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32、そして私は蓋を閉じる

「吉村さん、吉村さん」

「あと五分…いや四分三十秒…」

「もうすぐお昼休みよ」

「えぇええ!?」

 びっくりして起き上がって時計を見ると、お昼休みの十分前だった。

 寝不足だったせいかぐっすり眠ってしまったらしい。三時間目だけならまだしも四時間目までサボってしまった。

「もっと早くに起こそうかと思ったんだけど、気持ちよさそうに寝てたから」

「す、すいません」

 お陰で頭はすっきり。気持ち悪さも綺麗さっぱり消えていた。

 私はベッドを下りて靴を履くと、篠原先生にぺこりと頭を下げた。

「相談に乗ってくださってありがとうございました」

「いいのよ。生徒の悩みを聞くのも私の務めだもの」

「先生ってなんかお母さんみたいで何でも話せちゃうんですよね」

「この職業に就いてからその台詞しょっちゅう言われるわ。私まだ三十台なのに」

 ぼやく先生にもう一度頭を下げて私は保健室を出た。

 まだ授業は終わっていないので廊下に人気はない。私は歩きながら携帯を開いてメールをチェックした。クラスメイトの何人かが心配するメールをくれていた。その中に岩迫君のは無かったけれど、これからなんだからと落ち込むのはやめにした。

 メールに返信しながら私は食堂に向かっていた。今日は寝過ごしたのでお弁当を作っていなかった。お陰で兄には睨まれ、妹にはブーイングを食らった。勝手な奴らである。たまにはそっちが作ってみろってんだ。

「あら、早いわね」

 食堂のおばちゃんは驚いていたけど、授業中に生徒が来ることには慣れているらしかった。私はパンと大好きな牛乳プリンを買った。

 食堂を出たところで四時間目終了のチャイムが鳴った。一気に騒がしくなった廊下を歩いていると、前から鰐淵先生が歩いてきた。目が合った瞬間、私は嫌な予感がした。

「四時間目、いませんでしたね」

「保健室で休んでました」

「ぐっすり眠ったんでしょうね。頬にシーツの跡がついてますよ」

 言ったと同時にノートの束を渡された。

「数学準備室までお願いします。君のノートは甲斐君が出してくれたので大丈夫ですよ」

 こっちは大丈夫じゃねえですよ。病み上がりの生徒にノートの山を持たせるってどんだけ。

「突っ立ってないで行きますよ。僕だって早くランチが食べたいんです」

 先生、私だって早くお昼ご飯が食べたいんですよ。




 薫り高い紅茶を目の前に、私は食堂で買ったパンを出すのを躊躇していた。

「食べないんですか」

「い、いえ、いただきます」

 私はなぜか鰐淵先生とランチをご一緒することになっていた。

 真柴さんが知れば泣いて悔しがりそうだが、叶うのならばどうぞどうぞしたい。

 先生は英字が印刷された小さな紙袋からサンドイッチを出して食べていた。

 それ知ってる…! 駅前のけっこう有名なパン屋のサンドイッチだ。それだけで八百円以上はするんだよ、高校生には贅沢すぎて手が出せないんだよ。

「欲しいのならあげますよ」

「い、いいんですか!?」

「そんなに見られていたら僕だって食べにくいですよ」

「あ、じゃあお礼に私のパンを」

「いりません」

 百五十円のパンなんてお口に合いませんってか。っぺ。

 それにしてもサンドイッチまいうーである。生ハムかこれ。さすが高価なことはある。

「美味しいです。ありがとうございます、先生」

「どういたしまして」

 紅茶を飲む先生に倣って私もカップに口をつけた。そして驚いた。

「先生っ、これすごく美味しいです!」

「おや、分かりますか」

 分かります。だっていつも安いのしか飲んでないもの。

 先生が手ずから入れてくれた紅茶はこう言ったら変かもしれないけど、サラサラしていて飲みやすかった。茶葉から入れた紅茶は皆こうなのだろうか。

「おかわりいりますか?」

「いただきます」

 パンを食べつくした私はデザートに入る。牛乳プリンをウキウキしながら開封してスプーンを突き刺しひと掬い、あぁ至福のとき。

「それ、そんなに美味しいんですか」

「食べたことないんですか!?」

「食堂に行ったことすらありません」

 この人どこの貴族だよっ、と思った私に罪はない。

 春日坂に通っていてこのプリンを知らないなんてモグリもいいところである。

「この牛乳プリンを知らないなんてありえない! いいですか、この牛乳プリンはプリン界のプリンスの称号を得ているほどで」

「市販のプリンにそんな大げさな」

「何言ってるんですか! この牛乳プリンをそこらへんのと一緒にしてもらっちゃ困りますよ。数量限定でうちの学校に卸されてるの知らないんですか。買うときは一人一個、すぐに売り切れちゃうんですよ」

 私は興奮も露にこのプリンの素晴らしさを語った。

 先生はどうせ知らないだろうけど、このプリンを食べたいがために春日坂に入学してくる生徒だって存在するのである。それぐらい凄いのだ。貴族は知らないだろうけど。

「そんなに美味しいのならいただきます」

「はい?」

「サンドイッチあげたでしょう」

「え、嫌です」

 鰐淵先生の表情が一瞬引き攣った。

 この人、他人に逆らわれるのが凄く嫌そうだな。

「そんなに食べたいなら自分で買ってきてください。もうないでしょうけど」

「いいから一口よこしなさい」

「だから嫌ですって!」

「生意気な。教師に逆らっていいと思ってるんですか」

「先生こそ生徒の食糧奪っていいと思ってるんですか」

 ところで数学準備室にいるのは私たち二人だけではない。英語準備室も兼ねるほどの広さがあるわけだから、他の教師ももちろん在室していた。

 というわけで私たちは多数の先生たちの前で、ものすごくレベルの低い争いをしていたわけである。

「ミズ吉村、一口あげなさい」

 私は英語教師の穂積先生に窘められ、

「鰐淵先生、そんなムキにならんでも…」

 鰐淵先生は同じ数学教師の伊藤先生に呆れられ、

「す、すいません、」

「……お騒がせしました」

 二人同時に謝る羽目になったのである。

 鰐淵先生はものすごく不服そうだった。プライドの高い人だ。

 私は仕方なく、本当に仕方なく鰐淵先生にプリンを一口差し上げることにした。

「美味しいですね」

「でしょう?」

「思っていた以上です。うん」

「ちょっと! なに二口も食べてるんですか! あ、三口!?」

 悪魔がいる。

 私の牛乳プリンはあっという間に半分も食べられてしまった。

「ご馳走様でした」

「最低! 信じられない!」

 教師採用試験では人格も審査するべきだと思う。じゃないと悪魔が私たち天使の学び舎に侵入することになる。現に私の心はズタボロだ。

「紅茶にサンドイッチもあげたんですよ。これくらいもらって当然じゃないですか」

「言い訳なんて聞きたかないですよ。もういいです、帰ります」

 そう言いつつも私は残りのプリンを食べ、おかわりの紅茶をしっかり飲み干してから準備室を退室したのだった。




 鰐淵先生のせいで昼休みはあと十分しか残っていなかった。

 次の授業はなんだったっけ。ぼんやり考えながら歩いていると、私の体は突然後ろに引っ張られた。

「わ!?」

 驚いて後ろを見ると、そこには息を乱した岩迫君が立っていた。彼はびっくりして声も出せない私を睨みつけると、今まで聞いたことがないくらい大きな声で怒鳴りつけた。

「どこに行ってたんだよっ、心配しただろ!!」

 口を開けてぽかんとする私に、彼は焦れたように腕を引っ張った。

「こっち来い!」

 私は引きずられるがままに屋上へと繋がる階段の踊り場まで連れて行かれた。

 使わない机や椅子が置いてある踊り場は人気はないけどホコリっぽい。

 私は一体何を言われるのだろうと戦々恐々としていた。岩迫君は昨日とは比べものにならないくらいに怒っていた。

 こんな不意打ち聞いてない。篠原先生、こういうときはどうしたらいいんですか。岩迫君が怒りで我を忘れてるんですが。

「なんで保健室からまっすぐ教室に戻ってこないんだよ! 俺、どっかで倒れてるんじゃないかって心配したんだぞっ、なのに平気な顔して歩いてるし、俺、昼メシ食ってねえし、」

「岩迫君…」

 ずっと探してくれてたんだ。

 なのに私ときたら鰐淵先生とプリンの取り合いなんかしていた。申し訳ないにもほどがある。

「……昨日からギクシャクしてんのに、なんだよ、俺だけかよ、お前と仲直りしたいと思ってんのは、俺のほうだけなのかよ」

「そんなことないよ! 私だって仲直りしたいって思ってるよ!」

「ほんとに?」

「ほんとほんと!」

「じゃあ雨宮と何があったんだよ」

「え」

 途端に口を閉ざした私に、彼は悲しそうな表情を浮かべた。

「雨宮に聞いても答えてくれなかった。……そういうの、やなんだよ。俺だけ知らないのが、なんかすげえ嫌だ」

「でも、モリ君とは別に」

「その呼び方もやだ!」

「えぇ?」

 突然、彼の怒りが子供っぽいものに変わった気がした。

 私は虚を突かれて、瞬きを繰り返しながら彼を凝視した。

「『モリ君』ってなんだよ、なにそれすげえムカつく! 俺のことは『岩迫君』なのに、なんで後から知り合ったあいつのほうが仲良いみたいになってんだよ!!」

 詰め寄られた私は答えを持っていなかった。

 それこそ「なんとなく」である。


「雨宮のことはこの際もうどうでもいいよ! 俺が腹立つのは、吉村が他の男と仲良くしてるってことなんだよ!!」


 言ってしまってから、岩迫君はハっとした顔になった。それから徐々に頬を赤く染めていった。

「あ、いや、違う、今のナシ!」

「うん」

「納得すんなよ! あぁもう!」

 岩迫君は一人で悶えていた。

 私はさっき言われた言葉の意味を考えようとして……やめた。だって岩迫君がナシだって言ってたし。うん、忘れよう、そのほうがいい。

「ねえ、岩迫君」

「なに!?」

「そろそろお昼休み終わるよ」

 予鈴のチャイムはとっくに鳴っていた。私たちは何かを誤魔化すように慌てて教室に戻ったのだった。




 その日、めでたく私たちは仲直りしたわけだけど、前とは少し違うような……いや、やっぱりやめておこう。

 めでたしめでたし、である。

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