37、ガールズドントクライ
少女漫画でよく見る三角関係とやらを、私はいつも冷めた目で見ていたものである。
やめて! 私のために争わないで! と言いつつ、実質ヒロインはノリノリであったからだ。
どっちかが好きなら片方を応援すればいい。どっちも好きじゃないなら置いて帰ればいい。どっちも好きだからオロオロしてしまうヒロインに、私はまったく感情移入することができなかった。
しかしである。そんなヒロインに、私は今謝りたい。
「やめようよ岩迫君! ここ学校だよ!?」
気分はもう「殿中でござる!」だったが、格好は江戸時代でも今は平成である。私の言葉はまるで彼に届かなかった。
「神谷さん、ここは大人になりましょう! 一年早く生まれた余裕を見せ付けてください!」
上げて上げて作戦は、もちろん神谷には通用しなかった。というかちらっと視線が合っただけで、あとは無視だ。やつの目は本気だった。本気で目の前の善良な男子高校生を拳の餌食にするつもりである。
にらみ合う二人の間で板ばさみになった私は、まさに少女漫画のヒロインのごとくオロオロしっぱなしであった。
どっちも好きなの、などとアホなことを言うつもりはない。片方は大事な友達で、片方は兄の下僕、否、友人である。なによりここは学校だ。喧嘩などさせてみろ、神谷は痛くも痒くもないかもしれないが、私と岩迫君は痛いし痒いに決まっている。
「ビークールですよ、二人とも!」
英語の先生の口癖を真似て言ってみたが、またもや無視。ちなみに英語の先生の本当の言い方は「ビークールですよ、エブリワン!」だが、今はそんなことを説明している場合ではない。
「岩迫君、教室に戻ろうよ。私も一緒に行くからさ」
「ごめん吉村、ちょっと離れててくれる?」
「え、いや、ちょっと、本気で喧嘩するつもり?」
「大丈夫だから」
なにが大丈夫なんだよ!?
数々の修羅場をくぐってきたいわゆる不良の神谷に、喧嘩で勝てるとでも?
無理だよ! 不可能だよ! せめてテニスラケットを武器に持ってきなよ! 丸腰の状態で戦おうなんて、縛りゲーもいいとこだよ!
岩迫君なら懐柔させやすいと思ったけど、とんだ間違いだった。五味といい、岩迫君といい、体育会系は話を聞かねーな!
ていうかなんでこれから喧嘩するってことになってるんだ。
突然現れた岩迫君。それを見て私を解放した神谷。次にはもう、にらみ合って喧嘩する気まんまんな二人。
おかしい。前後がまるで繋がっていない。1+1=90000くらいおかしい。こんな無茶苦茶な式を書いた日には、鰐淵先生に「君は馬鹿なのか?」と真顔で言われそうである。
はっ、そうだ! 私しかいないから駄目なんだ!
第三者! ここは何の関係もない第三者を巻き込もう!!
他力本願な上に迷惑極まりないが、この状況を打破するには他人の存在が必要なのだ。というかもう私だけの手には負えないから誰か助けて。
しかし携帯電話は神谷に取り上げられたままだったし、二人を置いて誰かを呼びに行くのは憚られた。一秒でも目を離したら、二人は間違いなく少年漫画も真っ青な事態に突入しているだろう。
なんか前にもこんなことあったな。
そうだ、モリ君だ。彼と兄は、かつて殴りあったことがあった。
思えば大変な事件だった。最後は警察のお世話になって………まさかね、まさか今度も国家権力のお世話になるなんてことはないよね。そもそも110番しない限りは警察も召喚されないんだし、今ここにいるのも私たち三人だけなんだから、
「って、おいおい二人とも、ストーップ!!」
考え込んでいる間に二人の距離が恋愛的な意味じゃなくて物理的な意味で縮まっていた。
「ほんと何なの!? 岩迫君、君は喧嘩なんてしたことないでしょうが!」
「兄貴とならしたことある」
「そんな微笑ましいエピソードとこれからする喧嘩はまったく違うよ!」
「リホ、すぐ終わるからちょっと下がってろよ」
「呼び捨てやめてください! あーもー! 元はといえば神谷さんが来るからいけないんですよ!」
「違うだろ。リホのせいでこうなったんだろ」
神谷の言った台詞に、私は目を見開いて固まった。
「自分には関係ないって思ってた? 誰かに好かれるなんてないって思ってた?」
さっきまでピリピリとした雰囲気を発していたのに、今の神谷はどこまでも優しい顔で私を見ていた。
さらに何かを言おうとした神谷だったが、突然押しのけられると、唖然としながら見つめ返す私の視界に今度は岩迫君が強引に入ってくる。
「吉村! 俺、吉村のこと」
「オイコラ、割って入ってくんじゃねえよ」
「邪魔するなよ!」
「お前が邪魔。同じクラスなのに手も出せないとかありえねえから」
「だからこれからっ」
「俺が先に目を付けたんだから、俺が先だろ」
言い争う二人を目の前にして、私はじりじりとその場を後退していた。
先ほどの神谷の言葉が、私をこれ以上ないというほど動揺させていた。
神谷の指摘どおり、恋愛なんてものは私に関係ないものだと思っていた。恋とか愛とか、面倒くさいだけじゃないか。そんなものより、アニメや漫画を見ているほうが数倍楽しい。漫画を描いているほうが、ずっとわくわくする。
恋愛なんて、大したことない!
そうやって思っておけば、楽だった。恋愛ができないんじゃない、しないのだ。そう自分に言い聞かせておけば、気づかずにすんだ。
それなのに岩迫君が現れた。友達だったのに、仲良くなったころとは違う眼差しを私に向けてくるから、私は気づいてしまった。
大したことがないのは、私のほうだったのだ。
「よ、吉村?」
言い争いがいつのまにか止んでいた。岩迫君の焦った声がする。
泣いてはいなかった。
「私、自分に自信がない」
泣いてはいなかったが、声がどうしようもなく震えている。皺が寄るほど着物を掴みながら、弱々しい声でなおも言った。
「妹みたいに可愛くないし、できることって言ったら漫画描くことくらいしかないし、」
キタちゃんみたいに剣道が強いわけでもない。五味みたいに明るくもなければ、目の前にいる岩迫君みたいに人気があるわけでもない。
劣等感の塊、それが私だった。
「恋愛なんか興味ありませんみたいな顔してるけど、そうじゃなくて、ただ自分に、自信がないからであって、」
他人の評価なんて関係ねー。そう言える強さなんて、高校二年生の私は持ち合わせていなかった。本当は周囲のことを気にしまくりの、ちっちゃい人間だったのだ。
「私、岩迫君が思ってるような、やつじゃないよ」
前が見えにくい。目が熱くなって、さっきメグっぺの言葉で泣いたときのような嬉し涙じゃない涙があふれそうになってくる。
な、泣くな。ここで泣くとか、私すごい痛い子じゃん。自分の本性自覚したからって泣くかふつー。社会に出たら、今よりもっと辛いことが待ち受けてるんだぞ。
だから泣くな私!
「ごめ、なんかいきなり変なこと言って、こういうの、私のキャラじゃないってのは分かってるん、だけど、」
無理矢理涙を押さえ込もうとすると、不自然に言葉が途切れて、それ以上喋れなくなってしまった。
気まずい。
そもそも岩迫君は、私に決定的な言葉を言っていないじゃないか。これで私の勘違いとかだったら甲斐君を恨んでやる。
これ以上の醜態を見せたくなくて、私は慌てて後ろを向いた。二人が今どんな顔で私を見ているのか、想像するのでさえ心が冷える。
もっと可愛く生まれてきていたら違ってたのだろうか。自分に自信が持てたのだろうか。
でも可愛い顔をした自分がまるで想像できなくて、泣いているというのに私の唇はにやにやと笑っていた。なんで私ってこうシリアスな空気が保てないんだろうか。
そのときだった。背後で二人分の息を呑む音がした。同時に、私の視界が翳る。
てっきり太陽に雲がかかったのだと思っていたが、顔を上げた私の目の前にいたのは、よく知っている顔だった。
「………兄ちゃん」
家にいるんじゃなかったの?
そう尋ねる代わりに、溜まった涙がぽろぽろと零れ落ちて着物を濡らした。ひどく安心したので、涙腺が緩んでしまったのだろう。
「ほんもの?」
「当たり前だろうが、何言ってんだ」
めちゃくちゃ怖い顔で見下ろされているというのに、どうやら私はへらへらと笑っていたらしい。それも泣きながらだ。
なんでいるんだろう、そう疑問に思う前に、私の指は兄の服を握っていた。なぜか兄の体が思いきりびくっとしていたが、振り払われることはなかった。それどころか大きな手が恐る恐るのびてきて、私の頭に置かれた。
「あ、」
岩迫君が現れたとき、どうして兄だと思ったのか。不器用な動きでなでられながら、その理由をようやく悟った。
どうやら私は、苦手に思っていた兄をけっこう信頼しているらしい。
その気持ちを素直に告げた。少し背伸びして、背の高い兄によく聞こえるように。
「兄ちゃん、好き」
自然と出た言葉に、兄の動きは完全に止まった。そして後ろでは、
「そんなのありかよ!」
岩迫君と神谷が、同じ台詞を同じタイミングで放っていた。