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「待つんだネレイア! 今の君にかの巨獣を打ち倒す事は、月が太陽を覆い隠すよりも、赤子が峻険な山を越えるよりも難しい! このまま向かえば、獅子の如き君の獣猛は容易く剥ぎ取られ、君の星々の瞬きにも似た気高き輝きはこの湖の底に沈むだろう!」


 アクェーレに着いてから約数日。


「それでも、私は向かわねばならないです! あの子達は私に木漏れ日のような、澄み渡る大空のような笑顔を向けてくれた! それが今や大河を作らんと眦から雨を振らせている!」


 ゼルの姿は、都の中央付近に存在する巨大な円形劇場にあった。


 収容人数は約千人程の、ネレイア像と並ぶアクェーレの名物だ。


「私はこの国の、彼らの王として塔に選ばれた! なればこそ、私は行かなければならないのです! 例え目が硝子に変わろうと、腕が細木に変わろうと、ここは水の都! 湖の街! この足がある限り、私は泳ぎ続けられる!」


 現在の演目は『人魚と海魔』という、ただの少女ネレイアが心身共に立派な魔法使いへと成長する物語だ。


 第一幕は、ウィンディアナ水麗国に美しい平民の赤子が生まれ、歌と泳ぎが好きなごく普通の少女としてすくすく育つ様を描いていた。


 第二幕は、成長した少女の美貌に嫉妬した今は無き四公家の一つが彼女を潰そうとし、苦悩する彼女に当時のアクェーレ家が手を差し伸べるというもの。


 第三幕は、アクェーレに養子入りしたネレイアが恩を返すために己の才能を高め、戦闘技術も磨き始める鍛錬の話。


 二幕と三幕の間にネレイアは祖母を亡くしかけている。

 病への処置が封じられていたのだ。


 それはアクェーレ家の手助けで何とか出来たものの、ネレイアは大切な人を守れない己の無力を嘆いた。


 そして三幕に繋がり、更に現在終わった四幕へと繋がる。


 鍛錬を積んだネレイアが塔へと挑み、見事魔法使いとなって最初に訪れた厄災。

 それを打ち倒さんと決め台詞を放った所で、次の五幕へ移る。


 現在はその幕間、要は休憩時間だ。


「両家は仲が良かったはずなのですが」


 適当に流し見ず、真剣に演劇を見ていたゼルが息を吐いた時を狙い、リンは劇の内容に言及する。


 実際のネレイアを取り巻いた環境は良く、彼女が平民である事は変わらないがいざこざなんて何一つ起きていない。


 ただ彼女の才をアクェーレ家が見出して拾っただけである。


「物語だからだろうな。明確な敵対はそれだけで客を惹く」

「単純に忘れられている可能性というのは……」


 少しばかりの悲しみを孕んだリンの危惧に、ゼルはどう返したものかと押し黙る。


 物語故の改編か、正史として語られているのか。

 そこまではゼルも分からなかった。


 旧王都の廃墟郡と違い、ネレイアという一人の魔法使いを過ぎ行く景色として処理するのは難しい。


 魔法使いは人類の頂点なのだ。


「後で聞きに行くか」


 分からない以上は聞くしかない。そんな思いからの提案に、リンは感謝の言葉を告げる。


「ありがとうございます」

「構わない。ここに来たのはお前のためだ」


 本来ならば必要のない観劇。


 真剣に見ているという点では変わらないが、英雄譚の一幕での殺陣を見る時と比べると度合いが違う。


 取り入れるべき点が何も無いからだ。

 加えて、観劇にはそれなりの額が掛かる。


 ゼルにとってはなんの収穫も得られず、損をするばかり。

 だと言うのに街に着いてから足繁くこの劇場に通うのは、リンが知るものを語る演目が存在するからに他ならない。


 完全に、リンのためであった。


 ……と、リンは思っているのだが、表に出さないだけでゼルもそれなりに楽しんでいた。


 歌と泳ぎを好く少女が普通とされるように、この国では歌と泳ぎを嗜むものが多い。

 その国柄は演劇にも反映されていて、事ある毎に演者達は歌う。


 加えて、今彼らの目の前で五幕に向けた準備がされているのだが、劇場の底から雛壇湖の水が流れ込み、じわじわとせり上がっている。


 それは演者達のいる雛壇の上のみで、何故か客席には一滴も零れない。

 透明度の高い湖の水は、中で泳ぐ演者の姿を客にしっかり届けてくれる。


 この国の歌は、元々水中で意思伝達を図るための手段であったという。


 音の届きにくい水中でより響くように、届きやすいようにと先鋭化された特殊な歌は、聞いていて非常に心地がいい。


 それを聴きながら見られるのは、主人公役と悪役が水中で行う殺陣。

 優雅で迫力ある、舞うような泳ぎをしながら両者が交互に歌い、刃を交える。


 その様は、いつか見た踊り子(ヴィーラ)の踊りとはまた異なる良さがあった。


 視覚だけで全てを魅入らせる彼女と違い、彼らは聴覚にも訴える。


 劇場全体に響く聲は魂を震わせ、迫力ある泳ぎは肌を粟立たせる。


 それを見るだけでも、金を払う価値はあるとゼルは考えていた。


「なぁ、そういや聞いたか?」


 それに、だ。ここの価値は劇だけじゃ無い。


「聞いたって、何をだよ?」

「ほら、この街の美人が急に消えるって噂。最近囁かれてるだろ?」

「んぁ? 何言ってんだお前。この街には美人しかいないだろ。ほんと何言ってんだお前」


「それはお前だよ馬鹿野郎。そうじゃなくてだな、その中でも特に美人で才能に溢れた子が急に姿を消すって話だよ」

「はぁ? 姿を消すなんてそんなことあるわけ」


「比喩だよ馬鹿、分かれよ阿呆。……攫われてんの!」

「え!? 攫わもが……」

「馬鹿! 俺が声小さくした意味無くなるだろうが!」


 きな臭い話を始める男二人の会話に、ゼルは耳を澄ます。


 話を振った男がもう一人が大声を上げかけたのを抑えて辺りをきょろきょろ見渡すが、ゼルの様子には気付かない。


「……なんでも、歌が上手かったり、泳ぎが上手かったり、髪が綺麗だったり、そういう子が狙われてるって話だ」

「ほぇー、でも奴隷制度って大分前に撤廃されたよな。あ、帝国で復活したとか?」

「…………お前は馬鹿なのか違うのかどっちなんだ? まぁ、奴隷は無いだろうよ」


 ゼルが座っているのは、観客席の中央付近。

 初日以外、ゼルが常にここらを陣取るようになったのは、何も劇が見やすいからでは無い。


「なんでも、居なくなる晩には毎回変な人影が見えるらしいのよ。眉唾だけど、水の上を歩いてるんだと」

「はぁ……、お前馬鹿?」

「お前にだけは言われたく無いんだが?」

「水の上を歩くなんて、魔術でも難しいだろ。それこそ魔法……あ、クルヌテ様か?」

「いや人影は女だ」


 彼らのように、耳を惹く話がされる事があるからだ。


 ゼルの聴覚は人のそれより優れてはいるが、それでも巨大な劇場の隅々まで渡るほどではない。


 だからこそ、出来るだけより多く客達の雑談を盗み聞けるよう、真ん中を選んでいた。


「リン、今のを聞いたか」

「? いえ、何を聞いたんです?」

「行方不明者が居るらしい」

「調べます?」


 ゼルは無言で頷く。

 最早彼の意識は今から始まろうしている五幕ではなく、男達の話の内容に寄っていた。


 だがそれでも場を後にすることは無く、ゼルは物語の終幕まで見守る。


 夕闇に染まっていた空が完全な闇を映し、街を照らす照明が都邑を彩る。


 劇場の客はそんな外の変化には目もくれず、ネレイアと怪魔役のもの達の戦いをはらはらと固唾を呑んで見守る。


 疾走感と迫力に溢れる歌が緊迫感を助長させていた。


 ――ワァァアアアアア!!!


 歌が終わると同時に戦闘も終わり、劇場が歓声に包まれる。

 それは演者達の締めの台詞すら掻き消す程だ。


 歓声の中でも演者達は芝居を続け、遂にはこれまで出演した演者達と脚本家が登壇する。


 彼らが名乗り、感謝を告げると同時に頭を下げれば、先程よりも一層大きな歓声が演者達に降り注ぐ。


「ここまでの歓声は初めてでは……!」


 歓声に掻き消されるというのもあるが、この場で姿の見えない何かが発言しても疑いを持つものは居ないだろうと、リンが声を張り上げる。


 ゼルは無言の頷きを返すと、今日の劇団についての話を思い出す。

 これも客達の雑談から得た情報だ。


 曰く、今日の劇団はアクェーレで活動する劇団の中でも特に実力ある団だ。と。


 ゼルは確かにと納得した。

 演技の質は高く、歌は見事。泳ぎは翼人が空を舞っているかのよう。

 どれをとっても高水準に収まっていた。


「明日も楽しみにしてるぞー!」


 どこからともなくそんな声が聞こえてくる。


 そうして客の歓声が収まり、無秩序な騒めきに変わって、それすらも遠のいていく。

 客の殆どが去り、閑散とした席をゼルは下る。


 雛壇では演者達が後始末に駆け回っている。


 演目の終わりと同時に引いた湖水も、雛壇には少しだけ残っていた。


「あら、お客さん、どうしました?」


 ざぶざぶと音を立てて歩を進めるゼルに気付いた演者が、彼の元へ走り寄る。

 ネレイア役を務めていた女性だ。

 髪色はこの国のものである象徴とも言える水色。


「劇の内容について、少し気になる事があってな」

「あー、あはは……何かおかしかったですかね?」


 ゼルの言葉に、彼女は苦笑を浮かべて対応する。

 完全に面倒な客だと考えている表情だった。


「いや、俺がこの国の歴史に疎いだけだ。演技や歌に文句は無い」


 彼女の考えを察したゼルは、自身の足りない言葉を補足する。


 それを聞いた彼女は得心いったように頷くと、ゼルに待つよう告げて劇場の奥へ姿を消す。

 暫くすると、彼女は先程脚本家として登壇していた男を連れて戻って来た。


 彼女と同じ水色の髪を後ろに撫でつけ、眼鏡をかけた壮年の男だ。


「劇の内容は全部この人が考えてるんで、この人に聞いて下さい。じゃ、私はこれで」

「「あぁ」」


 二人で作業に戻る彼女を見送り、顔を見合わせる。


「劇の内容で気になる事があるとの事ですが」

「ネレイアの幼少期についてなんだが、あれは正史の通りか?」


 ゼルの問いに、脚本家は首を振って否定する。


「いえ、多少は改編を加えていますよ」

「やはりか。具体的にはどう違う」

「家の関係です。当時の四公家も、今の公家のように仲が良かったとの事ですから。あぁいや、今はどうなんだろうな……少し、ペテァーラ家が邪険にされてるような気がしないでも無いですが」


 予想と大して変わらない答えに、ゼルは幾度か頷く。


「昔の、ネレイアの時代の公家を知っているのか」


 だが、一応確証を得る為に掘り下げる。

 脚本家はにやりと笑みを浮かべ、首肯を返す。

 その際、眼鏡の縁が劇場を照らす光を反射した。


「えぇ、私は脚本を書くのに並行して、学者として文献も漁っていますので。当時の事で気になる事があるのならなんでも聞いて下さい、教えてあげますよ。あぁそうだ、せっかくですし近くの酒場で――ぐぇ」

「はぁーい、貴方にはまだすべき事があるでしょう?」


 割って入った演者が、唐突に早口で語り出した脚本家の首根っこを掴んでずるずると引き摺って行く。


「ごめんなさいねぇ、明日の準備もあるからぁ」

「いや、構わない。こちらこそ失礼した」


 謝罪を口にし、ゼルは踵を返す。

 彼の背には、翌日の演目だろうものの台詞を唱える演者達の声が届いていた。


「これで良かったか?」

「えぇ、ありがとうございます。ああいう性格の方であれば、恐らく事実でしょう」

「信用するには早くないか」

「人間は好きなものや得意なものを語る時には、決まってああいう表情をするんですよ」

「……そういうものか」


 リンの肯定に、ゼルはそれでいいのかと疑問を抱く。

 だが、本人が納得しているのだから構わないだろう。

 そう判断したゼルは劇場を出、宿へ向かうことなく街を彷徨い始める。


「行方不明者、でしたか。具体的な情報は?」

「居なくなるのは決まって女。それと水上に妙な影が現れるらしい。これも女だ」

「それはまた、厄介ですね……」

「あぁ」


 リンの言葉に釣られて顔を顰めるゼルの視線の先には、街の合間を走る無数の水路があった。

 水上の女影というのは、どこに現れても不思議では無いのだ。


「何か場所の偏りとかは無いんです?」

「そこまでは分からなかった。今日何もなければ、何処かしらで探るぞ」

「分かりました。何か手掛かりを見つけられると良いのですが」


 リンの期待とは裏腹に、ゼル達は一晩費やしても何も見つけられなかった。


 元ネレイア像が存在した広場、繁華街裏、住民街。多くを探れど、何かが見つかるような事は無い。


 しかし、翌日の劇場で、変化はあった。


「彼女が居ない!? どういうことだい!?」


 当惑、焦り、怒り。

 劇場の前には、複雑な感情を綯い交ぜにして叫ぶ脚本家の姿があった。

 周囲には、昨日の劇終わりに登壇した演者達の姿が散見される。


 しかし、その中にネレイア役を勤めていた女性の姿は、無かった。

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