51、天使、ふたたび
「甲斐君、今度はなんのバイトやるの?」
お昼休みが終わるまであと十分。ほとんどのクラスメイトが戻ってきている中、後ろの席の甲斐君はバイトのフリーペーパーを熟読していた。
「ん~、どうしよっかなあ」
「また肉体労働系いくの?」
「そっちのほうが給料いいんだよなあ」
バイトのバの字も知らなかったくせに、短期バイトを渡り歩いてきた彼は今ではひとかどのアルバイターとして頭角を現してきている。教科書の中に履歴書がまぎれこんでいるのを見たときには、こいつ……デキる! と唸ったものである。
「吉村はレストランだっけ? まだ続いてんの?」
「もちろん。最近、お客さんが増えてきたからかなり忙しいんだよね。甲斐君、よかったらうちで働かない?」
「接客はパス」
「そう言わずにさあ~、女のお客さん多いよ~、出会いのチャンスだよ~」
「その女のお客さんの年齢層によっては考えてやらんこともない」
っチ、うちの客の年齢層が高いことを知ってたか。
古い外観のせいか、私が働いているレストランには若いお客さんが少ない。それでも以前に比べたら増えたほうで、きっと岩迫君がテニス部で宣伝してくれたり、可愛い後輩たちが友達を連れてきてくれたお陰に違いない。
「今ほんとに人手が足りないんだよ。甲斐君、友達でしょ! 友達なら私の言うことをきけよ」
「後半部分が友達に対して言う台詞じゃねえぞ」
甲斐君はフリーペーパーから一度も顔を上げずに言った。なに、なんなのこの子、最近私に対する応対がぞんざいなんだけど。同じモヤシだと思ってたら、いつの間にか彼のほうだけ豆モヤシにグレードアップしてたのかってくらい、相手にされてないんだけど。
結局、甲斐君は引越し業者のアルバイトに決めると、残り短い昼休みの間に履歴書を書きあげてしまった。私の恨みがましい視線を一切無視して。
「また新しいバイトするのか?」
教科書を借りにクラスを出ていた岩迫君が戻ってくると、私は演技たっぷりに彼へと訴えた。
「聞いてよ、岩迫君、せっかくうちのバイトに誘ったのに、甲斐君ったら冷たく断ったんだよ」
「あったかく断れたらそうしてるよ」
「ほら、冷たい! えーんえーん、ひどいよー」
「甲斐、もっと言い方ってもんがあるだろ」
「なんで俺が責められてんだよ! 明らかに嘘泣きだろうが! バカ! このバカ! 二人揃ってバカ!」
今日も甲斐君のツッコミは冴え渡っているな。彼はガテン系のバイトよりも芸人の付き人のバイトをすればいい気がする。
甲斐君を宥めながらも、新しく採用されるであろうバイトの存在が私を憂鬱にさせていた。たぶん近いうちに入ってくるんだろうけど、顔合わせのときにはきっと緊張すると思う。私はこれでもけっこう人見知りだからな。話しかけられたら気さくに返事をするけど、内心では「知らない人こわいよぉおおお」と絶叫しているんだからな。
オーナーの庄司さんは、いい子が見つかり次第、採用すると言っていた。それはおそらく私が想像するよりも先の話ではないだろう。
優しい大学生とか、優しいおばさまとか、まあとにかく枕詞が優しいであれば私に文句は一切ない。オーナーの見る目に期待しよう。
その日は学校が終わると、制服のままバイト先に向かった。春日坂高校から歩いて十五分、大通りから脇道に入ったところに洋食店がある。住宅街の真ん中に溶け込むような佇まいのそこに、私は入っていった。
「リホちゃんお帰り」
声を掛けてきたのは、窓際の一番いい席に座っていたお客さんだった。私がここでバイトを始めたのと同じくらいに顔を出し始め、今では常連となっているおじいさんである。
「いらっしゃいませ。来てたんですね、倉崎さん」
「おうおう、いいねえ、その制服。女学生ってのはいつの時代もたまらんなあ」
お客様じゃなかったらただのエロじじいめと無視しているところだが、お客様なので私はにこやかに挨拶をした。初対面でいきなり手を握ってきたり、今も制服を食い入るようにみたりと、歳の割りには元気なじいさんである。
「今度デートしないか。リホちゃん、何食べたい?」
キタちゃんのじいさまと同世代くらいなのだが、このアグレッシブさ。私はもしかして同年代よりもはるか年上に受けるのだろうか。
「デートならしてるでしょう、今ここで。リホちゃん、先に着替えてきなさいな」
迫られてたじたじになっている私を助けてくれたのは、オーナーの奥さんであるみゆきさんだった。慣れた様子であしらってくれている間に、私は店の奥で着替えることにした。
「まったく、倉崎さんには困ったものね」
エプロンドレスの後ろのひもを結んでいると、やれやれといった顔でみゆきさんが戻ってきた。
「さっきお孫さんがやってきて引き取っていかれたわ。迎えにきた車見たんだけど、あのひともしかしてどこぞの大金持ちかしら」
「へえ、言われてみたらそうかもしれないですね」
服のことはよく分からないが、くたびれた格好をしているところは一度も見たことがない。いつも身綺麗にしていて、余裕と威厳がある。まあ話し出すと途端にチャラチャラするので、やっぱり違うのかもしれないが。
「そうだ、リホちゃん。今日から新しい子が入ってくるから」
「ええ! 今日ですか!?」
「そうなの。昨日、面接に来た子なんだけどね。もう即決よ、即決!」
みゆきさんのはしゃぎようを見て、ああたぶん男だな、と思った。彼女はけっこうミーハーというか、格好良い男の子が好きだ。アイドルに関しては現役女子高生の私よりも詳しいくらいだった。
「ユタカ君っていうのよ。リホちゃんと同じ高校二年生でね、すっごく紳士な子だから安心して!」
「はあ、」
紳士? 高二で? なんかうっさんくせえなあ、と思った私は間違っていなかった。
十分後、ヤツはやってきた。
「リホちゃん、彼がユタカ君よ」
みゆきさんに紹介されて、ヤツは折り目正しくお辞儀した。目が合うと、ふわりと微笑まれる。その天使もかくやと思わせる笑顔を見るのは、これが初めてではなかった。
「吉村さん、分からないことがあったら教えてくださいね」
ブス。
ヤツは以前、私をそう呼んで嗤った。
「敬語なんてよそよそしいわよ。同い年なんだし、もっとこう、気さくにね?」
ぎこちない空気を感じ取ったのか、みゆきさんが気を利かせてそう言った。けれど今は、今だけは、彼女の気遣いが私を追い詰める。
「じゃあ、あらためて。吉村さん、これからよろしく」
差し出された手を握るのに、これほどの気力を要するとは今日になるまで私は知らなかった。触れた体温に一気に心が冷えていく。
ああ、どうしてなんだ。
「よろしく、ね、……タモツ君」
タモツユタカ。
新しくバイトとして入ってきたのは、あのブルータスだった。