一体なにが目的でここにいるんだ。

 偶然のはずがなかった。恨みがましく睨みつけると、ヤツは「なあに?」と首を傾げて見つめ返してくる。可愛い子ぶってんじゃねえ。

「ちょっと、来て」

 岩迫君に断ってから、ブルータスを離れたところまで引っ張っていった。

「なに考えてんだおめーは」

「ああ? だから偶然だっつってんだろ」

「嘘つけ! なんで私がここに来ること知ってた? どこから尾けてた? あん?」

「グーゼン、グーゼン」

 綺麗な顔で下品に笑うという器用な真似をするブルータスに掴みかかろうとした私を止めたのは、踝の痛みだった。

 そうだ、今の私はひとりじゃないんだった。岩迫君と一緒なんだ、彼に迷惑はかけられない。

 中途半端に上がった手を下ろし、激昂しかけた気持ちを落ち着ける。ここで怒ったらヤツの思うつぼだ。

「……偶然ならそっちも用事があるんでしょ。私はもう行くから、じゃあな」

「おい待て。アレ、本当にお前の男か?」

「違うっつーの。友達だよ」

「ふうん」

 何か言いたいことがあるらしいブルータスを置いて、岩迫君のところへと戻ろうとした。

「俺も行く」

「……どこに」

 聞かなくても分かっていたが、一縷の望みを込めて私は聞き返していた。世の中には奇跡という現象があるらしい。人生八十年、一回くらい起こってもいいと思う。特に今。

「俺もお前らと、一緒に行く」

 奇跡は起きなかった。

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