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49、鰐淵、襲来

 数ヶ月前から切れたままになっている蛍光灯のせいで、放課後の生物化学準備室は薄ぼんやりとしていた。いい加減に交換してもらわないといけないのだが、どうしても困るというわけではないのでずっと放置している。

 かろうじて生きている蛍光灯の下で、私は厳かな雰囲気を纏いつつも切り出した。

「――さて、諸君らに集まってもらったのは他でもない」

 漫研の部室にはキタちゃん、マリちゃん、そしてメグっぺがいた。幸子部長は予備校で、五味はテニス部に行っているのでこの場にはいない。漫研の部室に来るようにと召集をかけて集まったのは、私を含めた四人である。

「リホ、もったいぶってないで早く言ってよ」

「っふ、まあ焦るでないよ、キタちゃん」

「リホ先輩、座っていいですか。あとそのチョコ食べていいですか」

「マリちゃん、座ってもいいけどチョコはひとり三つまでな」

「あのぉ、すいません。お話の前に、ちょっと電話に出てもいいですか?」

「彼氏かメグっぺ! ……まあいいよ、手短にね」

 何度も謝りながら廊下に電話をしに行ったメグっぺが戻ってくると、私はテーブルに肘をつき、いわゆるゲンドウポーズで今日集まってもらった目的を明らかにした。

「今日の放課後、鰐淵先生が部活見に来るって! 時間がないからヤバイの今すぐ隠してぇえええええ!」




 時間はほんの十分前、六時間目の数学の授業が終わった直後に巻き戻る。

「吉村、何点だった?」

「九点。甲斐君は?」

「六点だった。吉村は満点じゃないんだな」

 定期テストを目前にして、最近ではどの授業でも毎日のように小テストが行われている。数学だけは自信満々に全問を解いた私だったが、痛恨のミスを犯してしまっていた。

「途中で9×9=18って計算しちゃった」

「凡ミスだな。まあ、六点の俺が言えるようなことじゃないけど」

 このような安易なミスを次の定期テストで犯すわけにはいけない。今日のはいい教訓になったことだろう。本番では最低二回は見返して万全を期すことを誓った。

「岩迫はどうだった?」

 数学の授業ではひときわ大人しくなる岩迫君は、小テストが終わった今も微妙に元気がない。採点の終わった小さなプリントをくしゃりと握りつぶした彼は、悲壮な表情を浮かべながら声を振り絞った。

「……3点」

「あー、うん、頑張ったな」

「いやいや凄いよ! こないだの小テストは2点だったじゃんっ、さらに前は1点! すごいですね~、えらいですね~、成長してますよこの子は~」

「そ、そうだよなっ、俺、成長してるよな!」

「その程度のフォローで立ち直っちゃうんだ」

 甲斐君が若干呆れているが、岩迫君の成長は馬鹿にできたものではない。

 何が偉いって、彼はちゃんと全問解こうとしているのだ。以前は最初の簡単な二、三問でギブアップして、あとは放置していたというから、進歩しているのは間違いないと思う。

「次のテストは鰐淵先生のメガネが吹っ飛ぶくらいの点数をたたき出してやろうぜ岩迫君!」

「おう!」

「それは楽しみですね」

 私と岩迫君は腕を突き上げた状態で固まった。甲斐君は……いない! あいつ逃げやがった。

 もうとっくに教室を出て行ったと思っていた鰐淵先生は、冷笑でもって私たち二人を見つめていた。

「次のテストは期待してもいいみたいですね、岩迫君」

「え、っと、いや、そのぉ」

「五十や六十点では、僕の眼鏡は吹っ飛びそうにはありませんが、さきほどの威勢のよさから言って、九十点台は固そうですね」

「九十!? むっ、無理です」

「おや。では君は、できもしないのにあんなに調子の良いことを言っていたわけですか」

「す、すいません……」

 岩迫君のライフゲージが真っ赤ですよ鰐淵先生。

 ひやひやしながら二人のやり取りを見守っていると、鰐淵先生の獲物を捕らえる視線が今度はこっちに向いた。

 冷ややかな眼差しに、思わず顎を引いて身構える。先生の綺麗なお顔が直視できない。担任である茂木先生の無限に湧き出てくる親しみやすさを、鰐淵先生は見習ってほしいものである。

「吉村さん、今日は部活に行くんですか」

「へ? あ、はい、行きますけど」

「そうですか」

「……なんでそんなことを聞いたんですか?」

 ものすごく嫌な予感がした。恐る恐る訊いた私に、先生は平然とおっしゃった。

「今日の放課後、僕が部室に行くからです」

 寝耳に水とはこのことである。

 こう言っちゃなんだが、鰐淵先生が部活の指導に熱心な人だとはまったく思っていなかった。文化祭では大きな展示室を借りてきてくれたものの、それ以来まったく音沙汰のなかった先生が、なぜ今になって漫研に干渉しようというのだろうか。

「言いたかったのはそれだけです。ではまたのちほどお会いしましょう」

 唖然とする私を置いて、鰐淵先生は教室を出ていった。




「鰐淵先生は何しに来るのかな」

「リホ、喋ってないで手を動かす」

「はーい」

 現在、本棚から抜いた漫画を大急ぎでダンボールに詰める作業をしている。

 漫研なんだから部室に漫画があっても何らおかしくはない。しかし、さすがに男同士が絡み合っている表紙の漫画を教師の目に触れさせるわけにはいかなかった。中には男子生徒×教師(眼鏡着用)なんてのもあるので、これが鰐淵先生に見つかったら部員全員で土下座しなくてはならないだろう。

 数分後、ところどころ隙間のできた不自然極まりない本棚が出来上がった。いかにもヤバいのは抜きましたよ、と言わんばかりである。

「先輩、コレどうしましょう」

 困り顔のマリちゃんが何かを抱えてやってきた。

 そ、それはっ!

「幸子先輩が自宅から避難させてきた抱き枕!!」

 真っ白な生地に恥らう表情を浮かべた彼に、部員たちは慄然とした。

 幸子部長が春先、今イチオシの彼(抱き枕)がベッドを占領しているからと、仕方なくこちらに持ち込んできたのが始まりである。彼氏(人間)ができた今も、自宅と部室に平然と愛人(やっぱり抱き枕)を置いている幸子部長の図太さには慄くばかりだ。

「裏返して置いといたら?」

「そう思ったんですけど」

 くるっと裏返しにされた彼は、まさかの半裸バージョンを披露してくれた。チクビ見えてるよチクビが!

「最近の抱き枕は凝ってんなあ」

「感心してる場合じゃないですよ」

 しかし困った。これだけの大きさ、隠す場所が見当たらない。

 ためしにコンビニのビニール袋をかぶせてみたが、小さい上に顔だけしか隠せていないのが余計に怪しかった。

「もういっそのこと、堂々と壁に立てかけておいたらどうだろう。ほら、金持ちの家に飾ってある甲冑みたいにさ」

「なるほど……最初からすべてを晒けだすわけですね」

「攻撃は最大の防御だよ、マリちゃん。よしっ、半裸バージョンを表側にして攻めまくるぜ!」

 鰐淵先生よ、これが漫研だ!

「……ってできるわけないだろ! マリちゃんツッコめよ!」

「リホ先輩、ゴミ袋ありましたから、一旦これに入れましょう」

 最近、マリちゃんがキタちゃんに似てきている気がする。私のあしらいかたとか、スルーの仕方とか。ボケたのになかったことにされるのが一番ツライんだぞ。

「あああ……幸子部長の抱き枕がゴミ袋に……なんて悲しい光景なんだ」

「これ一回も使ってないからキレイですよ」

 しかし一時は夢中になったキャラクターがゴミ袋に押し込まれている様など、部長には見せられたものではない。数時間の辛抱だ、あとで出してあげるからっ。

「これでマズいのは全部隠せたかな」

 狭い部室はいつもより小綺麗になっていた。作業台の上にちらばっていたプリントや漫画を一箇所に集めただけでも見違えるようである。

 そろそろ来てもおかしくない鰐淵先生のために椅子でも用意しておくか。部室の隅に置いてある使われていない椅子に目をやった私は、次の瞬間、叫んでいた。

「エクスカリバー!」

「どうしたリホ」

「先輩、今ここで中二病を発症されても困ります」

「もうリホ先輩ったら、さっきツッコミ入れなかったからって、それはないですよ」

「違うわ! 私を何だと思ってんだ!」

 あと私もう高校生だからね、過去の過ちは中学卒業とともに抹殺したから思い出させないで。

「あれ見てよ、エクスカリバーだよ!」

「漫剣の部室にそんなのがあるわけ……あった」

「あれ、たしか幸子部長のですよ」

「そういえばちょっと前まで振り回してましたね」

 素材は発泡スチロール、非常に軽い代物だが、出来がいいために重厚感すら漂わせている。ひょいと手に持つと、幸子部長を真似してポーズをとってみた。

「これどうする? 隠す?」

「別にいいんじゃないの。抱き枕と違って一般人を不安な気持ちにさせないだろうし」

「それもそうだね」

 このとき悪戯心を発揮した私は、のちに後悔することとなる。

 垂直に持った剣を後ろに振りかぶり、

「エクス……」

「すいません、遅れました」

「カリバー!!」

 ガラっとドアの開く音がしたのと、私が剣を振り下ろしたのはほぼ同時だった。

「…………わ、鰐淵、先生、」

 ちょ、お、うおああああああ、何やってんだ私はああああ!!

 美形の幸子先輩がやるならまだしも、眼鏡のおさげイモ女子がノリノリで「エクス……カリバー!!」って! 「……」ってためて言ってたのが余計に痛えええええ!!

 キタちゃんっ、こういうときこそ冷たくあしらってよ! あからさまに目を逸らして必死に見なかったフリはやめてよ! それ全然優しさじゃないよ!

 マリちゃんっ、顔隠してるけど明らかに笑ってんじゃねーか! 耳がまっかっかだよ! 笑うなら盛大に笑ってくれ!

 メグっぺえええ、なんで泣きそうな顔してんだ。そんなに私は可哀相だったか。

 何が約束された勝利だよ! この空気、敗北もいいところじゃねえか!

「入ってもいいですか」

 こちらの葛藤も知らずに鰐淵先生が感情のこもらない言葉を投げかけてくる。

 今明らかに私痛かったよね? 先生、見てたよね? 見ててその態度なら、尊敬しますよ。

「どうぞ、お入りください。あらためまして、私、副部長の北川です」

「たしか部長は三年のルーヴェンさんでしたね」

「はい。部長は予備校で今日はいません。他にも二人いますが、兼部なのでこちらの部室に顔を出す時間はあまりないんです」

 五味はテニス部が早く終わったらすっ飛んでくるけどな。

 ああ、五味よ。ここにお前がいたならば、さっき私が負った傷はもう少し浅かった気がするんだ。ヤツの能天気さが、今は恋しい。

「漫画研究部は部室棟には移らなかったんですか?」

「あそこは運動部が優先して入ったので、文科系の部活はほとんど移動してませんよ」

「それは知りませんでした」

 キタちゃんに奥へと誘われて、鰐淵先生は部室の中心、大きな作業台のあるところまで入っていった。

「鰐淵先生、どうぞ座ってください」

「ありがとう。吉村さん、いつまでそこに突っ立っているんですか。こっちに来なさい」

 エクスカリバーを持って項垂れている私に平然と声を掛けられる先生の神経が分からん。もう私はツッコミ待ちですよ。いっそ蔑んでくれたっていいのに。

「先生、何か飲まれますか?」

「飲まれますかって……まさかその水道とガスコンロ、使えるんですか」

「はい、使えますよ」

 ちょっと驚いている鰐淵先生の目の前で、メグっぺが水を入れたヤカンに火を入れた。マリちゃんはストックしてあるお茶一式を持ってきて、先生の前に置く。

「ほとんどインスタントかティーバッグですけど、好きなの選んでください」

 鰐淵先生はどこか困惑した表情で、部員ひとりひとりの顔を見渡した。

「君たちはいつもこういうことをしているんですか」

「ここを部室として提供してくれた先生方は承知してくれてますよ。火の元には十分気をつけていますし」

「これからも気をつけてくださいね。では僕は、これにします」

 紅茶をひとつ選ぶと、鰐淵先生は苦笑いした。

 思いがけない優しい笑みに、部員一同ほわわとなった。突然来るというから何事かと思っていたけど、先生のレアな表情を見れただけでも今日は十分に価値のある一日となったのではないだろうか。

「エクスカリバー先輩はどれにしますか?」

「『リホ』先輩は鰐淵先生と同じお紅茶をいただこうかしら!」

 訂正する。今日は私の人生において新たな黒歴史が刻まれた日であった。

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