19、ドイツ人形と夏の夜
夏休みはもうすぐ目の前である。
戦の準備はすべて終了した。あとは当日まで元気に過ごすだけだ。夏風邪ひいちゃったんだよ~とへらへら笑っている隣の席の甲斐君とは机を離しておいた。
気の早い先生はすでに夏休みの宿題を出している。数学の鰐淵先生は鬼のような量の宿題を提示し、私たち生徒を辟易とさせてくれた。あの人は自分が自分を好きでさえいればいいので他の人間からの好感度など気にしてはいないようだ。
ちなみにうちの学校は夏休み明けに定期テストが待ち構えているので油断ができない。その後に体育祭、文化祭、二年生なので修学旅行がある。正直、体育祭は憂鬱だった。雨で中止になればいいのに。
カレンダーに予定を書き込んでみると、今年の夏休みは去年よりも充実していた。キタちゃんはもちろん、漫研の後輩やクラスの友達と遊ぶ約束をしたからだ。予定だけ見てるとリア充っぽいな私。
夏休みが始まる前に、私には行くところがあった。
財布を持ち、目的地までの電車の乗換えをチェックする。時間に余裕を持って家を出ると、外はギラギラ太陽がアスファルトを焦がしていた。
開けた扉を再び閉めた私を責めないでほしい。
駅近くの雑貨屋で日傘を買おうと決め、私は玄関の扉を開けた。
「待ってたよーリホちゃん!」
某病院の個室を訪ねた私を熱烈歓迎してくれたのは、我が漫画研究部の部長である。
不幸にも交通事故に巻き込まれ全治三ヶ月の重症を負った彼女だが、退院が近いこともあって元気そうだった。
「外暑かったでしょ。来てくれてありがとね」
「いえいえ、ろくに顔も見せずにすいません」
「その手に持ってるお菓子をくれたら許してあげよう」
私は病院に行きがてら購入したドーナツを部長に進呈した。チェーン展開しているやつではない、百貨店に期間限定で出店していた有名店のドーナツである。
一階にあった売店で買ったお茶と一緒に、私もご相伴に預かった。部長はいかに病院食が不味いかを説きながら、あっという間にドーナツ三個を食べてしまった。
「そういえばもうすぐだね」
何がとは言われなかったが、私はもちろん心得ていた。部長は大仰に頷いてみせると、枕の下から小さなメモの切れ端を取り出した。
「なんでそんなとこに?」
「だって大事なものだもん」
英語と数字の羅列が並んだメモを受け取り、私は大事に仕舞いこんだ。最近は病室でもインターネットができるので、部長は傷を癒しながら目当てのサークルを調べたらしい。
「行けないことはないんだけどね、パパが駄目だって言うんだ。どうしても行きたいなら付き添いするって」
「うわあ」
「ってなるよね。どこの世界に親同伴でイベントに行くオタクがいるっていうのよ。ただでさえパパは目立つのに」
「部長単体でも目立ってますよ」
「そうかなあ」
部長は納得いかないと言わんばかりに金髪に指を絡めてくるくるさせた。
人形みたいに綺麗という表現がこうもぴったり当てはまる人を、私はこの人以外に知らない。
緑色の目はカラコンなどではなく、金髪は地毛。ドイツ出身の彼女の名はベアトリクス・幸子・ルーヴェンという。
小学生のときから日本に住んでいる彼女は言葉に不自由することなく高校生活を謳歌していた。不幸が襲ったのは今年の五月。同人誌を売りに行く途中に酒酔い運転の車に跳ねられたのである。
血を流して横たわる彼女の周りにばらまかれた大量の同人誌……後から話を聞いた私たち漫研のメンバーはあまりの恐ろしさに身悶えしたものだ。せめてただの漫画であれば、と部長の身に降りかかった不幸に同情せずにはいられない。
「北川ちゃんからメールで聞いたよ、二人で漫画描いてるんだってね」
「はい。文化祭で出そうと思ってます」
「いいなあ。私が入院してる間に楽しそうなこと始めちゃってさあ」
「さすがに病院でコスプレはできないですよね」
「やったら追い出されるわよ」
趣味に精を出すこともできずよっぽど欲求不満と見える。私は鞄から出しかけた雑誌を元に戻そうとしたのだが、目ざとい部長に見つかり結局彼女に渡すことにした。
「わーありがと!」
「とりあえず目に付いたものを買ってきました。でも読んだら余計に辛いかなって思ったんですけど」
「そんなことないよ、気が利くねえ! さすがにパパに買ってきてとは言えなかったから、読みたくてたまんなかったんだよ」
買ってきてよかった。嬉しそうにコスプレ雑誌を捲る部長を見ながら、彼女のパパさんが犠牲にならなくて済んだことに私は満足した。
「後輩ちゃんたちとはどう? 私ってばろくに顔も合わしてないうちにこんなことになっちゃったからさ、一応気にはなってるんだよ」
「三人とも仲良しですよ。放課後よくお喋りしてます」
「智子はどう? あいつほとんど来てないでしょ」
「トモ先輩は吹奏楽部が忙しそうですね。なんかパートリーダーとかいうのになったから、おいそれと来れないみたいです」
「あぁ、メールで言ってた。今年こそは万年銅賞から脱却するんだって吹奏楽部の部長が息巻いてるんだって」
放課後の部室にホルンを持ったトモ先輩がときどき訪ねてくる。といっても五分くらいなもので、お菓子とジュースをつまんで慌てて帰っていくのが常だ。夏に開催されるコンクールに向けて吹奏楽部は運動部ばりの練習をしているらしい。
「私が無理言って入部させたようなもんだけど、なんかごめんね」
「気にしないでください。私たちだってお喋り以外に大したことはしてませんし。それにトモ先輩も色々と気を使ってくれてますよ」
「そう?」
「去年のテスト問題くれました」
「テスト! うわーもうちょっとやめてよ、嫌なこと思い出させないで!」
禁句だったのか、先輩はベッドに突っ伏してしまった。入院中に先生監督のもとテストが行われていたというのだが、結果は散々だったらしい。
その後、世間話を小一時間ほどして私は帰ることにした。
あれだけ存在を主張していた太陽も帰るころにはとっくに沈み、辺りは薄闇に包まれていた。
駅から家までの道を歩いていると、キタちゃんからのメールが来た。今日は本当なら二人で部長のお見舞いに行くことになっていたのだけど、キタちゃんの都合が合わずそれに対する謝罪のメールだった。
部長、元気だったよ。
ぽちぽちボタンを押していると、不意にすぐ目の前に誰かが立ったのが分かった。
「変態!!」
鞄を振り上げた私に変態は驚いて一歩後ずさった。丁度外灯の下だったので、変態の顔を見た私は驚いて声を上げた。
「なんだ、兄ちゃんか」
「声かけたんだぞ。なのになんで変態呼ばわりされなきゃいけねえんだよ」
「ごめんね、全然気づかなかった」
兄の眉間に皺を寄せた顔が外灯に照らされる。それには中々の迫力があったので私は愛想笑いで許してもらうことにした。
「どっか行くとこだったの?」
「別に。帰るぞ」
背中を押された私は不思議に思ったものの、まあいいかと歩き出した。
隣を歩く兄となんの会話もなく家路を辿るのは、とても居心地の悪いものだった。こういうときは男のほうからネタを振ってほしいものだ。
「兄ちゃん」
「なんだよ」
「お弁当、美味しい?」
「………まあまあだな」
そこは美味いって言えよ気の利かないやつだな。
むっとしながら睨みつけると、前を向けと無理やり頭を戻されてしまった。妹とはいえもっと女の子らしい扱いをしてほしいものである。
会話はそれきりだった。
無言で歩きながら、私は最後に二人一緒に帰ったときのことを思い出していた。私がまだランドセルを背負っていて、兄が大きめの学ランを着ていたころ。
懐かしく思った夏の夜だった。