52、住宅街の中心で愛を叫んで近所迷惑
バスケ部だろうか、体格のいい男子の群れが正門を走り抜けていく。
静かになった正門あたりを見下ろしながら、教室のベランダでかれこれ十分以上はたそがれていた。あと五分もしないうちにあそこを通らないと、バイトの時間に間に合わない。
分かっているのに体は中々動かなくて、ベランダの柵にもたれかかり、私の心は本格的にここに居座ろうと考えている。
今の心境を例えるならば、マラソン大会当日の朝に似ていた。
「吉村? まだ帰ってなかったのか?」
振り返ると、部活に行ったはずの岩迫君が立っていた。
「岩迫君こそどうしたの?」
「忘れもの。このプリント、明日提出だろ」
ひらりと見せたのは宿題で出された化学のプリントだった。それを小さく折りたたんでジャージのポケットに入れると、彼は隣に並んだ。
「今日はバイトじゃなかった?」
「うん。そうなんだけどね」
頬杖をついて、遠くに視線を投げる。続く言葉が見つからない。適当なことを言って誤魔化さないとと思うのに、何も出てこない。案の定、私の様子を変に思った岩迫君が、横から顔を覗き込んできた。
「元気ない。悩みごと?」
バイト先に、嫌なヤツがいるんだよ。
「ううん? 別に」
そいつは兄ちゃん目的に近づいてきて、私をブスって言ったんだ。すごく怖かった。すごく傷ついた。もう二度と会いたくないと思ってた。それなのに。
「ちょっとたそがれてただけ。女にはね、そういうときがあるのだよ」
「ふうん」
あ、納得してないな。
でも今は何も訊かないでほしい。視線に意思をこめて見つめ返すと、岩迫君はそれ以上は何も訊いてはこなかった。
沈黙が続いた。だんだんと近づいてくる野太い声は、さっき出て行った運動部だろう。元気だなあ。その元気を少し私に分けてほしい。そうしたらバイトに行ける気がするんだけど。
「吉村、またデートしよう」
正門の前を、集団が走り抜けていく。彼らの姿を呆然と見送りながら、じょじょに隣へと視線を移動した。
「元気がないときは、デートが一番だ」
岩迫君が真面目な顔をして間違ったことを言っている。いや、間違ってはいないのかもしれないけど、え、そうなの? 世間では元気がないときはデートするもんなの? 岩迫君があまりにも濁りのない眼をして言うものだから、私は信じかけてしまう。
「今度はどこ行きたい?」
「わ、わたしたち、お付き合い、してませんよね?」
「してないけど、デートはできるだろ。俺はしたい」
はいきた、岩迫君の攻めモード!
男の子って怖いわー。なんか急に変わるんだもの。
赤くなった顔で、岩迫君とは反対方向に一歩ずれた。相変わらずの反応に、彼は仕方ないなあとでも言うかのような表情を浮かべた。お子様で、すまん。
「次の日曜日、午後から部活がないんだ。前みたいに遠くには行けないけど、映画くらいなら観れるかなって」
「映画、っすか」
「そ。なにか観たいのある?」
言えない。アニメの劇場版が観たいだなんて言えない……!
そのあとメイトに繰り出してキャラソン視聴したいとか言えやしない……!
「俺が決めていい?」
「お願いします」
私の謎の葛藤を読み取ったのか、岩迫君が気をつかってくれた。オタクで、すまん。
ていうかデート了承しちゃってるじゃん。ほんと私って押しに弱いな!
またまた恥ずかしくなって、私は無言で距離を空けた。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
レジで会計を済ませた客に、ブルータスは輝くような笑みを向けた。二人組みのおばさまたちは、名残惜しそうにして店を後にした。帰り際に聴こえた「また来ましょうねっ」という言葉はおそらく現実になることだろう。
空席になったテーブルのグラスを片付けて綺麗に拭くと、次の客が入ってくる。
「リホちゃん、君に会いに来たぜ」
倉崎さんだった。
席に案内しようとするブルータスを完全無視! まっすぐ私のところにやってくると、手を握って口説いてくる。今日もチャラい……チャラいが、後ろのほうでびっくりして固まっているブルータスが見れたからよし!
「いらっしゃいませ。いつものにしますか?」
「ああ。いつもの君をよろしく」
無駄にキリっとした顔に苦笑を返し、オーダーを厨房に持っていく。お冷を用意してテーブルに戻ると、倉崎さんが頬杖をついてブルータスを睨みつけていた。
「お冷どうぞ」
「新しいのが入ったんだな」
「ああ、はい」
同じように彼を見ると、どうしても顔が強張るのが分かった。
「最近は、ああいうのがモテるのかねえ」
「さあ、どうなんでしょう」
「俺の若いころはなあ、ああいうなよっちいのよりも、こういかにも男ってのがモテたんだよ。なんだあの細い眉毛は」
私の視線は憤慨している倉崎さんの眉毛にいった。太い。毛虫が二匹乗ってるんじゃないかってくらい、太かった。
「リホちゃんは、ああいうのが好きとか言わないよな?」
「まさか」
それだけはありえないだろう。たとえ大好きなアニメの限定DVDボックスをやると言われてもありえ……いやいや、ありえないありえない。なに揺らいでんだ私は。
顔はまあ、最高に綺麗なのは認めよう。店でバイトをしなくても、モデルで大金を稼げそうである。
でも私は知っている。あいつがどれだけ凶悪で冷酷で変態であるのかを。
あんな綺麗な顔をしているけど、心の中では「ショータ先輩のパンツ食べたい」とか考えているに違いない。
そうだ、うちの兄ちゃんの脱ぎたてのボクサーパンツと引き換えにバイトを辞めてくれないだろうか。
ブルータス追放計画を考えているうちに、閉店時間を迎えた。レジの清算を済ませて、売り上げのレシートをみゆきさんに渡す。ちらりと見た売り上げ金額は、ブルータスが入ってきたときから明らかに増えていた。
悔しいが、私よりも確実にヤツのほうが店に貢献している。それも客寄せだけではなく、仕事の面でも私よりブルータスのほうが優秀なのは明らかだった。
対抗心を燃やしながら店内の清掃を終えると、あとはもう帰るばかりとなった。制服に着替えた私は、オーナー夫婦に挨拶してから店を出ようとした。
「ちょっと待って、リホちゃん」
「どうしたんですか?」
みゆきさんの声で振り返ると、店から出てくるブルータスが見えた。佐倉木高校の学ランに着替えたヤツがまっすぐこちらに向かってくる。げっ、早く帰りたい。
「ユタカ君、それじゃあリホちゃんのこと、お願いね」
「はい。行こう、吉村さん」
事態を飲み込めない私の背中に手を添えると、ブルータスは歩き出そうとした。手を振るみゆきさんに同じく手を振り返す。
「いやいやいやっ、一体これどういうことですか!」
あっぶねえ、流されるところだった。ささっとブルータスから距離をとり、みゆきさんに詰め寄った。
「シフトが一緒のときは、これからはユタカ君が家まで送ってくれるんですって。女の子ひとりじゃたしかに危ないし、甘えときなさい」
「ひとりで大丈夫ですよ!」
「でも、この付近でひったくりがあったのよ。せめて犯人が捕まるまで送ってもらったほうがいいわ」
「こんな見るからにお金を持ってなさそうな女子高生を襲うヤツなんかいませんよ!」
「いや、油断しちゃいけない。ひったくりする連中は、まずか弱い老人や女性を狙うんだ。お金を持ってそうだとかは、あまり関係ないんだよ」
元警察官の庄司さんが真剣な顔で諭してくる。オーナー夫婦の言葉からは本気で私を心配している気持ちが伝わってきた。それが分かっていて断ることは、もちろんできなかった。
街灯の下を歩く私たちは、終始無言だった。
意外だったのは、ブルータスが本当に私を家まで送る気でいることだった。オーナー夫婦の目がなくなったらすぐさま「誰がお前みたいなブスを送ってやるかよバーカ!」と言い放って巣に帰るかと思っていたのに。
はっ、待てよ。家にいる兄ちゃん目当てか。そうか、そうだな、それしかない。私を送る名目で、兄ちゃんに近づこうって魂胆だな。そのために同じバイト先にまで潜入してくるとはある意味あっぱれなヤツよ。
って、それストーカーじゃねえか! まだ諦めてなかったのかお前は! いい加減にしろ、兄ちゃんのほっかほっかのパンツやるからもう二度と私の目の前に現れるな!
……と、言ってやりたいのは山々なのだが、二人きりでそんな調子に乗った罵詈雑言を吐き出そうものなら、私は確実に葬られるだろう。遊園地では周りの目が合ったが、人通りの少ない路地では自殺行為である。
隣に並ぶのすら警戒して、ブルータスの後ろを歩く私は、ヤツが何らかのアクションを起こそうものなら即座に逃げられる準備を整えていた。
「なあ……おい、待て。なんで逃げんだよ」
最初の『な』の部分でダッシュをきった自分を褒めてやりたい。たとえ二秒で捕まえられたとしても!
「ひいっ、離せ! 誰かああああ! 助けもごごっ」
「うるせえ、黙れ。近所迷惑だろうが」
口を塞がれて羽交い絞めにされた
はい、終わった。ジ・エンドです。みんなっ、来週も見てくれよな!
「うー! うー!」
「静かにしろよ。何がしたいんだよ、お前は」
それはこっちの台詞だ! いててっ、おさげ引っ張んな! 取れるだろ!
「早く帰るぞ。騒がねえんなら手を離してやるけど、騒ぐんならこのまま髪の毛掴んで引きずってく。どうする?」
ハゲたくなかったので、大人しくすることにした。しかしヤツの手は私が着る制服の首の後ろを掴んでいた。逃げ出さないためらしいが、乱暴すぎて納得がいかん。
「オーナーたちにお前の所業をちくってやるからな」
「っへ、やってみろよ。悪者になんのはお前のほうだ」
悔しいが、ヤツの言うとおりだった。
あまりにも無力な自分に、項垂れずにはいられなかった。が、すぐに「前見て歩けよブス」と首根っこを引っ張り上げられ、私には傷心を癒す時間すら与えられることはなかった。
「なあ、ブス」
「なんだよ、ブルータス」
「そのブルータスってのやめろ。プロレスラーか?」
「ちげーよ。歴史の教科書読み直せ!」
そして知るがいい。裏切り者の代名詞であることを。純真な乙女の心を裏切ったお前にはおあつらえ向きのネーミングだということもな!
「まあいい。お前の家、あれだろ」
「そうだけど」
数十メートル先に見えるのは我が家である。というかブルータスよ、やっぱりうちの家知ってたんだな、さすがだな。
「じゃあ行け。それと次のシフトも一緒だろ。そのときも送ってやるから、感謝しろよ」
突き放すようにして体を離された私は、次にはもう背中を見せてさっさと帰ろうとしているブルータスに驚くと同時に、引き止めるようなことを言ってしまっていた。
「兄ちゃんに会っていかないの?」
それが目的で私のバイト先にまで現れたんじゃなかったのか。
ブルータスはぴたりと足を止めた。次の瞬間、ものすごい勢いで私のところまで戻ってくると、胸倉を掴んでまくし立てた。
「会いたいに決まってんだろうが! お話もしてーよ!」
「そ、そう、ですよね、やっぱり」
怖い! ブルータス怖い! いいよ許すよ、会っていけよ! 今の時間帯なら風呂上りでパンツ一丁の可能性大だよ!
「でもできねえんだよ! 今の俺には、ショータ先輩を、遠くで、見守るしか……、ぅうーっ、ショータせんぱあい……っ」
「な、泣いてる……だと……!?」
マジかよ、マジで泣いてるよこの子。
演技かと思ったけど、演技で鼻水出せるって相当だぞ。おいやめろ、その綺麗な顔で鼻水はなんかヤダ。
「う、っぐ、ズビ! ……帰る」
「え、うん。そ、そうだ、ティッシュいる?」
駅前でもらったポケットティッシュを差し出すとひったくるように奪われた。ヤツは去り際、吉村家をうるうるした目で見つめ、あとは無言で帰っていった。
「会えないんなら、なにしに来たんだあいつは……」
呆然と呟く闇夜の中、離れたところで鼻をかむ音がした。