16、本日ラッキーデー
「お願いしますあと一日だけ延ばしてくださいぃ…!」
自分の呻き声で目が覚めた。
眼鏡を外してしょぼしょぼする目を擦りながら、私は違和感に気がついた。
なんで眼鏡かけてんだろ。
自分の部屋で寝ていたと思っていた私は、そのときようやく自分の置かれた状況を知った。
「吉村さん、起きたついでに黒板の問題解いてくれます?」
数学の鰐淵先生のめちゃくちゃ冷たい視線を受けてもなお私は動くことができなかった。往生際の悪い私は、これがまだ夢じゃないかと一縷の望みに賭けていたのだ。
「まだ寝てるんですか」
「すっ、すいません! 起きてましゅ!」
その瞬間、静かだったクラスが笑いの渦に叩き込まれた。
やっちまったな、私。
顔が熱くなるのを自覚しながら私は慌てて前に出た。
数学の鰐淵先生は、眼鏡にオールバックでスーツがこれまた嫌味なほどに似合っていて、丁寧な話し方と分かりやすい授業で就任当初から女子のハートをがっちり掴んでいる二十七歳の若手教師である。
私もファンのひとりで、彼を初めて見た瞬間に鬼畜眼鏡×男子生徒のいけない妄想を繰り広げたくらいだ。ちょっとナルシストが入っていて、嫌味や皮肉をよく言うところも非常に美味しいと思っていた。
だから大好きだったのに私は今とても裏切られた気分ですよ、先生。
「これを各クラスに運んでおいてください」
目の前にでんと積まれているのは数学の問題集が入ったダンボール。全部で六つ。
「……居眠りしてただけで罰ってありですか」
数学の授業で寝た挙句に寝言をほざいて台詞を噛んでクラス中に笑われた私は、鰐淵先生のいる数学準備室にて己の不幸を実感していた。恥をかいた上に罰なんてどんだけツイてないんだ。
「私、今まで真面目に授業受けてましたよね?」
「テストの点も良かったですね」
「なのにたった一度のミスでこれですか」
居眠りしたり宿題を忘れた子が罰をもらった話なんて聞いたことがない。鰐淵先生の言っちゃ悪いが神経質そうな顔(だんだん評価が下がってる)を見ながら、私はどうにか許してもらえないかと縋った。
「たしかに君は真面目な生徒だ。だからこそ僕はショックだった。飼い犬に手を噛まれるってこのことだと思いましたね」
「犬……」
「いや、君はリスって感じですけどね」
どっちでもいい。
私はこれからさっさと家に帰って原稿仕上げないといけないんだよ。よゆう入稿って言葉知ってっか先生。この世にはな、問題集運ぶよりも大切なことがあるんだよ!
「何か言いたげですね」
言いたいともさ!
でもここで漫画描きたいから帰してくださいと言ってこの先生が聞いてくれるだろうか。否。鬼畜眼鏡に勝てるキャラなんて天然ワンコくらいしか思いつかねえよ。あぁ駄目だ、思考が二次元に逃避している。
「やります。……やればいいんでしょ」
「最後のは余計ですよ。じゃあお願いしますね」
くっそー、でも眼鏡クイっは格好いいです先生。今度キタちゃんと眼鏡の可能性について夜通し語り合おう。
妄想はさておき、私はあらかじめ置いてあった台車に問題集を積み込むことにした。面倒くさいがさっさと終わらせて家に帰るに限る。
「あぁ、吉村さん」
「やっぱりやらなくていいんですか。鰐淵先生ありがとうございます」
「誰もそんなこと言ってないでしょ。眼鏡変えたんですねって言おうとしたんです」
期待させんなよ眼鏡。私も眼鏡だけど。
「そういう鰐淵先生もしょっちゅう眼鏡が変わってませんか」
「たくさん持ってるんです」
「なるほど。オシャレさんですね」
身なりに妥協がないもんな。その髪型も朝どれくらいの時間をかけてセットしてるんだろう。スーツも上下で二万円とかの安物じゃないのは素人でも分かる。
聞いてみたかったけど「君には関係ないでしょ」と冷たい視線と共に言われそうなのでやめておいた。
「そちらの眼鏡のほうが似合ってますよ。前のは言っては悪いですが、センスの欠片も見られなかったので」
二年間お世話になった私の眼鏡に対してなんて言い草だ。まあたしかにレンズは分厚いしフレームもぶっとかったけど。
今の眼鏡はノンフレームのすっきりとしたデザインになっている。キタちゃん曰く、「あんたの持つ不気味さが若干弱くなった」らしい。あれは今思うと貶してたな。
「褒めていただいてありがとうございます。先生も眼鏡が似合ってますよ」
「当たり前です」
いただきました、『当たり前』。
この人はこの性格と言動で他の教師とうまくやっていけてるんだろうか。女子生徒には大人気だけど男子生徒にはぶっちぎりで不人気だからな、男性教師の受けも悪いだろうな。鰐淵先生が攻めなだけに。
なんて言ってる場合じゃなかった。
「そろそろ行きますね。それじゃあ失礼します」
「いってらっしゃい」
私は数学準備室の扉を閉めるとすぐさま壁に向かって拳を突きたてた。
怒り? いいえ違います萌えたんです。
おぉおお今の聞いたか? いってらっしゃい、だってよ!!
最近カツアゲにあったりガチンコファイトに巻き込まれたりと、私の日常はまったくもってオタクらしくなかったが萌はこんなところに転がってましたよハレルヤ!!
しかも鰐淵先生ちょっとだけど微笑んでたしっ、あの鬼畜眼鏡がっ、デレたのかあれデレたのか!?
「吉村?」
「は!」
ドコドコ壁を殴りまくっていた私は恐る恐る背後を振り返った。
「モ、モリ君」
そこには最近友達になったばかりの雨宮君が立っていた。
ハッズー! 萌えてるところを見られるほど恥ずかしいことはない。私は取り繕ったように笑い、「なんでもないよ」と言った。まったくもってなんでもないことはなかったんだけど。
「顔赤いぞ」
「もうすぐ夏だからね! 衣替えしたとこだしね!」
私は逃げるようにして台車を押した。その隣をモリ君がついてきた。
「それ、どこまで運ぶんだ?」
「二年生のクラス全部にだって」
「手伝う」
「えっ、大丈夫だよ」
「遠慮するな」
「でも、部活行かなくていいの?」
「ちょっとくらい遅れても構わない」
私は空手部だと思っていたが、実はモリ君、バスケ部だった。あの事件の前に一度部活を辞めていたんだけど、先輩や同級生たちに頼み込まれて再び入部したという経緯があった。
そのモリ君が私の顔をじっと見つめていたので、あぁ、と気がついた私は眼鏡を外した。
「もうほとんど痕残ってないよ」
「ごめん」
そういうモリ君の顔の痣も大分消えていた。
「もういいって。こんな素敵な眼鏡もいただいたことですし」
拳が当たったのはワザとじゃなかったんだし一応は断ったのだが、モリ君が眼鏡を弁償してくれた。眼鏡屋さんで選んでくれたのも彼である。
「この眼鏡、さっき鰐淵先生に褒められたんだよ。あの自分が一番大好きそうな鰐淵先生に」
その台詞にモリ君は少しだけ笑ってくれた。すぐに無表情になったけど、それを間近で見た私は。
「どうした?」
「なっ、なんでもない」
普段表情がないからこそ、その笑顔には価値がある。
私は思わず顔を背け、拳を握ったのだった。