第5話:日常と不協和音
世界滅亡まで、あと二十六日。
アルカディアでの生活は、驚くほど規則正しいものになっていた。まるで、世界が終わるなんて嘘であるかのように。
朝六時起床。軽い体操の後、質素な朝食。その後は、各班に分かれての「仕事」。
俺は毎朝、各班の様子を見て回るのが日課になっていた。
まず屋上へ向かう。そこは安田さんの指導のもと、ギルドで一番活気のある場所になっていた。
「こら!水やりは根元にやるんじゃ!葉っぱにかけたって、ワシが飲むわけじゃないぞ!」
安田さんの檄が飛ぶ。若いメンバーが、楽しそうに、あるいは叱られながら、畑仕事に精を出していた。昨日蒔かれた種の上には、もう寒冷紗がかけられている。小さな命を守るための、優しいゆりかごだ。
次に訪れるのは、サクラがいる市民会館の旧映写室。彼女はそこを「技術ラボ」と名付け、様々な機械の修理と開発に没頭していた。
「ユウキさん、聞いて!昨日の夜、短波無線で一瞬だけ声みたいなノイズを拾ったの!まだ意味のある言葉にはならないけど、どこかで誰かが通信してるのは間違いない!」
サクラは興奮気味に報告してくれた。外部との繋がり。それが実現すれば、俺たちの生存戦略は大きく変わるだろう。
ミサキさんの医務室では、衛生管理の講習会が開かれていた。彼女は穏やかな口調だが、その内容は徹底している。集団生活における感染症のリスクを、誰もが真剣に聞いていた。彼女がいるというだけで、目に見えない不安が和らぐのを感じる。
実行部隊の訓練場となっている大ホールでは、ゴトウさんとタケダさんが厳しい視線でメンバーの動きをチェックしていた。
「違う!相手の重心を崩すのが先だ!」
「武器を恐れるな!それは体の一部だと思え!」
二人の実戦的な指導は、俺たちのような素人集団が生き残るために不可欠だった。
全てが、順調に進んでいる。
俺はギルドマスターとして、皆の報告を聞き、資材の配分を決め、メンバー間の小さなトラブルを仲裁する。リーダーの仕事は、思っていたよりずっと地味で、ずっと神経を使うものだった。メンバーが十人を超え、俺の肩には十人分の命が乗っている。その重圧に、時々、息が詰まりそうになる。
「リーダー、少し考えすぎの顔をしているぞ」
いつの間にか隣に来ていたタケダさんが、缶コーヒー(備蓄倉庫から見つけた年代物だ)を差し出してくれた。
「…そう見えますか?」
「ああ。全部自分で背負う必要はない。俺もゴトウさんも、サクラもミサキもいる。あんたは、あんたにしかできないことをやればいい」
「俺にしかできないこと…?」
「そうだ。皆を同じ方向に向かせることだ。バラバラの人間を『アルカディア』という一つの意志にまとめる。それは、ゴトウさんにも、俺にもできない。あんたにしかできないことだ」
タケダさんの言葉は、少しだけ俺の心を軽くしてくれた。そうだ。俺は一人じゃない。最高の仲間がいる。
そんな、穏やかで、希望に満ちた日常。
それが永遠に続くかのような錯覚に陥っていた、その日の午後だった。
「緊急事態だ!全員ホールに集まれ!」
偵察任務に出ていたゴトウさんが、血相を変えてギルドハウスに駆け込んできた。ただ事ではない。彼のただならぬ様子に、訓練や作業をしていたメンバーが、緊張した面持ちでホールに集まってくる。
「どうしたんですか、ゴトウさん!」
「…奴らがいた。俺たちが今まで相手にしてきたチンピラとは、レベルが違う」
ゴトウさんは息を整えながら、報告を始めた。
彼とリョウは、物資のありそうな新たな場所を探して、少し離れた駅前の商業地区まで足を伸ばしたらしい。そこで、彼らは見た。
「十数人のグループだった。全員が揃いの黒いベストを着て、ライフルやサブマシンガンで武装していた。動きに一切の無駄がない。統率が取れていた。素人じゃない、プロの集団だ」
ライフル…?この日本で、そんなものが簡単に手に入るはずがない。
「奴らは何をしてたんだ?」とタケダさんが尋ねる。
「それが奇妙なんだ。略奪じゃなかった。生存者を見つけても、食料や金目のものを奪うわけじゃない。何かを尋問して、違うとわかると興味を失ったように立ち去る。まるで、何か特定のものを…いや、特定の『人間』を探しているようだった」
人間を探している?何のために?
ホールが不気味な沈黙に包まれる。俺たちが築き上げてきた平穏な日常に、冷たい水が浴びせられたようだった。
「どんな連中だったか、特徴は?」
「リーダー格の男は、顔に大きな火傷の痕があった。それと…奴ら、見張りを赤いワゴン車の中でやっていた。かなり目立つ車だ」
その言葉が出た瞬間だった。
「…赤い、車…嫌な、感じがする…」
か細い声が、ホールの隅から聞こえた。
声の主は、タケダさんたちと一緒にギルドに加わった、カナという若い女の子だった。いつもおとなしく、あまり人と話さない彼女が、初めてはっきりと口を開いた。
だが、皆の意識はゴトウさんの報告に集中していて、彼女の呟きに気づいた者はいなかった。俺を除いては。
俺はカナの方を見た。彼女は自分の失言に気づいたように、びくりと体を震わせ、怯えたように顔を伏せてしまった。
さっきの呟きは何だ?ゴトウさんが「赤いワゴン車」と言う、まさにその直前だった。偶然か?それとも…。
俺は言いようのない胸騒ぎを覚えたが、今は目の前の問題が先決だ。
「その武装集団の目的はわからない。だが、俺たちの存在が知られれば、厄介なことになるのは間違いない」俺は皆に向かって言った。「当面の方針を決める。第一に、不要な外出は禁止。物資調達は、必要最低限にとどめる」
「第二に、防衛体制の強化だ。タケ-ダさん、ゴトウさん、頼む」
「ああ、任せろ」
「第三に、サクラ。監視カメラの映像は24時間録画し、不審な動きがないか常にチェックしてくれ」
「わかった!」
俺の指示に、メンバーは力強く頷いた。アルカディアに、これまでとは質の違う緊張感が走る。
会議が終わり、メンバーがそれぞれの持ち場に戻っていく中、俺は一人、カナのことが気になっていた。彼女がいたホールの隅へ向かう。だが、そこに彼女の姿はもうなかった。
俺は医務室を訪ねた。ミサキさんなら、何か知っているかもしれない。
「ミサキさん、カナのことなんだが…」
「カナさん、ですか?彼女なら、少し気分が悪いと言って、割り当てられた自室で休んでいます」
「そうか…。彼女、ギルドに馴染めていないように見えるが、どうだろうか?」
俺の問いに、ミサキさんは少し困ったように眉を寄せた。
「ええ…少し、他のメンバーと距離を置いているようです。時々、ひどく怯えたような目をすることがあります。まるで、何か見えてはいけないものが見えているかのような…」
見えてはいけないもの。その言葉が、さっきのカナの呟きと重なった。
俺はミサキさんに礼を言うと、医務室を後にした。
カナの部屋を訪ねるべきか、迷った。今はそっとしておくべきかもしれない。だが、もし彼女の力が、このギルドを守るための鍵になるのだとしたら…?
いや、今は憶測で動く時じゃない。まずは、目の前の脅威に集中するべきだ。
俺は頭を振り、司令塔として機能し始めた制御室へと向かった。モニターには、静まり返った街の風景が映し出されている。だが、この静寂の下で、何かが蠢いている。
世界滅亡まで、あと二十五日。
アルカディアの日常に、最初の不協和音が鳴り響いた。それは、やがて来る嵐の前の、不気味な静けさなのかもしれない。俺は、モニターに映る赤いワゴン車が、悪夢のようにちらついて仕方がなかった。