第45話「スーパーまるかみ、香りが気になります」
客足がひと息ついた昼過ぎ。
俺は一度コーヒーを置いてレジ横のテーブルで伝票に目を通していた。
乾物の仕入れは順調、麺類は想定より売れている。洗剤と柔軟剤は……あれ、意外と動きがいい。
ふと顔を上げると、洗濯用洗剤コーナーの前で一人の男が、棚のボトルに顔を近づけているのが見えた。
日焼けした首筋、巻き上がる埃、太い腕に刻まれた仕事の跡──外仕事の男か。
気になってそっと近づくと、彼は深く鼻を近づけながら、感心したような声をもらした。
「……すっげぇいい香りだ……これ、飲み物か?」
慌てて制止に入る。
「いえ、それは洗濯用の柔軟剤です。飲み物ではありません。飲んだら大変なことになります」
「え? あ、そっか、洗うやつ? でも……これ、果物みたいな匂いするなあ。腹減ってたせいか、なんかこう……うまそうに感じちまってな」
その笑い混じりの反応に、俺はほっと胸をなで下ろした。
封は開けてないし、舐めたりしてるわけでもなかった。
けれども──気持ちは、わからなくもない。実際飲めそうないい匂いのやつもあるし。
「香りだけでお腹が空くって、なんだか面白いですね」
そう言ったのは、横からふらりと現れた女性客だった。
ボトルを見て、男と同じように匂いを確認しながら、目を丸くしていた。
「これ、本当に洗濯用? お菓子みたいな香りがする……」
「はい、甘めのフローラル系の香りです。衣類にやさしく、香りがふんわり残るタイプですね」
「へぇぇ……こんなにおいしい匂いの洗剤なんてあるんですね。ちょっと感動かも」
気づけば、棚の周囲にはぽつぽつと人が集まってきた。
それぞれ、違うボトルを手に取り、蓋越しの香りを嗅いでは顔をほころばせている。
「こっちは、なんか……焼き林檎?」
「いや、私はこっちの方が好きだな。お花とミルクを混ぜたような香り……」
「俺、こういうの苦手だと思ってたけど……なんか落ち着くな」
「見てこれ、青いの。森みたいな匂い。嗅いでみてよ」
「あ、それいいね。あ、こっちは甘い匂いがする。まんま白桃……すご……」
「うちの子どもが絶対好きな香りだわ、これ。服にこの匂いついてたら、喜んでくれるかも」
どれがいいかを言い合いながら、互いのボトルを交換して嗅ぎ合っている。
まるで香水の試香会だ。
柔軟剤売り場でこんな光景が見られるとは思ってもみなかった。
「すみません、これって……飲めるって聞いたんですけど」
小声で尋ねてきたのは、通りすがりの初来店らしい若い獣人の青年だった。
「いえ、飲めません。どれも衣類専用です。口に入れたら体に害がありますので、絶対に真似しないでくださいね」
俺は念を押すように答えた。
青年は「あ、そうなんですね」と笑って引き下がったが、ボトルはしっかり抱えたまま棚を離れようとしない。
香り自体は気に入ったらしい。
「それにしても、不思議ですね。食べられないものが、こんなにいい匂いなんて」
別の年配女性が、ふと感慨深そうに言った。
「昔は、香りのするものって言ったら香木か煮込みか、そんな感じだったけど……これはまた違う、ふわっとしたやさしい匂いね」
それに若い客がうなずく。
「たまには、こういう“食べられないごちそう”もいいかもしれませんね」
「食べられないごちそう……って、なんか素敵だな」
「こういうの、ちょっと贅沢に感じますよね」
「服を洗うときに、いい匂いが広がったら……それだけで気分がちょっと上がるかも」
笑い声が弾けて、いつのまにか5~6人ほどの輪ができていた。
香りを楽しみ、好みの香りを言い合いながら、1本、2本と売れていく。
売上もそうだが、こんなに盛り上がるとは。
店の空気も、香りでふんわり和らいでいる気がした。
俺はその場を離れ、レジ横に戻る。
カップに手を伸ばして、ふと自分の服の袖口に鼻を近づけてみた。
「……あれ、ほんのり……?」
気のせいか、香りがうつってる気がした。
棚に囲まれていた時間が長かったせいかもしれない。
だけど、なんだか悪くない気分だった。
閉店間際、最後の客が店を後にして、シャッターが下りる。
蛍光灯の光に照らされて、俺はレジ横の椅子に腰を下ろし、今日最後の一杯に手を添える。
熱い湯気がゆらりと立ち上り、鼻をくすぐる。
今日はホットのままで飲むことにした。
「……ほんと、“いい香り”ってのは、いろんな意味で効くんだよな」
口に出すわけじゃなく、心の中でぽつりと思う。
そのまま一口飲んで、ひと息。カップを静かにテーブルに置いた。
外には夜の風。
昼の名残と夜の静けさが混ざる、そんな時間。
空には今日も、太陽の記憶と月の顔。
スーパーまるかみ、皆様の衣類にも香りのごちそうをお届けします。
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