42、私は魚になりたい
地上に舞い降りた天使だと思っていたら地上に這い出した悪魔だった事件からちょうど一週間がたっていた。
あの後、家に帰っても思い出すたびに喉の奥のほうがひゅっとなって、ベッドに入っても中々寝られない日々が続いた。いつかアイツが仕返しに来るんじゃないかと想像して、お腹と背中にジャンプを仕込もうかと本気で考えたほどだ。
絶対にひとりにならないでおこうと気をつけて過ごした一週間は苦痛だった。常に周囲を警戒しながら歩く通学路。コンビニだって気軽に行けなくなった。あの日初めてひとを殴った拳は少し赤くなって、ひねったらしい手首はペンを握ると痛みが走った。
後から思えば、怒らせずに穏便に済ませる方法はいくらでもあった。どんなにコケにされても黙って耐えていればよかったのだ。吹き荒れる暴風が静まるのをじっと待つように、我慢していれば。
ああいう悪意の塊に毅然と立ち向かえるほど、私はきっと強くない。こうやって後になってからうじうじと悩んでいるのがその証拠だ。
だから今度は穏便に、嵐が過ぎ去るのを待とう。
そう思うのに、あのとき馬鹿にされた私が抱いたどうしようもない劣等感を思い出すと、ふつふつと闘志が湧いてくるから困ったものである。
日曜日。待ち合わせ場所は、O駅内の書店前になっている。
デパートみたいな雰囲気の駅は、各路線が交わることもあって人で溢れかえっていた。改札を出て階段を下りたすぐのところにある書店は、午前九時前だというのにすでに開店している。早く来過ぎれば書店で時間を潰せるので、ここは待ち合わせをするにはうってつけだった。
岩迫君はたぶんまだ来ていないだろう。三十分前についた私はまっすぐ書店に向かった。新刊をチェックしようと入り口付近のコーナーに歩いていくと、開け放しになったドア近くで突然肩を叩かれた。
「おはよう」
信じられないことに、振り返った先にいたのは岩迫君だった。待ち合わせをしていたのだから彼以外にはありえないのだが、私はびっくりしてしまった。
「お、はよう」
「さすが吉村。来るの早いな」
驚いた原因は、神谷、そしてブルータスにある。連中ときたら揃いも揃って遅刻してきて、しかもそれが当たり前という態度なのである。最悪な二人につき合わされた私は、男は遅刻してきて当たり前、という刷り込み状態にあったのだ。
「吉村?」
「あ、ごめん。岩迫君こそ、早いね」
「部活で鍛えられてるから。遅刻なんかしたら先輩にぶっ飛ばされるし」
「キタちゃんと同じこと言ってる。あ、キタちゃんっていうのは同じ部活の北川さんのことで」
「知ってる。前に図書館で一緒に勉強した女子だよな」
教室にいるときのように会話ができるこの状況に、私は内心ガッツポーズをした。予想ではもっと気まずい感じになるはずだったのだが、岩迫君も私もいつもどおりで何の気負いもない。
初めてのデート。
一体何をどうすれば皆目見当のつかなかった私がまずしたことといえば、『デートとは?』という検索ワードに乗ってネットの海を泳ぐことだった。しかも最後のほうなど煮詰まって、気づけばまったく関係のないサイトを閲覧していたからネットとはつくづく恐ろしいものである。
結果、ろくな情報を手に入れられなかった私は妹に助言を得て、今ここにいた。服装は以前に比べれば大人しめな感じで見繕ってもらった。決してブルータスに言われたことを気にしたわけではない。
「ちょっと早いけど、電車乗る?」
「うん」
水族館までの乗換えを把握していた私は先んじて歩き出した。岩迫君はつかのまぼうっとしていてそれを見送り、すぐに慌てて追いついてきた。
「よ、吉村、待って」
「なに? …………あ」
しまった。これはデートだ。キタちゃんと一緒に遊びに来ているわけではないのだ。
繰り返す。これは訓練ではない、『デート』である!!
「ご、ごめん」
急激にこみ上げてきた恥ずかしさのせいで、私は立ち止まった。後ろからどんどんやってくる通行人が迷惑そうな顔をして私を避けていく。岩迫君に引っ張られて駅構内の端っこに誘導された。
「私、けっこう緊張してるみたい」
「それは俺もだって」
岩迫君は安心したように笑った。緊張していたのは自分だけじゃない、そういう笑顔だった。
「お互い緊張して、はぐれたら大変だし、………あー、だからさ、俺たち手を繋いだほうがいいと思うんだけど」
私が何かを言う前に、岩迫君に手をとられていた。
こ、この間は一応聞いてきてから手を繋いできたというのになんてことだ!
呆然とする私は引っ張られるがままに歩き出した。こうして歩くのは二回目。羞恥心は一回目と勝るとも劣らなかった。
手を繋いだ男女ふたりが少し俯いて終始無言で歩いているのに、周りは誰も気にしていない。目の前にはカップルらしき二人が腕を組んで歩いていて、それを見るのがどうしてもできなかった私は自然と下を向いてしまう。
ああ、私、本当にデートしているんだ。
目的の水族館は海に面したところにあった。
久しぶりに嗅ぐ潮の匂いは慣れなくて、何度も鼻をひくつかせていると、隣にいた岩迫君も怪訝な顔で同じことをしていたから少しだけ緊張が解ける。
チケットを買って館内に入った私達は、人の流れに乗って最初の水槽に近づいた。
彼らにしてみれば狭すぎる空間で、色とりどり大小様々な魚が泳いでいる。現代っ子らしく、刺身になった魚のほうが馴染み深い私にとって、泳いでいる魚を見るのは食べ物的な意味ではなく視覚的な意味で実に新鮮だった。
青白い光に照らされながら、ふと隣に視線をやった。
少しだけ口を開けて水槽に見入っている岩迫君に、私はしばらく見入ってしまった。
やばい、いつもより格好良い。
薄暗い照明のせいなのか、初めて見る私服のせいなのか。
突然だが、ここでリホコのファッションチェック!
今日の岩迫君の装いはまるでメンズ雑誌から抜け出してきたかのようですね! 特にその、あの、なんだ、………とにかくカッコイイ! 以上!
流行に対して電波が一本ないしはまったく立っていない私には、彼がいかにオシャレかを表現する言葉を持ち合わせていなかった。
最近知ったのだが、ジャンパーって死語らしい。ズボンはパンツと言い換えるのが今の主流であるのだとか。おいおい、じゃあ下着のパンツはどうなるんだ。パンツの気持ちも考えろよ!
「吉村、次行っていい?」
「は! あ、うんっ、もちろん!」
パンツよお前はもういい、私の頭の中から出て行ってくれ。
水槽から離れたあとは、小さな水槽が延々と続いていた。小さいがゆえに、私達は顔を近づけないと一緒に鑑賞することができなかった。至近距離で目が合い、弾かれたように仰け反ること数回。
こ、これがデート先に水族館が高確率で選ばれる理由だったのか……!
水族館の恐るべきポテンシャルに驚愕しているうちに、ようやく目玉である大水槽が見えてきた。握った手がはじめに比べると熱いのは、緊張しすぎた私の熱が上がったのが、それとも岩迫君のせいなのか、両方だと気が楽なのだが。
「ジンベイザメだ!」
男子は大きなものに惹かれると言うが、岩迫君もその例に漏れなかったようだ。360度、どの角度からも見られる大水槽に向かって走り出した岩迫君に遅れまいと私もついていく。
「でかい! これでまだ子供なんだって!」
四角い大水槽の中をぐるぐると遊泳するジンベイザメ。腹の下には小さなサメがくっついていて、私の興味はむしろそっちに向けられた。
あんなふうに絶対的な強者の下で平和に暮らしたいものだ。
十六にして枯れていると自覚している私は、ジンベイザメにぴったりくっついてもはや自分で泳いですらいないコバンザメに憧憬と呆れの視線を送った。
魚を追いかけていた視界に、ふいに馴染みのある顔が映ったのは、油断でもしていたのかコバンザメがべりっと剥がされた瞬間だった。
「うわー、あそこになんか五味に似た魚が泳いでるー」
「え? あ、ほんとだ。すごく五味に似てる! ……………いや、あれは魚じゃなくて五味本人だろ」
岩迫君に甲斐君並のツッコミを期待してはいけなかった。
ちょっとがっかりしつつも、もう一度確認してみる。やはり間違いない、反対側から大水槽を覗きこんでいるのは、後輩の五味貴志であった。
じっと見ていたのがいけなかった。分厚いガラスと海水越しに、五味と目が合ったのが分かった。
そしてヤツは、仲間にしてほしそうにこちらを見ている!
「い、岩迫君、行こう。ここにいたら駄目な気がする!」
繋いだ手を引っ張って、この場を離脱することを選んだ私の判断は、後から考えてみても間違っていなかった。
しかし五味の動きのほうが圧倒的にすばやかった。大水槽を反対側から回り込んでくると、テニス部で鍛えたフットワークで人の間を器用にすり抜け、逃げようとしていた私達の前に立ちはだかったのである。
「リホ先輩! なんでここに!?」
聞きたいのは私のほうだ。
それよりもこの状況をどう説明する。手を繋いで水族館に来ている私達の事情を。
ダラダラと心の冷や汗を流す私、一方岩迫君は平然としていた。なんでだ。
と、そのとき、突然五味が覆いかぶさるように私の両肩を掴んできた。ひっ、と悲鳴を上げたのは、目の前の五味の顔があまりにも怖かったからである。
「おい、五味っ」
引き剥がそうとする岩迫君をものともせず、五味はずずいと顔を近づけてきて、
「お願いします! 俺を助けてください!!」
と涙目で言った。
実はブルータスはちょっと前に一回だけ出ていると前回書き忘れたのでここで書いてみる。