18、恋はノンブレーキ
教室で無料の求人情報雑誌を熱心に読んでいると、隣の席の男子が覗き込んできた。
「吉村、なんかバイトすんの?」
「うん」
八月のイベントで大枚使うことを見越してバイトを始めようと思ったのは昨夜のことだった。
去年は有名なファミレスで働いていた私だけど、不況の煽りを受けて今年の三月で店舗は閉鎖。進級してからは新入生の勧誘とかキタちゃんとのコラボ漫画とか新刊とか、やることはあったりなかったりでつまりはダラダラしていた私は、テレビでマツケンを観て世の中金ヅラと思い出し急遽バイトに勤しむことにしたのだ。
「お、見ろよこれ、時給800円から1,350円だってよ。頑張り次第で時給アップかあ。俺応募しようかな」
「騙されちゃ駄目だよ甲斐君。たぶん一年頑張っても50円も上げてくれないと思うよ。こういう書き方してるところは要注意だね」
「えー」
「初心者はよく騙されるの。こことかいいんじゃない?」
「工事現場の交通整理? うげー焼けそう」
「なまっちろい甲斐君にはお似合いですよ」
「ひっでえ。お前だって白いじゃん」
シャーペンの先で突つかれたので私もやり返していると、次の授業の先生が入ってきたので私たちの戦いはお開きになった。
「リホ、バイトやらない?」
昼休み、メールで呼び出された私は部室にいた。メグっぺはいなかった。珍しいなと思っていると、キタちゃんがバイトの話を持ってきた。
「うちのじいちゃんの知り合いがやってる洋食屋なんだけどね」
「じいさまのってことは元警察官?」
「そ、元部下。早めに退職して店開いたって聞いたよ。最初は私に話が来たんだけど、今は本屋のバイトやってるから断ったんだ。どう?」
「たしかに今、バイト探してるけど、」
「条件はここに書いてあるとおりね。もしやるんだったら私にメールしてよ」
条件の書かれたメモを読むと、時給といい待遇といい中々良さげだった。私の目は『まかない付き』に釘付けだったのは言うまでもない。
お弁当を食べ終わった頃には、私はもうやる気でいた。
バイト先の洋食屋は五十代のオーナー夫婦が切り盛りしていた。じいさまの元部下と聞いていたからもっと年長で厳つい人を想像していたんだけど、オーナーの庄司さんは温和でとても優しい人だった。
店内はそれほど広くなく、カウンターとテーブルを合わせて三十席くらい。外国を思わせる外観に純喫茶風の内装が素敵である。
制服は半袖の白シャツに黒のシンプルなエプロンドレスで、ぶりぶりのメイド服じゃなかったことに私は安心した。あれは見る分にはいいけど着るとなると話は別だ。
若者向きのお店ではないけれど知る人ぞ知る名店らしく、雑誌にも何度か紹介されているらしい。
働いて一週間、私はすっかりこの店が好きになっていた。
「いらっしゃいませー……ってなんだ、五味か」
私の接客用の笑顔は普段使いの顔にレベルダウンした。
「なんだ俺かはないでしょ。せっかくいっぱいお客連れてきたのに」
「なんだと早くそれを言え! あ、岩迫君だ、いらっしゃいませー!」
「さっきと全然顔が違うっ」
部活帰りのテニス部員を連れてきてくれたらしい。大きなテニスバッグを背負った男子生徒が五人。よくやった五味、なんて先輩思いなんだ。
「席くっつけるからちょっと待ってね。店長、五名様来店でーす」
「リホ先輩、俺たちでやるから大丈夫っすよ」
「いいっていいって。お客様なんだから」
四人席に二人席を合体させて私は急いで水を取りに行った。カウンターの奥にはオーナー夫婦がいて、「どれが彼氏?」とベタなことを聞いてくる。
「後輩とクラスメイトとその部活仲間ですよ」
「じゃあどれが気になる子?」
「いってきまーす」
わくわくしている二人には悪いが、そんな甘酸っぱいものを高校生活に求めていない私はさっさとグラスを持ってオーダーを取りに向かった。
「リホ先輩、どれがオススメっすか」
「セットなんてどう? けっこうボリュームあるよ」
五味にそう言いながら、私はひとつのメニュー表を二人で覗き込む男子高校生っていいよなあと腐れたことを考えていた。
大きな体をくっつけ顔を寄せ合ってるところなんか最高じゃないか。年配の人がお客に多いから今のうちに網膜に焼き付けておこう。
「吉村、俺のこと覚えてる?」
やましいことを考えていたこともあって私は大げさにビクついてしまった。声をかけてきた子に視線を移すと、私は思わず「あ!」と声を出していた。
「一年のときに同じクラスだったよね」
「そ。名前分かる?」
私が学生服についた名札を見るよりも早く、彼は手でそれを隠してしまった。
「………佐藤君」
「ブッブー全然違うし。美作だよ」
全国で一番多い苗字で当てにいったけど駄目だったか。ミマサカ君よ、すまなかったな。
「珍しい苗字なのに忘れるってところがリホ先輩らしいっすよね」
「俺、隣の席になったこともあるんだぜ。そのときけっこう喋ったのに」
「サコ先輩も来年には忘れられててもおかしくないっすよ」
「え、マジ」
「おい五味、先輩追い詰めて楽しいか」
私の印象が悪くなるだろ。元から大して良くもないが。
「お前らそろそろ注文決めろ。吉村さん、俺はAセットで」
黒髪の真面目そうな人が注文したのを皮切りに五味たちも慌ててそれに追随した。
なんか偉そうな人だな。悪い意味じゃなくて、本当に偉そうだぞこの人。岩迫君たちが敬語を使っているから先輩だろう。どこかで見たことがある気がするけど思い出せなかった。
夜のピークを過ぎてからの来店だったので、テニス部員以外のお客さんはまばらだった。暇になった私は店内を見渡せるカウンター付近に立っていた。
「格好良い子たちねえ」
「みゆきさん」
カウンター越しに、オーナー夫人が話しかけてきた。
「私、一番奥の子がタイプだわ」
「五味ですか。空気読めないけど良いやつですよ」
「リホちゃんは学校に好きな男の子とかいないのかしら?」
「いませんねえ。あんまり興味ないというか、まだいいかなあって思ってます」
「あら勿体無い。恋は中学生か高校生のときにするのがいいのよ。一番浮ついて勘違いしやすい時期なんだからしなきゃ損よ」
それってどうなんだ。恋って勘違いでしてもいいのか。
みゆきさんを見ると、人生経験抱負な彼女らしい包み込むような笑みを向けられた。
「年をとると余計に理性が働いたり計算高くなっちゃうのよね。だから誰かを好きになるのはブレーキが壊れてる若いうちにするのがいいのよ、リホちゃん」
マジでか、私のブレーキ壊れてんの。
だったら恋愛って怖いな。どこかにぶつかるまでつっぱしっちゃうっていうことだもん。みゆきさんの言い方だとそれがいいみたいだけど、怪我するのは嫌だな。
「リホちゃん、お会計」
「あ、はい!」
「リホ先輩、すっげえ美味かったっす」
「ありがと。他の部員にも勧めといてよ」
オーナーの好意でもらった割引券を配りながら、私は営業にいそしんでいた。値段は手ごろなのに若いお客さんが少なかったので、これを期に増えるといいんだけど。
「吉村さん、ちょっといいか」
私を呼んだのは黒髪のどこかで見たことのある先輩だった。どこだろう、つい最近見た顔だ。
「あ、香坂先輩だ」
「なんで前のクラスメイトは忘れてんのに部長の名前は知ってんだよ」
美作君しつこいな。忘れたもんは仕方ないだろ。前向いて生きろよ。
「うちのクラスの田辺さんが香坂先輩の大ファンなんだよ」
部長だとは知らなかったけど、なるほどだから放つオーラが五味とは比べものにならなかったんだな。高校生らしからぬ貫禄がある。
ちなみにもう一人の先輩は副部長らしい。眼鏡をかけた気の弱そうな人だ。
「うちの五味と岩迫がテストで世話になったと聞いて今日は来たんだ。こいつらが大会に出られないことになってたらまともな成績が残せないところだった。テニス部部長としてすごく感謝してる。吉村さん、ありがとう。ほら、お前らも言え」
「リホ先輩、ありがとうございました!」
「吉村、ありがとう!」
「ど、どういたしまして!」
部長の気迫に押されて私も慌てて頭を下げた。
体育会系は軍隊に近いって本当だな。体が声に反応して勝手に動いてしまった。漫研という究極にユルい部活に慣れきった私には信じられない世界だ。
帰っていく彼らを見送って、私は今日のバイトを終えた。
それにしても香坂先輩の言った「これからもこいつらをよろしく頼む」って台詞がすごく気にかかる。「これから(のテスト)もこいつら(の面倒)をよろしく頼む」って意味じゃないよね。違うよね。
またのお越しをお待ちしております。