48、萌えたら負けだと思っている
「もうやだ! もうやだ! もうやだああああ!!」
突然ひとの部屋に入ってくるなりべえべえ泣いているのは、イモウト目ワガママ科カナコという。その習性は凶暴にして気まぐれ、アネ目オタク科リホコに対しては容赦がない。
「ちょっとカナちゃん、お姉ちゃん宿題やってるんだけども」
「うわああああん! うわああああん!」
「ちょっと聞いてんの? 泣きたいなら自分の部屋で泣けよ」
「ぎゃあああああああん!!」
花も恥らう女子高生が怪獣みたいに泣くってどうなんだ。もうちょっと可愛らしく泣いてくれりゃあ、慰めの言葉のひとつやふたつ掛けてもいいんだが、怪獣だからな、たぶん通じないぞコレ。ああもう鼻水垂れてる。
「ほれ、ティッシュここに置いとくから」
泣きつかれたら自然と巣に戻るだろう。私はまず英語の宿題を済ませないといけない。
ただでさえ苦手なのに長文作成なんて苦行もいいところだ。ALTの先生の毎度クレイジーなテンションにはついていけないし、英語担当の穂積先生の「アーハン」がセクシーすぎて授業に集中できないしで、数学と比べるとテストの成績はよろしくないのだ。提出物で少しでも点数を稼がなくては。それにしても英語で自己紹介って何を書けばいいんだよ。
「とりあえず、私は眼鏡をかけています……アイ、ハブ、メガネ……」
「うええええ、ぶええええ」
「うーん、ハブじゃないな。装着する? いや、でも眼鏡は体の一部と言っても過言ではない……アイアムメガネ? お、これじゃね」
「リホのばがああああ!」
「って、メガネは英語じゃないか。ヘイ、シスター、ものを投げるな」
構ってほしいのならそう言え。
英語の宿題を一旦置いて後ろを見ると、カナはクッションを抱きしめてこっちを恨みがましそうに睨みつけていた。鼻はかみすぎて真っ赤に腫れていて、そのせいかいつもツンとすましている顔に今だけは愛嬌がある。
「で、どうした?」
椅子に後ろ向きで座ると妹を見下ろした。泣きはらした目で上目遣いに見つめてくるカナはふてぶてしい顔を不意に歪ませる。お気に入りのクッションに、ぼたぼたと涙が落ちた。
「泣いてちゃ分かんないでしょうが。カナってさ、もしかして泣き虫?」
「ちがう、もん、」
違わないだろう。前に一緒にショッピングに行ったときも、今みたいに泣いていたじゃないか。あのときはたしか二ツ木少年のことで、カナは胸を焦がすあまりに涙を零したのだ。
「もしかして今回も二ツ木少年絡み?」
当てずっぽうで言った台詞は、どうやらドンピシャだったらしい。彼の名を出した瞬間、カナはクッションに顔を埋めてくぐもった嗚咽をもらした。
「……誰かに何か言われた?」
カナの肩がひときわ大きく震えた。私の口はへの字に曲がった。
「もう気にしないって決めたんじゃなかったの? 自分に自信持って、二ツ木少年をオトすんでしょ?」
「でも、」
「考えるな! 感じろ! ドントシンク! フィール!!」
「でも! 話しかけないでって、言われたの……二ツ木に」
「へ?」
唖然とする私の目の前で、カナのか細い泣き声がクッションに吸い込まれていった。
翌日、授業が終わった私は急ぎ足で駅に向かい、電車に乗り込んだ。三駅乗って下車した駅の改札口には、妹のカナが立っていた。
「リホ、こっち! もう遅い!」
学校から走ってきたのにこの言い草。ジト目で改札をくぐった私の腕をひっぱり、カナは駅の構内を出た。
「どこ行くの?」
「ゲームセンター。二ツ木は習い事に行く前に、ここでちょっと遊んでくの」
歩いて五分くらいのところにある商業施設に足を踏み入れたカナは、迷うことなく入り口近くの階段を上った。一階はカラオケやボーリング場で、ゲームセンターは二階にあるらしい。自動ドアが開くと、中は騒音の世界が広がっていた。
「二ツ木、どこかな……ってリホ!! なに太鼓叩いてんのよ!!」
「ちょ、待て、イケる! 今日こそパーフェクト狙える!」
「ふざけんな、遊びに来たんじゃないんだよっ」
あとちょっとというところでゲーム機から引き剥がされた。っチ、今日ほど調子の良い日はなかったというのに。
「私はこの辺りを探すから、リホは向こうのフロア探してきてよ」
「見つけたらどうすんの?」
「電話かメールして。できれば外に連れ出してほしい」
「へいへい、分かったよ」
ひとりじゃ告白できずに友達についてきてもらう女子を思い出す。カナはまさにそれで、ひとりではもう二ツ木少年に話しかけることさえできないほど臆病になっていた。
私が首を突っ込むことではない気がするが、お姉ちゃんついてきて、と言われたら協力せざるをえなかった。二ツ木でも三ツ木でもかかってこいや、と安請け合いした私は完全に妹の下僕です本当にちくしょう。
私が『お姉ちゃん』という単語に弱いことをカナは気づいているようだ。だが私は決して妹萌えではない。まあ最近、ちょっとは可愛いな~とは思うのだが、違うったら違うのである。
心の中で言い訳しながら、ゲームセンター内にいるであろう二ツ木少年を探した。客のほとんどが私と同い年か、二十代の男ばかりだ。中には制服姿の学生もいて、しかもあまりガラがよろしくない。目が合うと値踏みするような視線を向けられたので、慌ててその場を歩き去った。
ほどなくして、クレーンゲームの前にいる二ツ木少年を見つけた。私は背後から近づき、彼の斜め後ろに立った。
すぐに声を掛けなかったのは、クレーンの操作中だったからだ。明らかにクレーンでは掴めない大きさのぬいぐるみをどうやって取るのか興味のあった私は、息を殺して見守った。
やがて何もないところで広がったクレーンがぬいぐるみを穴へと押し出した。なるほど、そうすればいいのか。
「よっしゃ!」
「おめでとう、二ツ木少年」
クレーンゲームのガラスに映った彼と目が合った。にやっと笑った私に対し、二ツ木少年はたいそう驚いた顔をしていた。振り返った彼とガラスを介さずに視線が合うと、もっとびっくりされた。
「吉村のお姉さん?」
「久しぶり。文化祭で会って以来だよね」
「どうしてここにいるんですか」
「まあそれは追々話すとして、景品取らなくていいの?」
戸惑うばかりで動こうとしない彼に代わって、ぬいぐるみを拾い上げた。有名なゲームのマスコットキャラだ。
「すごいね」
「よかったら、もらってください」
「なんで? せっかく取ったのに」
「取るのが好きなだけなんです。だから取ったら誰かにあげてるんですよ」
「じゃあ遠慮なくいただこうかな。ありがとう」
あとでカナに渡るけどね、という言葉は言わなかった。
「ねえ、話したいことがあるんだけど、時間はあるかな」
「……はい、ちょっとだけなら」
腕時計を確認した二ツ木少年は、困ったように私を見た。彼はどうして私がここにいるのか、知っているような気がした。
ゲームセンターから二ツ木少年を連れ出し、近くのカフェに入った。誘ったのは私のほうなので、彼の分の飲み物を買って席に着いた。奢ってもらってひたすら恐縮する二ツ木少年の向かいに座った私は、単刀直入に切り出した。
「どうしてカナに話しかけるなって言ったの?」
「……やっぱり、そのことなんですね」
「まあ私、お姉ちゃんだからね。妹に頼られたら断りきれないんだよ」
熱々の抹茶オレにそっと唇をつけて少しだけ口に含んだ。思った以上に甘すぎるそれに顔を顰めていると、二ツ木少年は弱々しい笑みを浮かべた。
「大した理由なんかありません。吉村、目立つから。一緒にいると俺まで注目されて、それが嫌なんです」
「ふうん」
「そんな理由で、って怒らないんですか」
「いや、気持ちはよく分かるよ」
小、中、と暴風雨並の兄の影響力に晒されてきた私には、二ツ木少年の言葉の意味が理解できた。けれど。
「違うでしょ」
「はい? 何がですか」
「カナを突き放したのは、それが理由じゃないでしょ」
二ツ木少年が息を呑んで身じろいだ。コーヒーに手が当たり、中身が少し零れる。さらに動揺した彼の視線が、テーブルと私の顔を何度も往復した。
「ねえ、本当のこと教えてよ。カナには絶対に言わない」
「……嘘なんて言ってません」
「そんな罪悪感たっぷりの顔で言われても信じられないって。それに、カナも納得しないと思うけどな」
「そのうち俺のことなんて忘れますよ」
「おいコラ、うちの妹を馬鹿にしてんのか」
「……すいません」
しばらく沈黙が続いた。それほど広くない店内は徐々に混み始めている。あまり大きな声は出せないなと思っていると、ずっと俯いていた二ツ木少年が意を決したように顔を上げた。
「喧嘩したんです」
「カナと?」
「違います。吉村が、友達と喧嘩したんです。……俺の、ことで」
彼は本当に申し訳ないことをしてしまったという表情を浮かべたかと思うと、また顔を伏せてしまった。
テーブルを見つめたまま、ここ最近、学校で起こったことを話してくれた。
「その子が俺のことを何て言ったのかは具体的には知りません。でも吉村は怒ってて、それ以来、口をきいてないらしいんです。俺ですよ? 俺なんかのために、あいつは今、友達をひとりなくそうとしてるんです」
「仲直りしてほしいんだね。だから自分に構ってほしくなかった?」
「はい」
「二ツ木少年は真面目だなあ。そんなの、ほっときゃいいんだよ」
「なんでですか!」
その日、初めて彼が私に対して牙を剥いた。眼鏡の向こうの目が真剣で、本当にカナを思って言っていることが分かって嬉しくなる。
「カナはさ、友達と喧嘩したくてしたんだよ。それを自分のせいだって考えるのはちょっと違うんじゃないかな」
「俺が、俺のせいじゃなきゃ、なんだっていうんですか」
「カナが好戦的すぎた?」
「それは……まあ、それもあると思いますけど」
「あいつは戦闘民族だから、自分にとって気に食わないことがあったら我慢できないんだよ。二ツ木少年のことを貶されて、黙ってるなんてできなかった。君はさ、もしカナが誰かを傷つけられても笑って許しちゃうような子だったらどう思う? 悲しくならない?」
カナの我儘は、そんじょそこらの我儘とはわけが違う。絶対に折れない強い意志のもと、他人に阿るということがない。周りの都合を考えないところもあるけど、でも誰かのためにそれを押し通すのなら、私はちょっとくらい迷惑を被ってもいいかなと思っている。
「カナがその子と戦うって決めたんなら、もう友達じゃないって思うんなら、他人がどう言っても変えられないよ、そういう子だからさ」
「どっちにもいい顔なんて、できない?」
「分かってるじゃん。あいつはそんな器用なことはできないんだよ。今回は、二ツ木少年を選んだんだね」
「俺は、そんな、……だってあの二人、本当に仲が良くて、なのに」
「自分を責めるな、二ツ木少年。カナは性格キツいから、友達なくすのなんてしょっちゅうだぞ!」
「慰めになってないです……」
泣き笑いの表情を浮かべて、彼は少しだけ体の緊張を解いたようだった。少し冷めたコーヒーにようやく口をつける。
カナは君を選んだんだよ。
この言葉の本当の意味を、二ツ木少年はまだ知らない。好きな男のためにカナが戦っているのだと知ったら、彼はどんな反応を見せるだろう。妹の気持ちを受け入れてくれたらいいのにと、姉である私は思わずにはいられなかった。
そのとき、隣の席の客が立ち上がった。
「ミカコとは今日仲直りしたわよ!!」
吹き出すのを咄嗟に堪えた二ツ木少年は、盛大に咽た。咳をしすぎて顔を真っ赤にさせた彼は、ずれた眼鏡をそのままに情けない声を上げた。
「ゲホッ、え、えぇええ!? 吉村、なんで!? いつから!?」
「あんたたちが来る前からよ」
「そん、な、お姉さん!? これ、最初から仕組んでたんですかっ」
「そうだ、君は我らの手のひらの上で踊らされていたのだよ」
「何キャラですかそれ!」
涙目で動揺する二ツ木少年に、ウィッグと伊達メガネで変装していたカナが詰め寄った。
「馬鹿じゃないの、あんた」
「カナ、そこは『あんた、バカァ?』だ。はい、やり直し」
「リホは黙ってて。もう帰っていいから」
この扱い! いいよいいよ、別にさ、お姉ちゃんなんて使うだけ使ったらあとはポイさ、分かってたさ。
「では、ここは若いお二人だけでごゆっくり」
「え、お、お姉さん?」
「私は君のお姉ちゃんじゃありません」
まあ将来、お義姉さんになるかもしれないがな。それは今後のカナの頑張り次第と、君の流され次第にかかってるぞ。
店の外に出ると、温まった体に冷たい空気が絡み付いてぶるっと震えた。両手を上着の中に突っ込み、先に帰ることにした私の足取りは軽い。
帰り際、カナに強く手を握られた。
お礼の言葉も何もなかったけど、これが不器用な妹の精一杯の感謝の示し方なのだと思うと、ちょっと可愛いなと思った私はだから妹萌えじゃないことをここに強く宣言する。