23、人として軸がズレている
「美術館のチケットがあるんだけど、リホちゃん興味ある?」
神谷はいつも唐突な男である。
その日も私の部屋のドアをノックもしないで入ってくるなりそうのたまった。
言いたいことは色々あったけどこの男のことだ、右から左に受け流すに違いない。だったら言うだけ無駄だ。私は非生産的なことはやらない主義なのだ。
「このチケット、今までたらい回しにされて俺のところに来たんだよね。遊園地とか水族館ならまだいいけど、美術館に積極的に行きたがる女の子なんて少ないし、よかったらリホちゃんどう?」
見ると、誰もが一度は聞いたことのあるような有名な画家の美術展のチケットだった。でも積極的に行きたいかと聞かれれば答えは否だろう。どうせ観るなら漫画の原画展のほうが百倍は楽しいと思う。
「まあでも、くれるって言うんならもらっときます」
「観に行くの?」
「タダだし。後学のために」
二枚あるからキタちゃんでも誘ってみようかな。うん、意外とキタちゃんこういうの好きそうだし。
「じゃあ明日の十時に駅前の時計台に集合な」
「は?」
私が何かを言う前に、神谷は部屋を出て行った。
翌日、十時になっても神谷は現れなかった。
どうやら私はかつがれたらしい。半信半疑ではあったけどそれでも一応やってきた私が馬鹿だった。
神谷のボケ。お前なんか女に刺されて入院してベテランのオバちゃん看護師に迫られてトラウマつくればいいんだ。
十時半になったら帰ろう。そうだな、せっかく外に出たんだから漫画喫茶に寄るのもいいかもしれない。そうだそうしよう、手塚先生待っててください。
「ごめーんリホちゃん、待ったー?」
斯くしてきっかり三十分遅れで神谷は姿を現した。
三十分も待ってた私、超エラい。正確には十分前に着いていたから実質四十分待っていたんだけど。
来なかったら神谷のメルアドを消去しようと思っていたところに、やつはまったく急ぐ素振りもなくやってきた。息ひとつ乱してねえ。
「早いねー」
「……今何時ですか」
「十時半だよ。携帯忘れた?」
いるよいるいる、遅刻はオシャレだと思ってる人種が。
まったく悪びれない神谷に怒りが募る。言いだしっぺが遅れるなんてあり得ない。この仕打ちに彼女とかは怒ったりしないのだろうか。それとも何か、来ただけでもありがたいと思えなのか、えぇオイ。
「なにしてんの。早く行こうぜ」
たった三文字でいい。謝ってくれ。な? 今ならリホちゃん許してやるからさ。
さっさと『ごめん』って言わんかい。
「リホちゃんと二人で出かけるの初めてだよな」
ギュ!
…………ん?
「神谷さん」
「なに?」
「この手はなんですか」
「それって謎かけ?」
いやいやいや………いやいやいやいや!
繋いでるしっ、ねえからっ、そういうの駄目だからっ、男の子と繋ぐの幼稚園のとき以来だからっ。
「顔赤いよ。なに、俺のこと好きだったの?」
「んなわけないでしょ。私たぶん雄ゴリラと手を繋いでも顔赤らめますよ」
「リホちゃんは相変わらずズレてんなあ」
その後どんなに振り回しても神谷は離してくれなかった。完全に嫌がらせである。
電車に揺られて三十分。
美術館に到着すると、入り口の外まで行列が伸びていた。
「嘘、マジ?」
「こんなもんでしょ」
有名な画家ともなるとこれくらい当たり前である。もっと人気があると目の前の比ではない行列ができあがる。
たった一列でうんざりしている神谷を見て、やつが今まで美術展というものにまったく縁がなかったのは容易に分かった。
「ほら、暑いんだからさっさと並びますよ」
「えー行くの?」
「私は行きます。嫌ならそこの喫茶店で茶でもシバいといてください」
「分かった。行くよ」
渋るなら最初から来なきゃいいのに。高校三年生にもなって見通しの甘いやつだ。
「俺、今度からは絶対デートに美術館は選ばないよ」
「神谷さんの場合、そうしたほうがよさそうですね」
「………ほんとズレてんなあ」
なんのことか分からなかったので無視した。
幸い列は美術館の影になっていたのでそれほど苦にはならなかった。三十分ぐらいで屋内に入ることができた。
美術館の雰囲気は好きだ。
温度と湿度が設定された建物の中は実に心地が良い。天井も高いし、来場客のひそひそ声も雰囲気に一役買っていると思う。
私が独特の空気に浸っていると、ぐいっと体が引っ張られた。
「歩くの遅いよ」
「ちょっと待ってください。美術館はそんなにスタスタ歩く場所じゃないんですよ」
「早く観て早く出たい」
「じゃあ別行動しましょう」
「やだよ。一緒に来た意味ないじゃん」
小声で言い争っていると、後ろに並んでいた老夫婦に笑われてしまった。
超ハズい。神谷、お前のせいだぞ。
なんだかんだで結局一緒に観て回ることで落ち着いた。これがイベントだったら別行動は当たり前なんだけどな。
来たからには元を取らないと気が済まない貧乏性な私は、たぶん買い物にうるさい主婦並の眼光の鋭さで絵の端から端まで見ていたと思う。食い入るように絵にかじりついていると、繋いだ手がくいくい引っ張られた。
「リホちゃん、面白い?」
開始早々、神谷が飽きていた。
「面白いですよ」
「そう? 俺にはまったく意味が分かんない。綺麗だとは思うんだけど」
「いいんですよそれで。綺麗だなあって思う心、プライスレス」
大なり小なり心を動かすってことは実は凄いことなんだぞ神谷。
私もいつか自分の漫画でたくさんの人の心を動かしてみたいもんだ。壮大な夢かもしれないけど、そうやって夢見る心もプライスレスなのだ。
「それにただ描いてるってだけじゃないんですよ。ほらほら、この絵を見てくださいよ。わざと人物をずらして端のほうに描いてるでしょ。空いた空間がこの人の寂しいなーって気持ちを表してるんです」
「そんなこと説明書のどこにも書いてないけど」
「書いてないけど察しろよってことですよ」
それから私の勝手な解釈を交えながら絵画を巡っていった。神谷は私が作ったストーリーにときどきツッコミを入れたり笑ったりして、少なくともつまらなそうではなかったので元は取れたと思う。
「うわ、もうすぐ二時だよリホちゃん。けっこういたんだな」
美術館を出るころには当然お腹が空いていた。駅からここに来るまでによさげなレストランがいくつかあったので、そのひとつに私たちは入ることにした。
席に座ると、私はそこで初めてずっと手を繋いでいたことに気がついた。温もりが離れて逆に変な感じがした。ていうかなんで手なんか繋いでたんだ。
「奢るから何でも好きなの頼んでいいよ」
気恥ずかしさはその一言で吹っ飛んだ。
やったね。がっつり食べますよ。
今なら何でも入る気がする。私は上機嫌でエビフライとハンバーグのセットを注文した。
「リホちゃんってさ、ズレまくってるよな」
「は? なんです?」
注文した料理が来て食べていると、神谷が突然そんなことを言い出した。今日すでに何度か言われた気がする台詞だった。
「普通さ、男の前だともっとお淑やかに食べない?」
「はぁ」
お腹が空いていたせいか私の食べっぷりは豪快だった。がつがつとまではいかないけど、もりもり食べていたと思う。
「小鳥のようにちまちま食べろってことですか」
「そうは言ってないけどさ」
「お淑やかに食べてたら料理が冷めちゃいますよ。美味しいものは味わいつつどんどん食べるのが一番です」
「うん。俺もそう思うよ」
「ところで神谷さん、クリームコロッケとエビフライ交換しませんか」
「いいよ」
なんかもう諦めた、というふうに笑われたのが気になったけど、熱々のクリームコロッケを目の前にしてそれは瑣末な疑問にしか過ぎなかった。
「またデートしようよ」
家の前まで送ってくれた神谷がおかしなことを言いだした。
「デート?」
「そうだよ」
「言いだしっぺが遅刻してきて一言も謝らなかったこれがデート?」
「三十分くらい、いいじゃん」
いやいやよくねえじゃん。
オーケー、分かった、理解した、いっつもこうなんだな。相手待たせて当然なんだな。
私ははぁ~っとそれはもう盛大にため息をついた。
「神谷さんってズレてる。もうズレズレ」
「それはリホちゃんだろ」
「私、今日は時間前集合だったもんね! 三十分以上待たされて周りに『あの子スっぽかされてやんのププー!』って思われたんだよ、なのにちんたら歩いてきやがって謝れコラー!」
「十時って言ったら普通は十時過ぎのことだろ」
「そんなの聞いたことねえよ! 映画は前戯といい神谷語録には碌なのがねえな!」
「メールしてくれたらよかっただろ。来てるって分かってたら俺だって走ったっつーの」
「逆ギレ!? そこで素直に謝ったら少しはズレも直るのにほんと駄目だな! このズレ谷!」
「ズレ子に言われたくねえよ」
拳? 拳いっちゃうかコレは。
喧嘩番長を兄に持つ私だ、やればできる。マグレでもいいから一発ヒットさせてやる。こいつのひん曲がった根性に渇を入れてやるのだ。
「こっちはまたデートしようって言ってんだよ、そっちこそ素直に頷いとけよ!」
「っわ、」
言い終わらないうちに握った拳を掴まれ引っ張られる。突然のことだったので私は踏ん張ることができなかった。
神谷に正面からぶつかった私は痛む鼻を押さえてなんとか顔を上げた。神谷の顔が近い。
「リホ」
背後で兄の声がした。神谷の動きがぴたりと止まった。
「家の前で騒いでんじゃねえ。早く入れ」
「う、うん」
なぜかは分からないけどものすごくお怒りのご様子だったので私は素直に従うことにした。
一瞬、神谷が抵抗するように手を引っ張った気がしたけど、本当に一瞬のことだったので気のせいだったと思う。私がそそくさと家に上がると、兄が外に出て玄関の扉を閉めた。
数秒後、何かを打つ音がしたのだけど、早々に階段を上がっていた私の耳に届くことはなかった。
もうすぐ夏が終わる。