41、野獣のさけび
「ねえ、リホちゃん。僕と付き合わない?」
ある日突然現れた王子様。ろくに知りもしないうちに惚れられてハッピーエンド。今のこの状況、まさにシンデレラストーリーそのものである。
しかし私はシンデレラでもなければ、相手も王子様ではない。驚いたのも一瞬、ああやっぱり、という残念な気持ちに代わった。
「ブルータス、お前もか」
「は? ブ? ってちょっとリホちゃん、どこ行くの?」
戸惑うブルータスを置いて、アトラクションの行列から抜け出した。
並び始めて三十分以上は立っていたと思う。それを無駄にする行為になんだかムカっ腹が立ったが、それ以上に腹立たしいのはこうなることが何となく分かっていてノコノコと話に乗った自分である。
オシャレまでして馬鹿みたいだ。
いやそれより何より、カナに悪い。私が彼氏とデートすると思って、ああでもないこうでもないと服を選んでくれて、お気に入りの靴まで貸してくれたのに。
きっと家に帰ったら「デートどうだった?」と聞かれるに違いない。そのとき私はなんて答えたらいいんだ。
ブルータスに裏切られたと言えってか。
「すいませーん、ホットドッグ二つ!!」
「まだ十時なのにもう食べるの?」
いつのまにか背後にブルータスがいた。
私は相手に見えないこともあって仏頂面を隠しもしなかったが、正面で接客しているスタッフのお姉さんはぽわ~とした顔で私の背後を見つめていて、実に対照的である。
「マスタード多めにかけてもらえますか?」
苛々しながらも正気に戻そうと話しかけてみたが、スタッフの応答はない。
まったく、ここの遊園地はスタッフにどんな教育してんだ。私はケチャップよりもマスタード多めが好きなんだよ。むしろマスタードだけでもいい派なんだよ。おいこらこっち見ろっ、マスタードに飢えた客が目の前50cmのところにいるだろーが!
「マスタード多めでお願いできますか?」
「はっ、はいっ」
注文した私を差し置いてブルータスの言を聞いたスタッフ「ますい」。私は貴方を許さない。
家に帰ったらホームページにアクセスしてお客様窓口に特攻かけてやろーか? あん?
しかも「お待たせしました」と言ってホットドッグふたつをブルータスのほうに差し出すスタッフ「ますい」。どこまで地雷を踏んだら気が済むのだスタッフ「ますい」。
「リホちゃん、あっちのテーブルに行こう」
当然のようにホットドッグを受け取ったブルータスは、まだほとんど埋まっていないフードコートのほうへと歩いていった。
ついていくべきか、否か。
もう会話すらしたくない心境の私は、ホットドッグを諦め出口へと向かってもよかった。
けれど、ここまで来たのは私の意思で、また目的もあった。いくら腹が立ったからといって何の成果も残せずに帰るなんて、それこそ時間の無駄ではないだろうか。いやいやホットドッグが惜しいとかそんなことは決してない。決して。
鞄を胸に抱きこむと、私は慎重な足取りでヤツの傍へと寄った。正面の椅子を選び、すぐにでも立ち上がれるよう浅く腰掛けた。
「それで、一体どうしたの? 気分でも悪くなった?」
気分が悪い人間がホットドッグ食えると思うか。
ブルータスが言っていたとおり、ここのホットドッグは実に美味しかった。マスタードは私好みの粒タイプで、ソーセージの下に敷いてある刻みキャベツはカレーの風味が利いている。スタッフ「ますい」は注意力は散漫だが良い仕事をしている。
「僕も食べていい?」
「それ私のなんですけど」
「………二つも食べるの?」
自分の分だと思ったのかブルータス、愚か者め。
天使だなんだと持ち上げておいて悪いが、今やブルータスという渾名に落ちた彼の顔を、私は銜え切れないホットドッグの先で捉えていた。
悪魔というものは悪魔の顔をしては現れない。遠近法によってホットドッグの上に乗った天使みたいに見えるキレイな顔の裏側には、とんでもない野望を秘めているはずだ。
「僕、何かリホちゃんを怒らせることしちゃったかな?」
こちらの白けた空気を感じ取ったのか、傷ついた表情を浮かべて、それでも彼は真摯に事情を聞こうとしてくる。
相手の罪悪感を煽るような寂しげな風貌は、何も知らなければまんまと騙されていただろう。私の性格が少しでもお人よしなものだったなら、悪くもないのに謝っていたかもしれない。
しかしブルータスよ、私はお前が何者かを知っているのだ。
お前が決定的な言葉を放った瞬間に、私にかけられた魔法は解けてしまったのだ、とポエマー気取って言ってみたいけどイタイ人になりそうだからやめた。
「ブルータス君はさあ、私のどこを好きになったの?」
一個目を食べた私は二個目に取り掛かった。口にものを入れていると、都合の悪いことを聞かれても喋れない体を装える。
「ぶるーたす?」
「会うのは二回、いや三回? そんな短い間に私のどこを好きになったってーの?」
喉が渇いてきた。ジュースを買いに行きたい。でもこういうところのジュースは高いわりに氷ばっかりで毎度がっかりなんだよな。
「実はさ、一目惚れだったんだ」
無料の水を探してキョロキョロしていた私は、ゆっくりと視線を戻す。そこには真剣な眼差しのブルータスがいた。
「一目惚れ? マジで言ってんの?」
「マジだよ。というかリホちゃん、さっきから口調変わってない?」
取り繕う必要がなくなったからだ、とわざわざ言ってやることもなかったので、喋れないと言わんばかりにホットドッグを口に押し込む。この最後の一口を食べ終わったら、私は引導を渡さねばならない。
「初めてリホちゃんを見たときに思ったんだ。ああ、この子がそうなんだって」
「この子が吉村翔太の妹なんだって?」
「そう、ショータ先輩の…………え?」
ついに馬脚を現したな、ブルータス!!!
ちょうど二個目も食べ終わったことだし、最後の仕上げにかかることにした。
私は周囲の状況をさっと確認した。昼には早い時間のせいもあって周りに人は少ないが、まったくいないということもない。一番近いのは家族連れと、なんか見てて悲しい男子高校生三人組だ。大声を出せば確実に届く距離にいる。
いける! これは勝てるぞ!
「こういうの初めてじゃないんだよね」
「なに、言ってるの?」
「偶然を装って近づいてくるの。初めてじゃないって言ってるんだよ」
今年になってからは初めてだが、去年、一昨年と私は同様の被害に合っていた。
原因は兄だった。
変な輩が私の周りをうろつきだしたのは、兄が高校に入学してからである。
神谷曰く下僕らしいが、妹をダシに使うのはやめてほしい。特にひどいのは妹を篭絡して堂々と家に上がりこもうとする連中だ。
うちの兄は一般人ではないのか。なんだこのアイドルに集るコアなファンみたいな奴らは。
まんまと騙されなかったのは、ひとえに私の異性に対するコミュニケーションスキルの低さと疑りぶかい性格のお陰である。
「兄ちゃんが好きなのは分かるけどさ、もっと他にやり方あるでしょうが。まったく、佐倉木高校は君らにどういう教育をしとるんだね?」
「ほんと、なんのことか分からないんだけど、」
「しらばっくれてもいいけど、これだけは言わせて」
私には今まで言いたくて言いたくて我慢していたことがある。しかし言えなかった。これでも私はブルータスの無実をギリギリまで信じていたのである。ゆえに右手のツッコミを封印し続けてきたのだ。
けれどもう限界です。
「いちいち設定が古すぎる!!」
ビシっと突きつけた指先の向こうで、ブルータスはぽかんとしていた。
「は?」
「なんだよハンカチ落としましたよってぇえええ!!! ないない、ナッシン!! いつの時代のトレンディードラマ!? どこで知った? どこで観た? 少なくとも平成の世にそれはないわ――――!!」
「ちょ、リホちゃん、」
「台詞もなんかどっかでパクってきたのばっかだし、挙句の果てには一目惚れとかさああ!! ただでさえ中身知って好きになったって言われても信じられない私がそんなのにコロっと騙されるか!!」
一応声は抑えたつもりだったが、さっきから周囲の視線がちょっと痛い。
ああっ、離れていかないで! 衆人環視の中にいることで私は安全確認をしていたというのに!
「まあ、言いたいことはこれぐらいなので、そろそろ帰るね」
実際はまだまだ言ってやりたいことはあったが、まあよしとしよう。遅刻すんなとか、遅刻すんなとか、やっぱり遅刻すんな神谷かお前はとか言いたかったけど。やりすぎると恨まれるしな。
ホットドッグの包み紙を丸めて手にすると席を立つ。ブルータスはいつからか俯いていた。
「待てよ」
背中を向けようとしたそのときだった。低く抑圧された声が私の動きを制止させた。
「言いたいことはこれぐらい? まあ待てよ、俺の言いたいことも聞いてけよ」
ゆっくりと顔を上げたブルータスのその恐ろしいまでの形相といったらなかった。
キレイな人はラーメン食っててもキレイって言うけど、キレイな人が滅茶苦茶怒ると滅茶苦茶怖いことを私は今知った。キレイな顔を凶悪に歪めたブルータス、どうやっていたぶってやろうかと、その色素の薄い目が私を値踏みしていた。
「そうだよ、お前が言ったとおりだ。ショータ先輩の妹だから声掛けたんだよ」
シュっとした佇まいだった彼は、今や不穏なオーラを放っていた。黙っていてもヤバいと分かる人種がいる。彼がまさにそれだった。
「ほんとはもう一人の妹のほうにしようかと思ったんだけど、お前のほうがちょろそうだったしな。いかにもモテないって顔してるし、実際そうなんだろ? 男と二人で出かけるってだけでそんな気合入れた服着てくるんだもんな?」
馬鹿にしたように片頬を上げる笑い方が、実にしっくりくる。今までの笑みはやはり全部嘘だったのだと改めて思った。
これは今までの連中の中でも一等タチが悪いかもしれない。だいたいがバレると捨て台詞を吐いて去っていくか、バツの悪い顔をしてやはり去っていくかだった。
しかし目の前で悪びれる様子もないブルータスといえば、こっちをさらに傷つけてやろうという気力に満ち溢れている。また誰かを傷つけても平気でいられる図太い神経を持っていた。
私はいつしか椅子を盾にするように立っていた。なんですぐに列を離れて立ち去らなかったのだと後悔していた。
息がかかりそうなくらいに顔を近づけてくると、ヤツは言った。
「ショータ先輩の妹じゃなきゃ誰がお前みたいなブスに声掛けるかよ、バァカ」
何を言われてもいいように構えていたのに、胸に刺さったときの音は想像以上に大きかった。
傷ついた表情でも浮かべてしまったのだろうか、ヤツがそれはもう嬉しそうに笑った。
「ショータ先輩にチクるか? まあいいけど。ショータ先輩だってお前みたいなブス、迷惑に思って」
べぐっ、と鈍い音がした。
ツッコミに使うはずだった私の右手は、ヤツの顔面を振りぬいていた。
………なにやってんだ、……私。
「って、めえ! 何しやがんだ!!」
怒鳴り慣れているヤツの声に、肩がびくっと跳ねた。怖い。逃げたい。でも。
「何しやがんだはこっちの台詞だ!!」
勇気を出して搾り出した声は、情けないくらいに震えて、本来の半分の大きさも出せなかった。それでも絶対に泣きたくないのに泣いてしまいそうな目に力をこめて睨みつける。
「ブ、ブスで悪かったな! でもこんな私でも好きって言ってくれる男の子はいるんだよ! だからお前にいくら傷つけられたっていいもんね! 今度デートするんだもんね! 今日会ったのはそのときのための予行演習だバ――――――カ!!」
岩迫君がデートに誘ってくれた。
水族館行こうって、恥ずかしそうに言ってくれた。
でも二人きりで出かけたら絶対緊張して変なことになる自信がある。そんなときに現れたヤツの誘いを、私は利用したのだ。岩迫君と二人で会っても緊張しないように、失敗しないように。
考えたら私もけっこうひどいことをしている。しかも最初に手を出してしまった。これからもっと酷い状況になるのが分かって、震えと後悔と、あと私の中の野獣が止まらなかった。
「ブスでも隅っこで細々と生きてる私に突っかかってくんな! いつお前に迷惑かけた? かけてないだろ! 好きなことやって誰にも迷惑かけない私の人生っ、邪魔したらただじゃおかねえからな!!」
後半は声が枯れて喉が痛くて涙が出て。ぜえぜえと呼吸しながら、今本格的に水がほしい。
地面に落ちていた鞄を拾い上げると、私は今度こそヤツに背中を向けて駆けていった。