47、願いよとどけ
「みんなー! 今日は私のために来てくれてありがとー!!」
「いえーい」
「みんなって、二人しかいねえけどな」
私たち三人は現在カラオケ店にいた。個室に入って一時間、ユッキーのテンションは最高潮に達していた。気分はエアライブ状態である。
「それでは私の新曲聴いてください。『午前十二時の泥沼恋愛劇』」
タイトルとは裏腹に明るい曲調から始まる歌に合わせて、私はタンバリンを適当に振った。隣ではタッキーが大盛りのフライドポテトを貪り食い、ときどき思い出したようにマラカスを鳴らしている。
ロリータ衣装を振り乱して踊るユッキーを眺めながら、私の頭は将来のことでいっぱいになっていた。漫画家になりたいという夢を、具体的にはどうやって叶えるつもりなのか、考え出すとそれは一気に生々しい現実となって私にのしかかってくる。
大学はどうするのか。就職は。絵を描いて暮らしていける才能は、果たして自分にあるのだろうか。
徐々に暗くなっていく私の顔を、隣でタッキーがじっと見ていた。
その日のすべての授業が終わると、私は部活に向かうべく鞄に教科書を詰め始めた。周りではクラスの女子たちが一緒に帰ろうよと頻繁に誘ってくるが、以前そうして強引に家に入られそうになったので、私は丁重に断りを入れるとひとりで教室を出ることにした。押せば渋々言うことを聞いてくれる吉村さんは、そろそろ卒業しないといけない。
「おい、吉村妹」
ドア付近に、見知らぬ男子生徒がいた。スリッパの色から二年生だと分かった。中学生のくせに茶髪に染めているというだけで、私は彼を不良だと判断した。
「ちょっとついてこい」
「……はい」
押せば渋々言うことを聞いてくれる吉村さんは、まだまだ卒業できないようである。
ど、どうしよう。もしやこれは、兄に恨みのある系男子か。
正直、覚悟はしていた。小学生のときも、下校途中に見知らぬ中学生に囲まれて小突かれたり脅されたりはあった。そういうときは、ランドセルを背負った見るからにひ弱そうな女子小学生相手にしか鬱憤を晴らせないケツ穴の小さな連中めと内心罵りながら、大げさなほど泣き喚いてピンチを切り抜けてきたのだが、中学生ともなるとそれはちょっと恥ずかしい。しかもここは校内だ。悪い意味で噂になって目立つのは嫌だった。
「あの、どこに行くんですか」
部活に行きたいんですけど、と下手に申し出た私に、目つきの悪い男子生徒は「すぐ済むから」と言って明確な答えをくれなかった。
どうやら私たちは屋上に向かっているようである。少年漫画的に言うと、学校のボスは屋上を定位置にしているものだが、おそらく三年の番長……いるのかどうかは知らないが……が私の到着を待っているに違いない。
やべー殺される。
「吉村妹、何してんだ」
「い、いくら未成年とはいえ、罪は罪ですよ!」
階段の手すりにしがみついて、私は最後の足掻きをした。
「わけの分かんねーこと言ってないで、早く来い」
「いやだああああ」
首根っこを捉まれて、とうとう屋上へと引きずり出されてしまった。
そこには予想通り、ガラの悪そうな連中がひしめいていた。スリッパを見ると一年から三年まで揃っている。集団の真ん中には、この学校のボスが偉そうにふんぞり返っていた。
「……兄ちゃん?」
おそらく。たぶん。いやいやどう見ても、中心にいるのは私の兄である。
「ショータ、妹連れてきたぞ」
私を拉致してきた男子生徒が嬉しそうに兄へと駆け寄った。フリスビーを銜えて持って帰ってきた犬かと思わず心の中でツッコミを入れたくなるくらい、その顔は期待に満ちていた。
「リホ」
しかし兄はそんな男子生徒を無視して、私に近づいてくる。放置された男子生徒はご褒美がもらえなくてシュンとした子犬のような表情を浮かべて「ショータぁ……」と項垂れている。
なにこれ、びーえる?
最近覚えたばかりの単語だが、こういう場合はびーえるで合ってるのか? 山本部長、教えてください、これはびーえるですか。部長のお言葉では、男子が二人いればびーえるは成立すると言っていましたが、少なくともここには十人以上いるのですが。でも兄で妄想はできません。やっぱり二次元、最高っス!
「リホ、おいリホ、聞いてんのか」
「は! え、なに、兄ちゃん。何か言った? ていうかここで何してんの? この人たち誰?」
「知らん。勝手についてくる」
そりゃねーぜ、と周囲が喚いているが、兄のひと睨みで静かになった。ちょっと来いと言われて集団から離されたが、それから兄は中々話しだそうとはしなかった。
「私、部活に行きたいんだけど」
「そ、それだ、部活。お前、部活に入ったのか」
「入ったよ」
「なんで入るんだよ」
分からない、兄がまったく、分からない。
思わず五七五調で読んでしまったが、つまりは何がどういうことだ。
「なんでここで聞くわけ? それも人まで使って。家で聞けばいいじゃん」
「お前、部屋に鍵かけて出てこねえだろうが」
「そ、それはぁ」
漫画描いてるんだよ、とは言えなかった。
同好会に入ってから、私はますます漫画描きに没頭していた。少ないお小遣いを捻出して画材を買い、拙いながらもイラストを描いていた。さらに言えばびーえるという世界に触れ、いけない漫画を買い集めていたのである。
後悔はしていない。ちょっぴり正常な道から外れたような気がしなくもないが、敢えて進もう、修羅の道。
山本部長、ありがとうございます。部長のお陰で私は坂本龍馬のごとく、こう思ったものです。
新しい世界の幕開けぜよ……と!
「こうはしてられない、部活に行かないと。兄ちゃん、用はもう済んだよね!」
いくら兄の取り巻き連中とはいえ、ここにいるのは恐ろしかった。話題をはぐらかして兄を振り切り、私は急いで屋上のドアを開ける。そこにはモップと机を振りかぶった女子二人が驚いた顔で立っていた。
「タッキー、ユッキー?」
「吉村、大丈夫だったか!?」
「リホちゃん、何もされてない!?」
モップは分かるが、なぜに机なのか。ユッキーの怪力ぶりに言葉を失っていると、二人は私の手を引いて大急ぎで階段を駆け下った。
誰もいない場所まで来ると、二人はようやく止まった。
「上級生に連れて行かれたって聞いたから、心配したんだぞ!」
モップを投げ捨ててタッキーが怒鳴った。その横ではユッキーが机を小脇に抱えてうんうん頷いている。
心配して、助けに来てくれたんだ。
二人とも女の子なのに、無茶すぎるよ。そう言おうとしたけど、言葉にならなかった。喋ろうとしたら声じゃない何かがあふれ出しそうな気がして、私は慌てて唇を噛んだ。
「続けて唄います。あれれ~? もおみんな~元気がないぞ~?」
「いえーい」
「吉村、律儀に合いの手入れなくていいぞ」
しっとりしたバラードに入り込んでいるユッキーの歌声をBGMにして、私はずっと上の空だった。
「なあ、吉村」
「なに?」
「将来のことで不安になってもいいけどよ、あんまり悩みすぎるなよ」
ずばり言い当てられて、私は驚きのあまりタッキーを凝視した。タッキーはメロンソーダを飲みながら、唄うユッキーを眺めていた。
「山本が特別なだけであって、吉村が焦る必要はないと思うけどな。それに早くに夢を叶えられたからって、幸せばかりとは限らねえだろうが」
「そう、かな」
「将棋の世界なんてよく分かんねーけど、相手はほとんどが大人だろ? 高校生だからって手加減なんかしてくれるわけねーし、山本は自分よりもずっと経験のある連中と戦っていかなきゃならないんだ。まだ高校二年生なのに、大人として扱われてるんだぞ」
途中で心が折れてしまうかもしれない。やっと掴んだ夢そのものに押しつぶされてしまうかもしれない。安易に羨ましがっていた私は、自分が恥ずかしくなった。
「俺の夢、教えてやろうか?」
「タッキーの?」
そういえば訊いたことがなかった。
「聞いて驚け、『女の子』になることだ!」
「……タッキーは女の子だと思ってたけど、違った?」
も、もしかして実は男の娘だったと!?
驚愕する私に、タッキーの容赦ないチョップが脳天に繰り出された。
「俺の夢は、つまりはスカートを履くってことだよ」
「よく分かんないんだけど……。スカートを履きたくなくて、私服の高校を選んだんじゃないの?」
「そうだけどな。でも本当は、ああいう服も、ちょっと着てみたいと思ってるんだ」
タッキーの視線の先では、ロリータ服を着たユッキーが眼をウルウルさせながら唄っている。すまんユッキー、全然聴いてないわ。
「俺にも兄貴がいるんだけどよ、服はおさがり着せられなかったか?」
「うちはそうでもなかったけど」
「そっか、いいな。でも俺は小さい頃から兄貴の服を着てた。当然、ズボンな。色も黒とか青で、ピンクとか可愛い色はひとつもなかった」
自転車はおさがりの黒で、言葉遣いは兄貴の真似をして『俺』だった。親は特に注意はしてこなかった。
タッキーは淡々と語った。
「中学で人生初めてのスカートを履いたんだけどよ、恥ずかしくて死ぬかと思った。こんな格好で行きたくないって親に言ったら、お前もそろそろ女の子らしくしろ、だとよ。一度もスカート買ってくれなかったくせに、なんだよそりゃって感じだった」
タッキーは別に男の子になりたいわけじゃない。むしろ本当は、ずっと女の子になりたかったのだと、私はこのとき初めて知った。
「スカート履いて女らしくするには、そんときにはもう遅すぎたんだよ。ピンクや赤は恥ずかしくて着れなかった。自分には絶対似合わないって思ってる」
「そんなことないよ」
「って皆言ってくれるけどな、自分じゃ絶対そうは思えないんだよなあ。本当は興味あるんだけど、でも勇気が出なくて男みたいな格好ばかりしちまう。こんなふうになっちまったのは親父とお袋のせいなんだって、見せ付けてやりたかったのもある」
でもな、とタッキーはうっすら笑いながらユッキーを見た。
「もう高校生になったんだから、いい加減にしな、だとよ」
「ユッキーに?」
「うん。『本当に男になりたいんなら応援するし協力もするんだけど、違うでしょ。おじさんとおばさんを困らせたいだけなら、そろそろやめなよ』って言われて、俺も……わ、わたしも、腹を括ろうかなあ、と」
「ぎこちねえ……」
「こっ、これからだ、これから!」
真っ赤な顔で喚くと、タッキーは勢いよくメロンソーダを飲み干した。照れ隠しに必死なタッキーはめちゃくちゃ可愛かったけど、でも本人が一番それを信じていないのがなんだかおかしくて、そして切なかった。
「夢を叶えられるかどうかは、自分の頑張り次第だけど、でもこうやって話を聞いてくれるやつがいると、諦めないで戦える気がしないか」
「……うん。そうだね。私もそう思う」
軽く肩をぶつけて同意すると、タッキーは嬉しそうに押し返してきた。
「ちょっと二人とも、さっきから私の唄、聴いてないでしょー!」
「いえーい!」
「うるせえ! マイク使って叫ぶんじゃねえ!」
「楽しかった。また遊ぼうね」
カラオケ店を出て、解散となった。
空は真暗で気温はぐんと低くなっている。秋の気配が漂っていた。
肌寒さを感じながら、私は二人に別れを告げる。
タッキーとユッキーは二人並んで私の前に立つと、ぽんぽんと頭を撫でてきた。
「吉村のちゃらんぽらんに見えて実はけっこう真面目なところは尊敬してるけど、真面目すぎて自分ひとりで抱え込んだりはするなよ。苦しくなったらちゃんと言え」
「そうだよ、リホちゃん。呼んでくれたら、ううん、呼んでくれなくても助けに行くからね。あのときみたいに」
そんなに私は不安な表情をしていたのだろうか。すぐに他人と自分を比べて落ち込んだ自分が情けなくなった。
私は私。そう言える強さが、自信がほしい。
帰っていく友達二人に手を振りながら、私は願った。