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50、『だって』記念日

「いや~、鰐淵先生に蛍光灯の交換までさせてしまって恐縮です」

「いえ、これくらいのことなら頼んでくれればやりますよ。顧問なのですから」

 軽く一杯した後で、部室の暗さが気になった鰐淵先生が切れた蛍光灯を交換してくれた。その珍しすぎる光景にこっそり写メろうとした私は、先生の冷たすぎる視線を前にして断念せざるをえなかった。

 明るくなった部室に先生はいたく満足した様子だった。数学の授業では私たち生徒をいかに痛めつけてやろうかという表情ばかりを見せている気がするのだが、今はどことなく優しい顔をしている。いつもこうなら女子のファンがもっと増えるだけでなく、私という失ったファンも帰ってくるのに。

 面倒な作業を率先してやってくれた鰐淵先生に、後輩二人は早くもメロメロになってあれこれ世話を焼いている。相手が五味なら色が出るまでティーバッグを使うところを、一回使ったやつはポイして新しい紅茶を入れているところに先生への好感度が如実に表れていた。

 入れたての紅茶を飲み、コンビニで買ったチョコを物珍しそうに食べながら、鰐淵先生がなんでもないことのように言った。

「そういえば、文化祭で漫画を売っていませんでしたか? あれを見せてもらいたいのですが」

「手元にはないのでお見せできません」

「私、今持ってますよ」

「なんでだぁあああ!」

 せっかく咄嗟に嘘ついたのに! さらっとすっとぼけたのに!

 マリちゃんは鞄の中から私とキタちゃん合作の漫画を取り出し、献上するかのように鰐淵先生に渡してしまった。ガッデム!

「友達が読みたいって言ってたんで、貸してたんです。一年にファンがいるんだから、そんな顔しないでくださいよ、リホ先輩」

「くっそぉおおお! というかその子は漫研には入ってくれないわけ?」

「私も誘ったんですけど、ちょっと抵抗があるみたいです」

 ……うん、まあ、その気持ちは分かる。

 漫研=オタクと言っても過言ではない。そしてオタク=マイノリティーだ。スクールカーストでは最下位だ。世間の評価は今もって厳しい。

 しかし! しかしである! それでも二次元への愛が、萌が、羞恥心をボッコボッコに打ち負かし、ひとをオタクへと進化させるのだ。

 だから目の前で鰐淵先生が私たちの描いた漫画を読んでいても全然恥ずかしくない。そう恥ずかしく……駄目だやっぱりちょっと恥ずかしい。先生、お願いです、そんな真顔で読まないで。

「五人以上集まらないと同好会に降格だからね。来年は大丈夫だとしても、ぎりぎりの人数じゃ不安だし、勧誘は年間を通じて続けていかなきゃ」

 キタちゃんが副部長らしいことを口にして、後輩たちは神妙な顔で頷いた。

 そうなのである。漫研の部員は現時点で七名。来年には五名でギリギリだった。新一年生をどれだけ獲得できるかによって、漫研の明暗が分かれるのである。

「そうだ、鰐淵先生。先生が勧誘してくださればいいんですよ」

「僕ですか?」

 読んでいた漫画から顔を上げ、先生は不審な表情を浮かべた。部員の勧誘に顧問がでしゃばることはあまりない。けれど禁止されているわけではないのだから、ここは先生に一肌脱いでもらおう。

「新入生歓迎会のときに、部活紹介があるんです。そのときに舞台に立って、鰐淵先生が『僕と契約して漫研に入ってよ』って言ってくれたら女子生徒なんてイチコロですよ!」

「入ってよ、は砕けすぎではないですか?」

「わあ、普通に返された」

 非オタの反応なんてこんなもんだ。というか先生がこのネタを知っていたらビックリである。

「でも鰐淵先生に協力してもらうってのはいいかもね」

「勧誘ポスターに写真載せるのはどうですか?」

「それいい! キャッチコピーは『僕の美技に酔いなさい』で今度こそ女子の新入部員が」

「リホ先輩、もういいですから。鰐淵先生、絶対また分かってませんから」

 鰐淵先生を広告塔にして部員を集める案はたしかな効果を上げそうだった。文化部最強を誇る合唱部を押さえ、我が漫研が春日坂の文化部筆頭を名乗る日は近いかもしれない。

「この部活は漫画が好きな子たちが集まる部活でしょう? 僕目当てに女子生徒は集まってくるでしょうが、目的を見失っていませんか」

 全員がはっとした顔になった。先生の自信に満ち溢れた台詞は置いておくとして、たしかにごもっともな意見である。

「ただの鰐淵先生ファンクラブになっちゃいますね……」

「いい案だと思ったんだけどなあ」

 部員ほしさに目が眩んだ結果なんてたかが知れている。そのことを教えてくれた鰐淵先生のことを、就任当初は文句ばかり言っていた自分が急に恥ずかしくなった。




 最終下校時間の十分前に部室を出ると、戸締りをして鍵を返しに職員室に向かった。鰐淵先生にすっかり懐いた後輩二人は、先ほどからしきりに話しかけている。

「鰐淵先生、先輩たちの漫画はどうでしたか?」

「ちょっとマリちゃん!」

「純粋に面白いと思いました。それと正直、驚きました。高校生であれだけ描けるのが普通なんですか?」

 何の含みもない言い方をされて、顔にぐんぐん熱が集中するのが分かった。鰐淵先生は心にも思っていない言葉は絶対に言わない人だ。だから、うん、ものすごく嬉しい。

「い、いやそんな、私なんてまだまですよ。というか、あの漫画は、原作のキタちゃんがすごいのであって、」

「リホ、顔真っ赤よ。先生、ありがとうございます。リホはこれでもすごいんですよ」

「キタちゃんのほうがすごいっつーの! 先生、先生、キタちゃんの小説、一度読んでみてください。今度、部誌に載ってるやつお見せしますから」

「何言ってんの、やめてよ」

「私だけ恥ずかしいのは嫌だ!」

「こら、廊下で騒がない」

 鰐淵先生が、指で額コツンをしてくれた。

 ……メ、メガネ、メガネは吹っ飛んでいないか。それくらいの衝撃(萌え)だったぞ。神様ありがとうございます。一生の思い出です。

「あ、そうだ。鰐淵先生にずっと訊きたかったことがあるんですけど」

 職員室まであと数歩というところで、私はある疑問を思い出して立ち止まった。

「先生はどうして漫研の顧問を引き受けてくださったんですか」

 積極的に部活の顧問になってくれる先生なんて、経験者かお人よしくらいなものだと私は思っている。教師も人間なので、プライベートな時間を減らしたいとは考えていないだろうし、義務でもない顧問に就任する必要はないだろう。

 けれど鰐淵先生は、自分から顧問になってもいいと幸子部長に言ってきたのだそうだ。顧問が見つからないのを聞いて、わざわざ部長の教室まで訪ねてきてくれたのだと。

「先生?」

 なぜか鰐淵先生は答えに詰まっているようだった。茶色がかった目が、右へ左へと大忙しである。

 やがて意を決した先生は、眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、いつもよりずっと小さな声で理由を教えてくれた。

「……だって、部活の顧問って、教師っぽいじゃないですか」

 予想もしなかった台詞にぽかんとしている生徒の視線から逃れるように、鰐淵先生は顔を逸らす。

「僕はこれでも、君くらいの歳になるころにはもう教師になる夢を持っていたんです。それくらい教師に対しては思い入れがあったし、部活の顧問はまだやったことがなかったから、だから、」

 恥ずかしそうに。もう一度言う、恥ずかしそうに(ここはテストに出ると思う)先生は早口でおっしゃった。色白の頬がいつもより赤くなった横顔ときたらもう。

 直後にキャ――!! と黄色いどころかショッキングイエローな悲鳴を上げた一年生二人に続いて、キタちゃんが背後の壁を両手でバンバンと叩きだす。私はぷるぷる震えながら鰐淵先生を見上げた。

「な、なんですか、君たち、」

「だって、だって、鰐淵先生がっ、『だって』って!」

「それがどうしたっていうんですか」

「も、もう一回、もう一回お願いします、おお、お慈悲を……っ」

「わけの分からないことを、ちょ、離しなさいっ、こらっ」

 キャーキャー悶えている一年生二人も加わって「もう一回! もう一回!」とたちの悪い酔っ払いみたいなコールが巻き起こった。キタちゃんはよほどダメージが深刻だったのか、先ほどから壁に向かって正座している。

「おいコラ! うるさいぞ!」

 あまりにも廊下で騒ぎすぎたために、強面で恐れられている生徒指導の先生まで出てきたが、萌えを充填されたばかりのオタクに怖いものなど何もない。

「すいませーん! うふふふふ」

「……鰐淵先生、何なんですかコレは」

「さあ、分かりません」

 途方に暮れる先生たちをよそに、私たちはますます盛り上がる。最終下校時間を知らせるチャイムが、お前らいい加減にしろよと言わんばかりに頭上で鳴り響いていた。

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