第1話:カウントダウンの始まり
テレビが死んだのは三日前だ。
正確には、テレビ局がその機能を放棄した。アナウンサーは最後に泣いていた。絶望を電波に乗せ、世界中に拡散するだけ拡散して、ぷつりと画面は暗くなった。もう映らない。ただの黒い鏡だ。そこに映るのは、俺の死んだ魚みたいな目だけだった。
世界が終わる。
あと三十日で。直径十キロの巨大隕石が、太平洋のど真ん中に落ちるらしい。科学者たちが難しい数式を並べて説明していた。衝突のエネルギーは恐竜を絶滅させたやつの数千倍だとか。地殻は裂け、大陸は沈み、巨大な津波がすべてを洗い流す。大気は灼熱の塵に覆われ、太陽光は届かなくなり、地球は氷河期に突入する。まあ要するに、助からないということだ。人類史の大フィナーレ。壮大すぎて、逆に実感が湧かない。
人々は三段階の反応を示した。第一段階は否定。「政府の陰謀だ」とか「世紀のドッキリだ」とか。だが、各国の権威ある機関が同じ発表を繰り返すうちに、その声は小さくなった。第二段階は怒りと恐怖。暴動、略奪、なんでもありの無政府状態が始まった。警察も軍も、家族の元へ帰ってしまったらしい。そりゃそうだろう。誰が世界最後の瞬間に、他人のために働けるというのか?
そして今が第三段階、諦念だ。静かな絶望が街を支配している。あれだけ響いていた怒号もサイレンも、嘘のように消えた。人々は家に引きこもり、最後の時を待っている。あるいは故郷を目指し、虚しく歩いている。そのどちらかだ。
俺の名前は神木ユウキ。二十八歳。しがないシステムエンジニアだった。今はただの無職。終末世界の無数のモブの一人だ。家族はいない。恋人もいない。社会との繋がりなんて、会社を辞めた瞬間に消えていた。守るものがないというのは、こういう時、気楽でいいのかもしれない。皮肉な話だ。
アパートの窓から外を見る。大阪の街は静まり返っていた。つい数日前まで、車のクラクションと人々の喧騒で満ちていたのが嘘のようだ。まるで巨大な墓場。俺たちはまだ生きているのに。
腹が減った。キッチンの棚を開ける。カップ麺が二つ、缶詰が三つ、ミネラルウォーターのペットボトルが五本。これが俺の全財産。計画性なく食い繋いできた結果だ。このまま部屋に籠城していても、一週間もすれば飢え死にするだろう。隕石衝突より先に、人生のゲームオーバーを迎えるわけだ。それもまあ、悪くないか。そんな風に考えていた。
その時だった。
外から聞こえてきたのは、ガラスの割れる音。そして、甲高い女の悲鳴。
思考が止まる。この静寂の世界で他人の声を聞くのは久しぶりだった。見たくない。関わりたくない。そう思ったのに、体は勝手に窓に張り付いていた。
アパートの向かいにある小さなスーパー。その入り口で、男たちが何かを奪い合っている。いや、違う。数人の男が、一人の女と小さな女の子を取り囲んでいた。男の手にはバールのようなものが見える。女は必死に娘を庇っている。
「食料を全部置いていけ」
「いやっ、やめてください、これしかないんです!」
「うるせえ。お前らが持ってても無駄死にするだけだろ。俺たちによこせ」
下劣な会話がここまで聞こえてくる。よくある光景だった。終末が人の本性を暴き出した結果だ。見て見ぬふりをするのが正解。俺一人が飛び出したところで何ができる?死ぬだけだ。わかってる。わかっているのに。
女の子が泣き叫ぶ声が、耳に突き刺さった。
その瞬間、俺は部屋を飛び出していた。なぜかなんてわからない。正義感か?馬鹿言え!そんな高尚なものじゃない。多分、ただ我慢ができなかっただけだ。このまま何もせず死を待つという行為に。このクソみたいな世界の終わり方に。
アパートの階段を駆け下りる。手には何も持っていない。武器になりそうなもの。玄関にあった鉄パイプ製の傘立てを掴んだ。重い。だが、それが今は頼もしかった。
「やめろよ!」
俺は叫んでいた。自分でも驚くほど大きな声が出た。
男たちが一斉に俺を見る。全部で四人。どいつもこいつも、ろくな死に方をしなさそうな顔つきだ。リーダー格らしい男が、にやりと笑う。
「なんだ兄ちゃん、正義の味方ごっこか?」
「ヒーローは死ぬのがお約束だぜ」
馬鹿なことをした。完全にそう思った。足が震える。だが、もう後には引けない。俺は傘立てを握りしめ、一歩前に出た。
「その人たちから離れろ!」
「威勢がいいじゃねえか。まずはお前からだ!」
一人の男がバールを振り上げて向かってくる。死ぬ、とっさにそう思った。だが俺の体は思考より速く動いた。システムエンジニアの仕事で鍛えたのは指先だけじゃない。毎日満員電車で押し合いへし合いしていたこの体は、案外しぶとかったらしい。
男が振り下ろすバールを紙一重でかわす。そして持っていた傘立てを、フルスイングで男の横っ面に叩き込んだ。ゴッ、という鈍い音と感触。男は呻き声を上げて崩れ落ちた。
やった。やってしまった。人を殴った。だが感傷に浸る暇はない。残りは三人だ。
「この野郎!」
仲間がやられたのを見て逆上したのか、二人が同時に襲いかかってくる。まずい!一対一ならまだしも、二人は無理だ。傘立てを盾のように構えるが、すぐに蹴り飛ばされた。腹に重い蹴りが入る。息が詰まる。地面に倒れ込んだ俺の顔面に、さらに蹴りが飛んでくる。視界が明滅し、意識が遠のきかけた。
ああ、やっぱりこうなるのか。モブはモブらしく、あっさり死ぬ運命なんだ。
そう諦めかけた、その時だった。
「そこまでだ!」
凛とした声が響いた。低く、よく通る男の声だ。
見ると、そこに立っていたのは一人の大柄な男。年はおそらく四十代後半。俺を蹴りつけていた男たちとは、明らかに違う屈強な体つき。着ているのはくたびれた作業着だが、その下にある筋肉の鎧は隠せていない。
「なんだテメェは?」
リーダー格の男が警戒しながら尋ねる。大柄な男は答えなかった。ただ静かに男たちを見据えている。その眼光は、まるで猛禽類だ。俺を囲んでいた男たちが、じりじりと後ずさるのがわかった。本能的な恐怖を感じているのだ。
「まだやるか?」
大柄な男が短く問う。その一言が決定打だった。男たちは最初に俺が殴り倒した仲間を無理やり引きずり起こすと、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
静寂が戻る。残されたのは、俺と助けてくれた大柄な男、そして震えている母娘だけだった。
「大丈夫か、坊主」
男が俺に手を差し伸べる。俺はその手を借りて、ゆっくりと立ち上がった。全身が痛い。特に腹と顔がひどい。
「ありがとうございます。助かりました」
「礼を言うならあっちだ。俺はあんたの勇気に免じて手を出しただけだ」
男はそう言って、母娘の方を顎でしゃくった。母親は深々と頭を下げている。女の子は母親の後ろに隠れて、こちらを不安そうに見ていた。俺は彼女たちに近づき「大丈夫ですよ」と声をかける。母親は涙声で何度も礼を言った。彼女たちが持っていたのは、小さなリュックサック一つ。中にはわずかな食料。男たちはこれを奪おうとしていたのだ。
「気をつけて帰りなさい」
「はい、本当にありがとうございました…!」
母娘はそう言うと、足早に去っていった。その姿が見えなくなるまで、俺たちは黙って見送っていた。
「あんた、見かけによらず無茶をするな」と、隣で大柄な男が言った。
「自分でもそう思います。死ぬかと思いました」
「だが死ななかった。そして、あの親子は助かった。それで十分だろう」
男の言葉には、不思議な説得力があった。俺は改めて男を見る。日に焼けた顔、深く刻まれた皺。だが、その目は少しも濁っていなかった。
「俺はゴトウだ。後藤健太。元消防士だ」
「神木ユウキです。元SEです」
俺たちは奇妙な自己紹介を交わして、どちらからともなく笑った。
「これからどうするんだ、神木?」
「さあ…どうしましょうかね」
「行くあてがないなら、俺と来い。見つけたんだ。いい場所を」
ゴトウさんに連れられてやってきたのは、市の中心部にある市民会館。立派な建物だが、今は人の気配はない。ガラスは割れ、壁には落書きがされている。だが、建物自体の構造はしっかりしているようだった。
「ここを拠点にする」と、ゴトウさんは断言した。
「拠点?」
「そうだ。俺は諦めん。最後まで生き抜いてやる。隕石が落ちてくるその瞬間までな。だが、一人じゃ限界がある。食料の確保も、情報の収集も、なにもかもだ。だから仲間を集める」
「仲間…」
俺はさっきの男たちの顔を思い出した。世界はああいう奴らで溢れている。誰もが自分のことで精一杯。信じられるのは自分だけ。そんな状況で、仲間なんて集まるんだろうか?
「無理だと思ってる顔だな」
「……はい」
「だろうな。だが神木、あんたみたいな奴もいる。見ず知らずの親子を助けるために、命を張るような馬鹿がな」
ゴトウさんは、にっと笑った。
「そういう馬鹿を集めるんだ。一人じゃただの馬鹿だが、十人集まればそれは力になる。百人集まれば、希望になる」
希望。その言葉が、俺の胸に突き刺さった。そうだ。俺が欲しかったのはそれだ。ただ死を待つだけの絶望的な日々じゃなく、何かを成し遂げようとする希望。
「俺も、馬鹿の一人になれますかね?」
「なれるさ!あんたが最初の馬鹿だ!」
ゴトウさんの言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かがカチリと音を立てて繋がった。そうだ。一人で死ぬのは嫌だ。一人で諦めるのも嫌だ。でも、誰かと一緒なら。同じ目的を持つ仲間がいるなら。
「やりましょう、ゴトウさん!」俺はゴトウさんの目を真っ直ぐ見て言った。「作りましょう。生存者のためのチームを。いや、もっと大きくギルドです!食料を確保し、安全な場所を作り、情報を共有し、互いに助け合うための組織です!」
システムエンジニアとしての血が騒いだ。プロジェクトの立ち上げだ。要件定義は「生存」。目標は「三十日後の世界を生き延びる」。必要なリソースは「人間」。最高のプロジェクトじゃないか!
「ギルドか。いい響きだ」
ゴトウさんは満足そうに頷いた。
「よし、決まりだ!今日からここが俺たちのギルドハウス。そして俺たちが創設メンバーだ!」
俺たちは固く握手を交わした。市民会館の薄暗いエントランスホールで、たった二人のギルドが産声を上げた瞬間だった。窓の外では夕日が街を赤く染めている。まるで世界の終わりを祝福するかのように。
だが、俺の心は不思議と穏やかだった。絶望はまだすぐ側にある。でも今はそれだけじゃない。ゴトウさんという仲間がいる。ギルドという目標ができた。
世界滅亡まで、あと三十日。
俺の本当の人生は、ここから始まるのかもしれない。
俺は壁に貼られていたカレンダーを一枚破った。残りは二十九枚。カウントダウンはもう始まっている。ポケットからスマホを取り出す。バッテリーはまだ辛うじて生きていた。ネットには繋がらないが、メモ帳機能は使える。
俺は新規メモを作成し、タイトルを打ち込んだ。
『生存者ギルド "アルカディア" 活動記録 Day 1』
本文にこう記す。
メンバー:神木ユウキ、後藤健太
拠点:市民会館
目標:仲間集め。最低十人。
やることは山積みだ。まず、この市民会館の安全確保。電気や水はどうなっているのか?食料はどこで手に入れるのか?武器は?医療品は?考えるだけで頭がパンクしそうだった。
だが、不思議と不安はなかった。隣にはゴトウさんがいる。元消防士。サバイバルのプロだ。知識も経験も、俺とは比べ物にならないだろう。
「まずは建物の調査からだな、神木」
「はい。図面とか残ってないですかね?防災センターとかに」
「そうだな、見てみよう。それと夜に備えて、バリケードも必要だ」
ゴトウさんはテキパキと指示を出す。その姿は頼もしく、俺は自然と彼の指示に従っていた。
俺たちはまず、一階の受付カウンターの裏にある事務所らしき部屋に入った。書類が散乱している。誰かが何かを探し回った跡だろう。俺たちはその中から、建物のフロアマップを見つけ出した。
市民会館は地上五階、地下二階建て。地下には機械室と備蓄倉庫があるらしい。
「当たりだ、神木!まずは地下の倉庫だ。何か残ってるかもしれん」
俺たちは懐中電灯を片手に、地下へと続く階段を慎重に下りていった。ひんやりとした空気が肌を撫でる。カビ臭い匂いが鼻をついた。
地下二階。頑丈そうな鉄の扉が見えてきた。「防災備蓄倉庫」と書かれている。扉には大きな南京錠がかかっていたが、ゴトウさんがどこからか持ってきたバールで、いとも簡単に破壊してしまった。
扉を開ける。
そこには、奇跡のような光景が広がっていた。
段ボール箱が天井まで積み上げられている。箱には「乾パン」「アルファ米」「保存水」といった文字。毛布や簡易トイレ、救急セットまである。おそらく、市の防災用品が手付かずのまま残っているのだ。
「すげえ…!」
思わず声が漏れた。これだけあれば、当分食料には困らない。
「運がいいな、俺たちは。最初のクエストクリアってとこだ」
ゴトウさんも満足げに言った。
俺たちはその日、倉庫の食料を少しだけ拝借し、一階のホールでささやかな晩餐を開いた。乾パンは硬くて味気なかったが、今の俺たちにとってはどんなご馳走よりも美味く感じられた。
夜が更ける。俺たちは入り口に机や椅子を積み上げて簡単なバリケードを築き、交代で見張りをすることにした。最初の番は、ゴトウさんが買って出てくれた。
俺はホールの片隅で毛布にくるまりながら、天井を眺めていた。コンクリートの無機質な天井。でも今は、ここが世界で一番安全な城のように思えた。
眠りに落ちる直前、ゴトウさんの呟きが聞こえた。
「あと二十九日か…」
その声には、諦めではない、強い意志が込められているように感じられた。俺も心の中で呟く。
やってやる!絶対に、生き延びてやる!
こうして俺たちの終末サバイバルギルド、その長いようで短い三十日間の物語は、静かに幕を開けたのだった。
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