20、真夏の戦い
私は幼稚園児のときから翌日に遠足などのイベントがあると眠られなくなる子供だった。
ただいま朝の六時。やっと寝られたのがたしか三時だったので何時間眠ったのかは言わずとも分かる。
しばらくボーっとしていると突然携帯が鳴った。
「もしもし…」
『おはよう。起きてた?』
「はんぶん…」
『洗面所に行きな。寝たらぶっ飛ばすよ』
「うぃ…」
キタちゃんにモーニングコールを頼んでおいてよかった。私はふらふらしながら一階の洗面所に向かった。
冷水で顔を洗ってようやく目が覚める。それからリビングに向かってお湯を沸かし、もう一度二階の部屋に戻った。
二度寝したい誘惑と戦いながら前日に決めておいた服を着て、荷物を玄関に運ぶ。ちょうどお湯が沸いたのでインスタントのスープと菓子パンを食べた。
テレビをつけてお天気コーナーを観てがっくりする。余裕の30度越え。外に出るときは水分補給をしっかりしましょうとお姉さんが言っているのを聞いて、私は冷凍室に入れておいたペットボトルの存在を思い出した。
再び洗面所に行って歯を磨き、収まりの悪い髪を整えた。暑いのでひとつに纏めてお団子にした。
時計を見ると六時四十分。七時に駅に待ち合わせだからもう出ないとならない。
買ったばかりの日傘を持って、私は家を出発した。
地元の駅に到着すると、やっぱりだけどすでにキタちゃんがいた。私とお揃いのカートを持っている。
「おはよう、キタちゃん」
「おはよう」
「聞いてよ、出る直前に兄ちゃんに見つかっちゃってさ」
話しながら歩き出す。夏休みの朝七時の駅は人もまばらだった。だけど私たちと同じようなカートを引っ張っているお姉さんを見つけた。目が合うと頷かれた。おぉ同士よ。
「朝っぱらからどこ行くんだって聞かれて、」
「なんて言ったの」
「フリーマーケットって言っといた」
「それいいね。私も今度からそう答えようかな」
同人即売会と正直に親兄弟に言っているオタクは果たしているのだろうか。…いたな、部長がそうだ。五味も普通に言ってそうである。
途中、乗り換えの駅でマリちゃんと合流し、三人で喋りながら会場に向かった。
会場に近づくにつれ次第に目的を同じとした人たちが増えてくる。気合の入ったファッションやお馴染みのカート、やたらでかい鞄となんだか分からないが同じ匂いをまとった人たちは互いが互いを見れば容易に分かる。
「メグっぺは来れないんだよね?」
「はい。夏休み前くらいになって、やっぱり行けないってメールをもらいました。私の気のせいかもしれないですけど、最近めぐちゃんと放課後の部室で会わなくなりましたよね」
「マリちゃんもそう思う? 昼休みもいない気がするんだよね。友達と食べてんのかなあって思ってたんだけど実際どうなんだろ」
残り一枚のサークル入場チケットはそういう事情からマリちゃんに渡った。五味は部活があるからと泣く泣く身を引いたのである。
「彼氏ができたのかもね」
とキタちゃん。私とマリちゃんは電車内で色めきたった。
ま、マジか、夏なのに春が来たのかメグっぺ…!
「実際はどうか知らないけどね。ほら降りるよ」
車内アナウンスが駅名を告げる。私は慌ててカートを持ち上げホームに降りたった。
約一時間半電車に揺られ、ようやく私たちは会場に到着した。
「おはようございまーす」
隣同士のサークルさんと挨拶を交し合い、いざ準備。
持参したテーブルクロスを広げ、量が量だけに印刷所から直接届けてもらった新刊を並べる。既刊も少しだけ持ってきていたので空いたスペースに置いた。去年はうっかり忘れた値札もちゃんと作ってある。
「私、最初に店番しなくていいんですか?」
「いいよいいよ、その代わりにお使い頼んでもいい?」
私は部長から渡されたメモとお金をマリちゃんに託した。キタちゃんには私の分のお使いを頼んである。
「じゃあいってらっしゃい」
狩の時間だ。会場がいっせいに動き出した。
始まってから三十分。サイトを知る客さんがちらほら来てくれたり、キタちゃんのファンを自称するお客さんも来たりと私に暇な時間はなかった。
行きかう人たちは真剣な顔で、でもどこか楽しそうな顔をしていた。雰囲気だけでもなんだか嬉しくなってしまう気持ちはよく分かる。
「あのぅ、」
「あ、はい!」
キタちゃんの新刊と私の新刊を一冊ずつ買ってくれたお客さんがいた。どっちか聞かれたのでサイトで名乗っている名前を告げると、毎日訪問してますと言われて私は舞い上がってしまった。
照れるな。声が上擦ってしまう。おぉ、握手、こちらこそありがとうございます。
緊張で汗をかいてしまった。ベタつく手の人だと思われやしなかっただろうか。
お客さんを見送り、私はタオルで顔をぬぐいつつ「グフフ」と笑った。
「これください」
「はっ、はい、」
慌てて顔を上げると、そこにいたのはなんと五味だった。
「……あんた何やってんの。部活は?」
「急遽休みになったんっすよ」
「ほんとに? サボってきたんじゃなくて?」
「ほんとのほんとに休みっすよ! なんならサコ先輩に聞いてください!」
疑わしいがそこまで言うのなら本当なのだろう。
それにしても五味、イベント会場が最っ高に似合わない男だな。
「新刊三冊出したんだ、すげー」
「五味君、それあげるからどっか行ってくんない?」
「リホ先輩、さっきからひどいっすよ」
周りを見ろ、オタク女子の皆様がお前を遠巻きにしてらっしゃるぞ。
一応この辺りはBLばっかりだから男は異質な存在になりうるのだ。女性専用車両に入り込むより気まずいはずなのに、五味は空気が読めていない。
「お客さんが寄り付かなくなるだろ。ほら、飴もあげるから立ち去れ」
「じゃあ後でまた来ます。終わったらメシ一緒に食べに行きましょうね!」
しっかり飴を受け取った五味は笑顔で去っていった。夏の大会に備えてこんなところにいる場合じゃないってことをやつは自覚しているのだろうか。
開始から一時間ほどしてマリちゃんが帰ってきた。
「もういいの?」
「はい。部長の本と、あとどうしても欲しいのは手に入れましたから」
マリちゃん嬉しそうだ。でも五味が会場にいることを告げると「何してんですかねアイツ」と若干テンションが下がっていた。
「値札があるから大丈夫だよね。あと小銭なくなりそうになったら電話してね」
「はい」
「じゃあ行ってくるね」
マリちゃんに店番を任せ、私は差し入れと新刊を持って知り合いのサイトさんに挨拶に向かった。メールではもう何度も親しいやり取りをしているけど会うのはこれが初めだから緊張感がハンパない。キタちゃんに一緒に来てもらったらよかったかな。やばい、また汗かいてきた。
あの人だよねとサークル番号を確認して、私は一度深呼吸した。私、普通だよね。変じゃないよね。
私はドキドキしながら声をかけた。
「そうなんです、会社員二年目なんですって。関西から来たって言ってましたよ。メールでもそうだったんですけど喋っても面白い人なんです。あ、携帯のメルアドも交換しちゃいました」
無事イベントを終え、五味を加えた四人で食事をした後帰路についた。
家に到着してからも私は今日の興奮が忘れられず、部長に電話していた。頼まれた本は無事手に入ったことを告げると部長は受話器の向こうで喜んでいた。
「さっきも携帯にメールくれたんです! 思わず保存しちゃいました。あはは、キモいのは分かってますよ」
それから病院の消灯時間まで話し込み、私は携帯を切った。今日一日のことを思い出すと途端に口元がニヤけてしまう。
「カレシ?」
「わっ、なんだカナか」
またノックもしないで勝手に入ってきたな。
こっちが文句を言う前に、妹のカナはにやにやと笑いながら訳知り顔で頷いた。
「ふーん、リホのくせにやるじゃん」
「は?」
「どんな男かは知らないけど、がんばりなよ」
「はぁ」
お前はなにを言ってるんだ。
カナは分かってる分かってると言いながら私の部屋にあったゲームソフトを持って部屋を出ていった。
いったいやつは何を分かったんだというのだろうか。
疑問を残しつつ、私の夏の一大イベントは終了した。