45、コーラとケーキみたいな二人
午後七時。
夕食を済ませたあと、皿洗い当番の私はカレーがこびりついた食器を洗い流していた。背後にあるテレビではちょうど好きなバラエティ番組が放映されていて、さっきから私の手元は随分とおろそかだ。CMに入ったところで一気に洗ってしまおう。
今日残ったカレーは後で水とめんつゆをぶちこんでスープカレーにでもすれば、明日の朝食になるだろう。私は朝からがっつりカレーライスでも平気だが、意外に繊細な上と下の兄妹からは「こんな重いの食えるか!」と苦情が来たので仕方なく軽めに作り変えなければならない。
ちなみに今日も両親はそろって残業で、会社近くのホテルに泊まるから家には戻ってこないらしい。二人とも仕事場は違えど業種は同じで繁忙期も一緒だから、片方が忙しければもう片方もといった感じで、家にいる時間はあまりない。子供もそうだが、夫婦同士で顔を合わせているのかも怪しく、そのうち離婚するとか言い出さないかちょっと不安だ。
まあないだろうと思いながらコップの茶渋にとりかかったとき、リビングの電話が鳴った。
「カナ、電話とってよ」
「えーめんどい。どうせセールスだって」
「じゃあ兄ちゃん」
普段は食べてすぐ自室に戻る兄は、最近ではリビングに残っていることが多い。今もカナと並んでテレビを観ていた。
「兄貴のほうが電話に近いでしょ。ほら行った」
「兄ちゃん、急いで!」
「…………分かったよ」
面倒くさそうに電話のあるところまで移動すると、兄は受話器をとるなり「誰だ」とのたまった。
高校三年生の受け答えとは思えないが、敬語を使う兄がまったく想像できないのも事実。セールスであってくれと願った私の耳に、「あ? 誰だてめえ、何か言えよ」という兄のドスのきいた話し声が聴こえてくる。
「誰? やっぱりセールス?」
皿洗いを中断して、濡れた手を拭った。
受話器を握ったまま渋面、というかもはや誰か殺しそうなほど凶悪面になっている兄から受話器を奪い取ると、私はよそ行きの声で「もしもし」と言った。
『リっ、リホちゃん!? リホちゃんだよね!?』
「ん? その声、ユッキー?」
『そうっ、そうだよ! ……あぁ、怖かったあ』
受話器の向こうから安堵した雰囲気が伝わってくる。なるほど、兄が怖くて名乗ることすらできなかったのか。
「携帯に連絡してくれればよかったのに」
『そうしようと思ったんだけど、携帯が壊れてデータも消えちゃったの。マコちゃんに聞いても、あの子ろくにアドレスの管理してないから分かんないって言うし』
「なんだそっか。ところで今日はどうかしたの?」
『今度の日曜日なんだけど、中学校のときの漫研のメンバーで遊ぼうって話になったの。リホちゃん、どう? 行けそう?』
「今度の日曜? ちょっと待って。兄ちゃん、邪魔! カレンダー見えない!」
なぜかすぐ傍で両腕を組んで仁王立ちしている兄を押しのけ、リビングの壁に掛けられたカレンダーに視線をやった。日曜日、ゴミ出し以外は特に予定はない。
「行ける行ける。何時にどこで集まるの?」
『えっとね……』
時間と場所をメモ帳に書き込んで、ついでに携帯の番号を伝えて電話を切った。さあ皿洗いに戻るかと体勢を変えると、目の前に主張の激しいドクロTシャツが迫る。兄だった。
「男か?」
「は? 何言ってんの? ユッキーは女の子だよ」
大きな体をかわして台所に行くと、後ろから兄がぴったりとついてくる。なんだ、一体。
「声が低かった」
「それでも女の子だよ。声低いのユッキー気にしてんだから、超乙女なんだから」
「……………お前の声は可愛い」
ぼそっと呟いたあと、今言ったことを誤魔化すように私の頭をわっしゃわっしゃと撫でて、兄は二階へと上っていった。その大きな後姿を怪訝な顔で見送る私に、プリンを食べながら眺めていたカナが言った。
「リホ、あんた部屋にもう一個鍵つけといたほうがいーと思うよ」
「よっす、吉村! 相変わらず眼鏡だなー」
待ち合わせの駅前広場、古びた時計台はもうすぐ午前十二時を差そうとしていた。その時計台の根元に立っていたのは、中学校時代の漫画同好会で一緒だった滝井誠こと、タッキーだった。会うのは夏休みぶりである。
「タッキーこそ相変わらずのアニメ声だねー」
「うっせ! 言うな」
男らしい名前、男らしい口調であるにもかかわらず、彼女の声は二次元の少女みたいに甘くて高い。顔も可愛らしく、まさに声とぴったりなのだが、服は男物で、履いているスニーカーはやたらとごつい。深く被ったベースボールキャップのせいで喋らなければ男の子にしか見えなかった。
ちなみにスカートを履きたくないという理由から、私服の高校を選んだという。中学校のときも常に下にジャージを履いているという徹底ぶりだった。
「ユキのやつ、まだ来てねえんだけど。自分から誘っといてなんだあいつ」
「支度に時間がかかってんじゃないの?」
「お、噂をすればだな。来たぞ、すっげー目立ってる」
時計台が十二時を差すと同時にユッキーはやってきた。いっせいに改札口から吐き出される通行人の群れの中、遠目であってもその姿はすぐに判別できる。
「ごめんなさいっ」
一時間ごとに鳴るメロディーをバックにして、ユッキーは駆け寄ってくるなり腰を九十度に曲げて謝った。動いた拍子に幾重にも重なったレースのスカートがふわりと揺れて、同時に甘い匂いもふわりと香った。
「髪の毛巻くのに夢中になってたら、時間ギリギリになっちゃって、」
「そのアホみたいな髪型、自分で作ったのか。たしかにすげーな」
「アホって言わないでよ~! 自信作なんだから~!」
「でかい図体してくねくねすんな!!」
タッキーの蹴りが飛ぶ。本気ではないにしろ、それを受け止めてもびくともしない結木苑子ことユッキー。二人の身長差、およそ20センチ。
服装も体格も、二人はすべてが対照的だった。身長175センチの堂々たる体躯に、ユッキー本人は気にしている低めの声音。タッキーが男性的なものを好むのなら、ユッキーはまさに女性的、いや少女的なロリータファッションに身を包む。
「リホちゃん、昨日はいきなり家に電話してごめんね」
大きなリボンのついたカチューシャを毟り取ろうとしているタッキーを片手で押さえ込みながら、ユッキーが申し訳無さそうに昨夜のことを謝ってきた。
「別にいいよ。こっちこそ、うちの兄ちゃんがなんかごめんね」
「ううんっ! あの、やっぱり吉村先輩、だったんだよね?」
吉村先輩とは兄のことである。中学校ではひとつ上の学年だったから、ユッキーもタッキーも知っているのは当然だ。
そうだよ、と頷くと、途端にユッキーが黄色い声を上げた。低かったけど。
「キャーどうしよう! 吉村先輩とお話しちゃったあああん!」
たしか怯えて全然喋らなかったはずでは? と思ったが乙女のテンションマックスな様子なので、水を差すのは控えておこう。
「佐倉木高校の帝王と電話でお話したって、明日学校で友達に自慢しよーっと!」
きゃぴきゃぴ喜んでいるユッキーには、口が裂けても男に間違えられていたとは言わないでおこうと思った。
ユッキーといいブルータスといい、兄に夢を見すぎである。カレーは甘口しか食べないんだぜあの人。
「早くメシ食いにいくぞ。おいユキっ、暑くもねえのに日傘なんかさすな!」
「紫外線対策よ。あと可愛いからさすの」
「お前自身が圧倒的に可愛くねえんだからそんなのやったって無駄だろ」
「なにー? なんか言ったー?」
腕一本で首を絞めあげられているタッキーの断末魔の叫びを聞きながら、私は中学生時代の思い出を振り返るのだった。