38、とりあえず一件落着と思ったら大間違いだった
文化祭からちょうど一週間たった金曜日。
六時間目終了のチャイムを心地のよいBGMとしながら、私は教科書を閉じるのも忘れて浮かれまくっていた。
明日は待ちに待った土曜日。学校はなし。
今日は夜更かしして録り貯めていたアニメを消化し、明日はもう少しでクリアしそうなゲームをやる。あと今日中に届くフィギュアがあるからそれを鑑賞するんだ。一人撮影会するのもいい。フィギュアの配置も変えないとなー。
傍目にもウキワクしていた私は、ようやく教科書を閉じ、鞄を手に取ろうとした。頭の中は二次元でぱんぱんに膨れ上がっていた。
「吉村。俺と一緒に帰らない?」
その二次元が、ひとりの男子生徒によって彼方へと吹き飛ばされていく。
岩迫君のそれほど大きくなかった声は、周囲の生徒何人かの動きを止めさせると、なんともいえない空気を発生させた。私といえば、なぜか後ろの席の甲斐君を振り返っていた。
「また来週」
お前はMCか、と私がツっこむ間もなく甲斐君は教室を去っていった。
いつもなら「なーなーラーメン食べたくない?」とか「今日何曜日だっけ?」とか1ピクセルも為にならない話題を振ってから帰る甲斐君が、さっさと帰っていっただと……?
いや待て、最近の甲斐君はおかしかった。兆候はあった。
どーしたんだよ、文化祭からおかしいぜー? と軽いノリで言ったら「チっ」と舌打ちされた一昨日。
いやそれにしてもまさかうちの部長がテニス部の副部長に告白して付き合うことになるとはねー、てっきり幼馴染の香坂先輩のことが好きだと思ってたのに、文化祭には魔物が住んでるってほんとだねー、と話題を振った私に「は? 魔物はお前だろ?」としゃくれ気味にキレられたのが昨日。
そして私のもの言いたげな視線を無視して帰っていった今日。
なんだよ私、前から拒否られてたじゃん、今に始まった話じゃなかったじゃん!
「吉村、聞こえてた?」
「……聞こえてたよ」
現実逃避すらも吹っ飛ばしてくれた男子生徒、岩迫君が、高い位置から私の顔を覗き込んでくる。
彼の背が、一学期よりも伸びている気がする。
「部活は?」
「今日はない。コート整備に、業者が入ることになってるから」
「スポーツバッグ持ってきてないと思ったら、そうだったんだ」
「だから、一緒に帰ろ?」
………あかん、あかんでぇえええ。
癖か、首コトンは癖だな。いや分かるよ、昔からの癖って治りにくいよね。私も小学校で習ったソーラン節が今でも唐突に出ることあるから気持ちは分かるよ。でもなんでだ、なんで五味が同じことするとラケットを押し付けて網目をつけたくなるのに、岩迫君だと直視できないんだ、誰かAEDをぉおおお!!
「無視?」
「いやっ、いやいやいや! えっと、あー、私、今日は漫研に顔出すつもりで」
「じゃあ待ってる」
「なに!」
待つとおっしゃる!
い、いいのか? 漫研がテニス部を待たせてもいいというのか?
「あ、いや、ちょっと話したらすぐに帰るんで、」
「じゃあ下駄箱で待ってたらいいよな」
「で、ですね」
おかしい。
おいこれ岩迫君か? ちょっと別人入ってないか。
文化祭以降、様子が変なのは、実は甲斐君だけではなかった。お隣の席の岩迫君も変、いや、変わった気がする。
遠慮しなくなったというか、前よりはっきりとものを言うようになったというか。そう、大人っぽくなった、これだ。
文化祭で一体何があったというのだ……………あったな、ありまくった。
「吉村に、聞いてほしいことがあるんだ」
耳元でぼそりと囁かれ、反射的に彼を振り仰いだ。そこにあったのは私の知っているようで知らない岩迫君の真剣な眼差し。
と、シリアスに表現してみたがヤベーこれってあのときの続きじゃねーの!?
分かってる、分かってるんだ。
甲斐君が怒っていたのは、文化祭で岩迫君に何も言わせなかったせいであるということを、私は分かっている。
分かってはいるんだけど、分かりたくない。
分かるかなー、この気持ち。
「吉村、ちょっと寄り道していい?」
「あ、はい、どうぞ」
「なんで敬語なんだよ」
「ちょっと緊張しておりまして」
男の子と下校を共にするなんて初体験である。
恥ずかしい。なんかとてつもなく恥ずかしいぞ!
こんなに恥ずかしいって知ってたら、小さいとき近所の高校生カップルを指差して「あっちっちだー」て言わなきゃよかった!
「吉村、ここに座って」
「あ」
「なに?」
考え事をしながら岩迫君についていっていた私は、気づけば見覚えのある風景を目の前にしていた。
ここは、以前兄とモリ君が殴りあった土手ではないか。
「………場所変えない?」
電車が唸りをあげて通り過ぎていくのを眺めながら、私はここで起こった血なまぐさい(主に私の鼻血のことだが)事件を思い出していた。
つまりはとてつもなく縁起の悪い場所なのである。
「公園は今の時間だと子供が多いし、ここだと皆通り過ぎてくだけだから、話をするにはちょうどいいと思ったんだけど」
駄目かな? とまたもや首をコトンと傾けられて、私はノーとは言い出せなかった。
諦めて傾斜した土手の上に腰を下ろすと、隣に岩迫君が座った。が、ちょっと距離が近い。隣り合う席で慣れた距離とは明らかに違う近さに、私は先制パンチをくらったボクサーのごとく後ろに仰け反った。
「逃げるなよ」
「い、岩迫君、」
「俺が今から何を言うか、分かってると思うけど、言うぞ?」
どこか遠くで誰かが鳴らした自転車のベルの音が聞こえる。さっき通ったばかりの電車がまた通過していく。でもどの音も、まるでスピーカーから聞こえるみたいで。
「好きだ」
顔が、熱い。
「俺は、吉村が好き」
私は咄嗟に両手で顔を隠そうとした。けれどかなわず。
「吉村は、自分に自信がないって言ってたよな。俺が思ってるような人間じゃないって。じゃあ吉村は? 俺のこと、どう思ってる?」
私の両手を捉える岩迫君の手も、同じくらいに熱かった。寒くなってきたね、と友達と言い合う季節だというのに、私たちは二人して体温を上昇させていた。
私はどこかで楽観視していた。彼はきっと途中でテンパって自滅するって、そんな失礼なことを考えていたのだ。
それなのに、今彼のペースに呑まれているのは私のほうだ。
「教えて」
「い、岩迫君は、格好良くて、」
「そう思ってくれてるんだ。嬉しいな」
「首を、傾げる仕草が、可愛くて、」
「可愛い、か? まあいいや」
「さ、最近、背がまた伸びてて、なんか、ちょっと、並ぶと私、はず、恥ずかしいような、」
「俺もそう思う。吉村は小さいままで、可愛いよ」
あ、吉村選手、もう限界ですね。
脳内で謎の実況がそう解説したのを皮切りに、私はばばっと岩迫君の手を振り払い、今度こそ顔を隠してくぐもった悲鳴を上げた。
「吉村、」
「やめろよ!」
恥ずかしいとか、いたたまれないとか、もうそんなレベルじゃなかった。
痛い、苦しい、のレベルだった。
「私のどこが可愛いんだよ! 眼鏡かけたオタクじゃねえか! 自分がもさいってことくらい分かってるよ!」
「もさい? 吉村は、賢そうだけど」
「もさいの意味分かってねえのか!」
違うんだ、こんなことが言いたいんじゃないんだ。
でも言葉が止まらない。本当は冷静に話を聞くつもりでいたのに、岩迫君があんまりにも的外れなこと言うから。
「なんか、すごい勘違いしてるんだよ、そうとしか思えない! 私、親にだって可愛いなんて言われたことないんだからな!」
「俺だって格好いいとか親に言われたことないよ」
「う、嘘だ、それは、岩迫君が忘れてるんだ、宿題もよく忘れてるし、」
「嘘じゃないって! ていうか吉村こそ、俺のこと格好良いとか可愛いとか言うけど、全然そんなことないからな! 吉村が思ってるほど、俺は凄くない!」
「っかー! 余裕の発言ですな!」
「なんだその馬鹿にした感じ! 吉村、さっきから口悪いぞ!」
「これが素なんだよ! 兄ちゃんの言葉遣いがうつったの!!」
「直せよ!」
「無理ですぅー」
「いいから直せ! よりにもよってなんであの人なんだよ!」
二人ともヒートアップしすぎて周りがよく見えていなかった。
たしかに公園よりも人気は少ないとはいえ、まったくいないわけではない。土手に腰を下ろした瞬間から、何人も前や後ろを通り過ぎていったし、最近流行りのウォーキングをする主婦なんかむしろ結構多いほうで。
「あらまあ奥さん、青春だわ、青春!」
「男の子のほう、格好良いいわねえ。うちの息子もあの半分でいいから顔が整ってればねえ」
「春日坂の制服よね? うちの娘が来年受験するのよ~」
「うちの息子もよ! 二人とも受かるといいわねえ~」
イチニイ、イチニイ、と歩き去っていく主婦数名。
…………オイぃいいい!! 「あっちっちー」よりタチの悪いのが通り過ぎてったぞ!!
あれだけ好き勝手言われて、じゃあもう一回怒鳴りあうか、という気にはさすがの私もなれなかった。岩迫君も同じようで、さっきまでの熱さが嘘のように肩の力が抜けているのが分かる。
私は大きく息を吐き出すと、眼鏡を外して両目をごしごしと擦った。なんだかひどく疲れてしまった。
「………私、分かんないや」
「なにが」
「好きってなんだよ」
「え、そこ?」
「そこだよ。そこしかないよ。私、男の子好きになったことないから分かんない」
二次元に恋はした。といっても、あれを本気の恋と呼ぶのかと言ったら正直首を捻る。
萌えは、恋なのか? 喋らない、触れない、でも別にいい。二次元ってそういうもの。
でもそれって、恋なのか?
「吉村、初恋もまだってこと?」
「そうなるね」
いいや、恋じゃない。
岩迫君という生身の人間に感じる恐れとか羞恥とか、あとトキメキとかは、びっくりするほど生々しくて私を混乱させる。
それに二次元は、私に「可愛い」とは言ってくれない。この先どうしようとは、思わせてはくれない。
不安にはならない安心の『好き』が、二次元への恋が、どれほど楽だったかようやく分かった。三次元の男の子が、どれほど大変な相手なのか、ようやく分かった。
「岩迫君、ほんとに私のこと好きなの?」
「好きだよ」
「即答か。すごいな」
「吉村は、俺のこと、………や、いいや。まだ聞かない」
そうしてくれると助かる。
なんせ「好きってなに? おいしいの? よーし食べちゃうぞモグモグ!」レベルだからな。
あー二次元ばっかに逃避してたツケがようやくここにきて回ってきたか。私も三次元の住人だったということだなー。
「と、ところでさ、吉村!」
「なに」
「あれから神谷に、……告白された?」
「されたよ」
メールでな。
『件名:俺はリホが』
『本文:好き☆ミ』
軽っ!
中身が入ってると思って持ち上げた空のヤカンだってもうちょっと重いわ! これだからあの人信用できないんだよ。いやあれ本当に告白なのか? やっぱからかってんのか? 件名から本文に繋がる感じとかムカつくわー。
「な、なんて返したんだよ、」
「無視した」
あからさまにホっとする岩迫君を見て、私はまたちょっと熱が上がった気がした。
……好き、じゃないよなーたぶん。
ドキドキさせられることはあるけど、それが慣れない男の子相手であるせいなのか、そうでないかは私にはまだ分からない。
私はあまりにも子供すぎる。それはもう岩迫君に申し訳なくなるほどに。
「そろそろ帰ろうか」
「送ってく」
「悪いよ、反対方向でしょ」
「いいんだよ。ていうか俺、さっきお前に告白したんだから、分かってくれよ」
「………うん」
「言葉遣い、いつの間にか戻ってる」
それだけで嬉しそうな顔ができるって、やっぱり岩迫君はすごい。
歩き出した私の隣に並んだ彼の顔を、もう正面から見られない気がした。
この話を上げようかどうしようか迷ったけど、上げなかったらこの先一生岩迫君が告白できない気がしたので上げ。