35、貴方のせいで私びしょびしょ
「マジマジ? これリホちゃんが描いたの? スゲーじゃん」
「どうもありがとうございます」
「なあなあ、この点々、いちいち描いてんの?」
「それはトーンというんですよ」
「へー。あっ、リホちゃんの服によくついてる何かの切れ端、これだったんだ」
「………よくあるんですよ」
平常心だ、里穂子。恥ずかしがったら負けだ、里穂子。
「この主人公と脇役の男、なんかホモっぽくね?」
「気のせいですよー」
そんな隠し味程度の絡みでホモだなんて、言いがかりにもほどがある。これだから非オタは分かっとらんのですよ。
だったら言わせてもらうが、お前と兄ちゃんの絡みのほうがよっぽどホモだよ! 口に出しては言わないけど! 私これでも分別ある腐女子だから! あと身内には萌えないから!
こういう状況になることは、教室に神谷が現れたときから大体予想はできていた。
今私たちがいるのは、漫画研究部が展示室として借りた多目的室である。
その広さ、清潔さは、去年借りた化学実験室とはえらい違いだった。ちなみに弱小中の弱小である漫研は、毎年こぢんまりとした空き教室で細々と展示を行っていた。
それがなんということでしょう、広々とした空間、ギシギシ言わずに無言で開く扉、人通りの多い新校舎に我々はいるではありませんか!
これこそ鰐淵マジック。
顧問に就任したところで、毒にはなっても薬にはならないと思い込んでいたが、まさかのサプライズである。この多目的室を借りてきてくれたのは、顔面偏差値70オーバーの数学担当教師、鰐淵先生であったのだ。
「200円になりまーす」
「袋ある?」
「少々お待ちください」
「ってオイオイ、なにやってんですか!!」
私が脳内で鰐淵先生を褒めちぎっている隙に、神谷が会計を済ませていた。その手には、キタちゃん原作、私絵の、オリジナルの漫画が……。
「買わないでください!!」
「なんで?」
「恥ずかしいからやめてくださいっ」
「売っといて何言ってんだよ。あ、袋ありがとねー」
ぎえええええええええ。
と心のままに叫びたいところだったが、息を吸い込んだ瞬間、私はうっと呻いていた。
そうだ、着物着たままだった……。
返しに行きたいけど、今すぐはちょっと都合が悪い。私を見送るクラスメイトたちの表情といったら、「吉村まさかの悪女疑惑」という誤解も甚だしい感情が渦巻いていたのだから勘弁してほしい。
私そういうキャラじゃねーし! もう少し時間を置いて、双方共に頭を冷やしてから誤解を解くことにしよう。うん、決してめんどくさいわけではない。
それよりも今は、神谷の手に私の描いた漫画が渡ってしまったことが大問題である。
「うぅ…っ、身内に見られることほど恥ずかしいことはないっていうのに」
「あれ、俺ってリホちゃんの身内なんだ」
なにを勘違いしたのか、神谷が顔を近づけてくる。ニキビひとつない神谷のそれを半眼で見つめ、私は言ってやった。
「兄ちゃんの下僕でしょ? 身内です」
「リホちゃんはほんとにかーーーわいーーーなーーー!」
「いでえ!!」
分かっていたが、神谷の逆鱗に触れた私は、頭部鷲掴みの刑に処されてしまった。
なんだよ、本当のことじゃん。兄ちゃんより喧嘩弱いんだろ? 偉そうにしてんなよな、っぺ!
「その顔は反省してないなあ。リホちゃん、もっとお仕置きされたい? 俺とこれからラブホ行く?」
行ってなにすんだよ。
ちなみに学校から最寄のラブホは「べんきょうべや」という。この名前をつけた人はたいしたセンスだな!
「先輩、イチャつくなら教室の外でしてもらえます?」
「マリちゃんっ、先輩は今体と心の両方に暴力を受けてるんだけどなー、見えないかなー」
「カップルにしか見えませんよ。他のお客さんに迷惑なんで出てってください」
「だって。行こうかリホちゃん」
「いや、私、店番あるんで」
ひとりで行って来い、と言いかけた私にマリちゃんの援護射撃が。
「明日の店番代わってくれるなら、今日はいいですよ。行ってらっしゃい」
見事、私の背中に炸裂した。狙うところが違ーう。
また誤解をひとつ生み出した私は、神谷に手を引っ張られ、その場を後にしたのだった。
携帯には、キタちゃんからのメールの着信があった。
本来ならば、文化祭を一緒に見て回る相手は神谷ではなく、キタちゃんであったはずである。
しかし当の本人は、急遽クラスの出し物である演劇に出演することになり、今日一日身動きのできない体となってしまった。当日風邪を引いてしまったバーローのせいで、代役を引き受けることになったのである。
今日の私はとことんツイていないということがこれでハッキリとした。
今必死に台詞を覚えているらしいキタちゃんに、後で見に行く旨をメールした私は、続けて見た受信箱や不在着信に並ぶクラスメイトたちの名前に嘆息した。その中に、彼の名前はひとつもなかった。
返信するべきなのだろうが、気が進まない。嫌なことは後回しにしようと決めて顔を上げ、私は再びため息をつきたくなった。そこにはわたあめに顔を突っ込んでいる神谷がいた。
「さっきから食べてばっかりですね。そんなにお腹空いてたんですか」
「別に、そうでもないけど。ただこういう雰囲気好きなんだよ。夏祭りとかさ、見てると腹も減ってないのに食べたくなるんだよね」
口の周りについた溶けた砂糖をぺろりと舐め上げると、神谷は今までに見たことがないくらい無邪気な顔をした。
あら、可愛い。
近所のおばちゃんの口癖そのままに私は思った。基本、身内には萌えないのだが、何にでも例外というものはあるらしい。
「リホちゃんも食べてよ。実はちょっと腹いっぱいなんだ」
「……いただきます」
わたあめなんて久しぶりだなー。昔、小学校の通学路にあった駄菓子屋さんに売っていたけど、今は店自体がもうないんだよね。
「あまい」
口の中で一瞬にして溶けてしまったそれに、なぜだか頬が緩む。チープな味と一緒によみがえる昔の思い出だろうか。
「ただの砂糖の塊なのにな、なんでこんな楽しいんだろうな」
「理由が分からないからワクワクするんじゃないですか」
「なるほど」
あと周りの皆も楽しそうだから。と言おうとしてやめた。なんかクサい。
でも学校の空気がいつもと違うのは本当だった。文化祭ってこんなに楽しかったんだ。一年のときは、それに気づくことができなかった。
「手がべたべたになっちゃいましたね。あっちに水飲み場があるから、行きましょう」
二人でひとつのわたあめを完食すると、水飲み場のある旧体育館のほうへと足を向けた。
ところで、春日坂高校の歴史は古い。敷地の中には新旧入り混じった建物が混在しており、漫研の部室がある旧校舎は、昭和初期に建てられたものである。
そのとなりにひっそりと存在する旧体育館付近は、文化祭だというのに人気がほとんどない。新校舎が建てられると、以降、文化祭の出し物はそちらのほうで執り行われ、旧校舎側に用のある人間というのは、ほとんどいないからである。
辿りついた水飲み場には、案の定誰もいなかった。遠くのほうで文化祭の喧騒が聞こえてくる以外は、ひっそりとしたものだった。
「リホちゃん、ハンカチ持ってる?」
「袖の中に入ってます」
濡れる前に出しとけばよかったと思いつつ、濡れた手を前に突き出し、袖の中から神谷に取ってもらうことにした。
しかし。
「………いやいや、何ひとの二の腕触ってんですか」
「せっかくだから?」
「その発想とこの構図はおかしい」
「俺もそう思う」
素直に袖の中から手を引くと、ヤツは今度はなぜか私の両手を握ってきた。
「………神谷さん、あんたのせいで私の二の腕から手にかけてがびしょびしょなんですけど」
「私びしょびしょってもう一回言ってくれる?」
「悪ノリしてんじゃねーよ、ハンカチはどうした、ハンカチは」
「つれないなー」
横着せずに最初から自分で取り出せばよかったのだ。お気に入りのタオルハンカチで手を拭くと、渋々神谷にも貸してやった。
ついでに袖の中に入れておいた携帯で時間を確認しようとしたところで、私の動きは止まった。
「リホちゃん、この後どうする?」
話しかけてくる神谷の声が耳を素通りする。
次の瞬間、私は慣れない着物で走り出していた。
「え? ちょっと、どこ行くんだよ!」
「メグっぺのところです!!」
誰だよ、と返ってきたが、いちいち返事をしている暇はない。
メグっぺが、見知らぬ男子に引きずられるようにして、旧体育館の裏に消えていったのが見えた。
ひどく嫌な予感がした。