14、くまさんにパンチされた
「吉村里穂子」
日常生活においてフルネームで呼びかけられることなど滅多にない。
その滅多にないことに私は反応して足を止めた。下校途中のことだった。
「…岩迫君の友達?」
「雨宮森」
<あまみやしん>と名乗った男子生徒は、一週間前に遅刻してきた彼だった。その彼が一体何の用だろうと思っていると、雨宮君は大きな体の割には颯爽とした歩き方で私に近づくとこう言ったのである。
「お前の兄貴、呼び出せ」
「はい?」
「早く」
分かりました、と即座に言えるほど私は思考を放棄していない。
とりあえず理由くらいは聞かせてほしい。
「うちの兄にどんなご用件でしょうか」
「殺す」
パードゥン?
本日最後の授業は英語だったからかな、思わず使っちまったぜ。それにしても今殺害予告を聞いた気がするのだが。
「もう一回言ってくれます?」
「場合によっては殺す」
リアリー?
おいおいマジかよ。この子本気ですか。無表情すぎてまったく何考えてんのか分かんないんだけど。殺すって、嘘だよね?
「あの、うちの兄が何かしましたでしょうか」
「俺の兄貴をひきこもりにした」
………ソーリー。
というのが今からおよそ二十分前のことである。
あれから私は仕方なく神谷に連絡して(だって兄のは知らなかった)、「兄ちゃんに恨みを持つ男子生徒に人質に取られました」と言った。
すぐ近くに電車の走る橋があるって言っておいたからたぶん分かるだろう。
かくして兄は十分足らずでやってきた。予想外に早かったのはバイクに乗ってきたからである。運転していたのは神谷だった。
「雨宮君、約束覚えてる?」
「話してから殺すかどうか決める」
「違う。話をして本当のことを聞き出す、でしょ。場合によっては謝ってもらう。殺すはいらないから」
こそこそ喋っていると、土手の上に止まったバイクから兄がものすごい勢いで走り降りてきた。昨日ディスカバリーチャンネルで観た牡牛のようだった。
「リホ!!」
初っ端からトサカに来てるんですけどこの人。
私は意外な展開に少々驚いていた。
「ほんとに来たぁ」
「なに驚いてる」
「だって来るとは思ってなかったもん」
家で顔を合わせてもほとんど喋らないし、むしろ相方の神谷のほうが兄よりも会話が多い気がする、というか事実だ。
小学生まではよく喋っていたと思うけど、中学生になってからは兄はグレるは私はオタクになるはですれ違いが続いて今の疎遠な兄妹になった。
だから私が助けを呼んだところで来るのかどうかは半信半疑。むしろ来ないでいてくれたほうが厄介なことにならずに済むと思っていたのに。
「なんで来るかなぁ」
「リホっ、こっち来い!」
「まだ行くな」
どっちだよ。目を吊り上げて睨みつけてくる兄の傍には正直言って行きたくないなと思っていたら、雨宮君に腕を掴まれて行くに行けなくなってしまった。
「てめえっ」
「吉村翔太だな」
「俺に用があんなら来てやったんだ、リホはもういいだろ!」
「話を聞いたら離してやる」
なんか漫画のワンシーンみたい。
という暢気な感想は二秒で潰えてしまった。
二人の距離はおよそ三メートル。今にも殴りあうんじゃないかっていうピリピリした空気に触れて、私は知らず唾を飲み込んだ。
「雨宮廉って知ってるだろ」
「はぁ? 誰だそいつ」
その瞬間、私の腕を掴む雨宮君の手にものすごい力が入った。
「二年のとき同じクラスにいたやつだろ」
「神谷さん」
ヘルメット片手に神谷がゆっくりこっちにやってくる。
それにしてもクラスメイトの名前をすぐに忘れるのは私と一緒なんだな、兄ちゃん。
「お前、あいつの弟か何かか? 去年から登校拒否になってるって聞いたことあるけど、これとなんか関係あんの?」
おぉ、神谷がコナン君ばりの推理力を働かせているっ。見た目チャラいが中々鋭いやつだな。
私にはちょっと信じられないけど、雨宮君が言うには兄が彼のお兄さんを登校拒否にした原因らしい。
「俺の兄貴に何したんだ」
「知るかよ」
「だったらなんで兄貴はお前に怯えて部屋から出てこねえんだよっ」
そのとき初めて雨宮君が怒声を上げた。兄たちが来る前にひととおり話してくれたときは冷静だった彼が、今や無表情をかなぐり捨てている。掴まれた腕には彼の震えが伝わってきて、私はやりきれない気持ちになった。
「だから知らねえっつってんだろ。お前の兄貴に聞けよ」
「何も話さないんだ。だったらあんたに聞くしかないだろ」
雨宮君の声はどこか縋るようだった。
でも兄は本当に知らないんだと思う。それくらいは顔を見れば私にだって分かる。
だったら解決策はない。そうすると雨宮君のお兄さんを思う気持ちはどこに向かえばいいんだろう。
「万引き」
突然、神谷が言った。
「お前の兄貴、コンビニで万引きしてた」
「は、」
お前はいきなり何を言い出すんだ。
雨宮君が驚いた顔で神谷を見た。私も、兄でさえも。
「ショータはどうせ覚えてないだろうけど、去年の秋ぐらいにお前の兄貴が万引きしてたのを俺ら見たんだよ。そのすぐ後ぐらいじゃね? お前の兄貴が学校に来なくなったのって」
そうなの? と雨宮君に聞ける雰囲気ではなかった。彼は無表情とかじゃなくて、すべての感情が凍ったような顔をしていた。
「俺もいたけど、気づかなくてショータの名前だけ出したんだろ。学校来なくなったのだって、俺らに言い触らされたり金脅し取られたりするんじゃないかって勝手にビビったからじゃねーの」
雨宮君は言い返そうとして言葉に詰まり、唇を戦慄かせた。すぐ近くにいた私には「まさか、でも」と雨宮君の震える声が聞こえた。
彼は視線を神谷から兄にやった。まるで否定してくれと言っているみたいに。
「俺は雨宮なんて覚えてねえ。それと、誰かを脅したこともねえからな」
兄は面倒くさそうに吐き捨てた。
勘違いかよ、くっだらねえ、と。
「だめ!!」
言ったときにはもう遅かった。雨宮君の拳が兄を襲っていた。
「ショータっ」
「って、この野郎!」
最悪の事態になってしまった。
喧嘩にだけはならないように気を張っていたのに、こんなはずじゃなかったのに。なのに二人はぐちゃぐちゃに殴り合っている。
「リホちゃん、離れてな」
「だ、だって、止めないの!?」
「ほっときゃいいんだよ。俺らは帰ろうぜ」
爆弾落とすだけ落として帰宅かコノヤロー!
「こらぁ二人ともやめろー!!」
「危ないって、……っあ」
一瞬何が起こったのか理解できなかった。
顔の中心に衝撃が走って、最初は何も感じなかったんだけど後からとんでもない痛みがやってくる。
弾かれた雨宮君の拳が不用意に近づいた私の顔面に偶然ぶつかったのだと遅れて理解した。
「ったぁ……!」
「リホ!」
あまりの痛みに私は両手で顔を押さえてしゃがみこんだ。痛い、超痛い。
「リホちゃん見せて」
「はながとれた、」
「取れるわけないだろ」
ですよね。ってイテー!! 冗談抜きでイテーよ!!
こんな痛いことを兄たちはしょっちゅうやってるのか。バカか、マゾか、痛すぎだチクショー。
涙止まんない。怖いとか悲しいとかじゃなくて痛みで涙がどばどば溢れてくる。
「ショータ! そいつはいいからハンカチとか持ってないのかよ」
「ねえよ!」
「わた、わたしのかびゃんに、」
噛んだ。でも恥ずかしいどころじゃなかった。舌が回らない。
「眼鏡割れてる。破片で怪我したらいけないから外すよ」
「う、うそ、」
「ほんと。あいつに弁償してもらえよ」
「あう」
ハンカチで顔面を押さえられる。手を見ると血で真っ赤に染まっていた。……おぉう、勘弁してくれ。
「家帰って冷やさなきゃ。抱っこするから掴まってな」
今このときだけは神谷が神様みたいに思えた。兄はオタオタしてばっかでまるで役に立っていなかった。
そして不幸は続いた。
「お前ら何してんだー!!」
土手の向こうから自転車漕いでやってきたのは、この辺りの治安を守るお巡りさんだった。ちくしょう誰だ通報しやがったのは。