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幻惑

本日は昼にもう一話投稿します

「何が……」


 目の前に現れた女性を前に、ゼルの思考は混乱の渦に叩き落とされた。


「本当にどうしたの、ゼル。もしかして熱でも」

「っ」


 動きを止めたゼルを、本気で心配そうに覗き込み、額に手を当てんとした女性。

 ゼルは咄嗟に一歩退き、彼女の接近を防ぐように左手を手前に置いた。


「あっ……」


 拒絶とも取れるゼルの反応に、女性は翡翠の如き目を伏せ、心配に下げていた眉を別の理由で下げた。


「ごめんなさい。そうよね、男の子はお母さんと一緒に居るのが恥ずかしくなる時が来るって、ゲイルが言ってたものね。少し早い気もするけれど、ゼルもそんな年頃になったのね」


 ゼルに言うというよりは、自分に言い聞かせるような女性の言葉を聞くゼルの耳に、がり、という異音が入る。

 それは奥歯が砕ける音だった。


「……いや、そうじゃない」


 目の前の女性が落ち込む様を見たゼルは、渋面を作りながらそう言った。

 言葉を発する際に吐き捨てた歯があった場所に舌を宛がえば、既に新しい歯が生えていた。


「ただ、調子が悪くて」


 夢を見る前の口調で、ゼルは目の前の女性から目を逸らしつつ、彼女を落ち込ませまいと言葉を重ねる。


「そうなの? なら良……くはないわね。それにさっきより顔色も悪い気がするし……、一旦家に戻りましょうか」

「いや、っ」


 女性の言葉に、ゼルは咄嗟に否定を口にする。


「良い。大丈夫」

「そ? なら、そうね。あそこの木の実を取ってくれるかしら。()()ゼルなら届くでしょう? あれを取ったら休憩にしましょ。切り分けてあげる」

「……あぁ」


 心配の音を孕んだ女性の提案にゼルは力無く何度も頷きながら、逃げるように背後の木に実る果実へと手を伸ばす。


「っ」


 だが、その手はある所で止まった。

 槍にしていた筈の黄金が、いつの間にか指輪になって右手の指に嵌っていたのだ。

 ゼルはそれを隠すように、素早く手を引っ込めた。


「どうしたの?」

「いや、なんでもない」


 ゼルは黄金の指輪を取ると、少し悩んだ末に口に含んで飲み込み、今度こそ果実を手に取った。


「これ……で?」


 そうして振り返ると、また周囲の景色が一変していた。


「よぅしゼル。今日は父さんの奥義を見せてやるぞ!」


 ぽろりと木の実が落ちた先は、森の土では無く青々と茂る芝に。

 周囲に生い茂っていた木々は、一本を残して全て無くなり、代わりに広々とした庭と幾つかの家屋群が並んでいた。


 ゼルが居るのは、その家屋群の一つ。

 庭の隅に植えられた一本の木が特徴の、他と何ら変わらない家の前。


 そこには――


「おい、どうした? ぼーっと突っ立って。奥義だぞ奥義。凄い技なんだぞ? 何か反応してくれても良いと父さんは思うんだが?」

「奥義って言っても、使う機会なんて殆ど無かったじゃない。ねー?」

「だうだー!」

「ほら、レイラもそうだって」


 ――先程と比べて幾分か若い女性と、それに抱かれた赤ん坊。そして、先程女性が居た位置には、一人の剣を持った男性が。


「んな事言ったってなぁ……、奥義なんだからそりゃあ、危機に陥りでもしない限りは使わないさ。実際、使うべき時には使ったろ」

「そうね、本当にあの時は助かったわ」

「だろう?」

「えぇ」


 どうだゼル! そう言わんばかりのドヤ顔を向けてくる男性を前に、和やかに会話をする二人を前に、ゼルの渋面がより苦いものとなる。


「だからゼル。俺がこれで母さんを助けられたように、お前もいざって時に使える技を身に付けとけ。これはその参考だ」

「……無理だ」

「なに?」


 絞り出されたゼルの声に、男性……父ゲイルが怪訝な顔をする。


「……守るべきものは、貴方達は、皆死んだ。俺には無用の長物だ」


 言いながら目の前の父親を見据えるゼルの目は、ほぼ睨んでいると言っても良い。

 強く握り締めた拳からは血が流れ、額には青筋が浮かんでいる。激情を抑えんと、ゼルの全身に力が入っていた。


 何が起こっているのか。それ自体は分からねど、死んだ筈の家族を前にして、ゼルの心の内は多くの感情が渦巻いていた。


「…………」


 そんなゼルを前に、父ゲイルは妻である母セレスと顔を合わせた後、ゼルに向き直って剣を大上段に構えた。


「なぁ、ゼル。俺にはお前がなんでそんな顔してんのか、何を悩んでんのか分からねぇ。だって俺達はここに居るからな。でも、分かるぜ」


 ゲイルが見据えているのは、かつての記憶の中に居る幼いゼルでは無く、今目の前に居るゼルだった。


「お前が何かに苦しんでるってのは。俺達がお前をどうするか揉めて、爺さんを呼んだ後も、お前はそんな顔をしてた。覚えてるか」

「あぁ、よく覚えてる」


 真摯な目で見つめられたゼルは、自白するように目を逸らしながらそう言った。


「目を逸らすな!」

「っ」


 だがその目は直ぐに、父の元へと戻る。


「あん時は、俺達が居た。……まぁ、原因は俺達の喧嘩だが、それでもだ。だが今は、俺はお前に何も示してやれん。だから、もう一度これを見ろ」


 一時は焦がれた父の勇姿に、ゼルの顔が歪む。


「行くぞ」


 そして――


「ぜぁぁあアアッ!!」

「っ、なっ!?」


 尋常でない速度で接近した父が振り下ろす剣に、無銘の剣で対応しようとして剣が鞘に収まっていない事に気付いたゼルは、咄嗟に右腕で自分の身を庇った。


「………………?」


 そうして衝撃に備えるも、いつまで経っても剣が来ない事に疑問を覚え、ゼルは視界を塞ぐ右腕を取り払う。

 すると、再び景色が変わっていた。


「確か、リンフォード家の倅だったな」


 ゼルの目の前に居るのは、父親と同じ男でも体格は一回り大きく、顔中に傷痕のある強面の大男。

 彼は昼の陽光に照らされた部屋の中で、角杯を片手に机の向かいに座っていた。


「ガンズ・フラウ……」

「あ? なんだいきなり。人の顔見て摘まれたような顔して」


 彼の言葉は正にゼルの心境そのものだったが、ゼルはそんな事にも気付けずに目の前の男を呆然と見つめていた。

 男は微動だにしないゼルを胡乱な目で見つめるも、暫く経つと空になった角杯で机を打ち鳴らしてゼルの意識を戻した。


「使ったな」


 主語のない言葉に、ゼルは首を捻った。


「剣だよ。うちのミリアを悪ガキ共から助けてくれた事には感謝するが、力を振りかざしてってのはやりすぎだ」


 説教じみた言葉に、ゼルは漸く今居るここが何時なのかを理解した。


 両親達との修行に暮れた結果、母セレスがこのままだとゼルに友人が出来ないのではと憂い、毎日続いていた修行の日々に休養日が作られた、その最初の日。


「お前さんは元冒険者の両親に扱かれてるんだろう? 他の子供たちより遥かに強いってのは自覚すべきだったな。それとも教わってねぇのか」

「いいや、教わっていた」

「なんだ、分かった上でガキ共殴ったってか?」

「あぁ」


 ゼルは今自分が置かれている状況をどう切り抜ければ良いのかと考え、試しにかつての記憶をなぞろうと思い至った。

 だが、その考えは、苦いままの顔は、目の前の男の声を聞く度に怒りに歪んでいく。


「いいか坊主。力には責任ってもんがある。振るうべき先がある。少なくとも自分より遥かに弱い奴らを前に振りかざすもんじゃねぇ」

「振るう先を間違えたのはあんたもだろう」

「なに?」


 先程男が机に角杯を叩き付けた時よりも、更に大きな音を立てて机に手を着いたゼルは、男を睨み付けながら吼えた。


「なぁ、あの時あんたは何処に居た? 村が滅んだ時、娘を放って何処に居た!?」

「は? 滅……いきなり何言ってやが」

「あんたが居れば! 現役のあんたら夫婦が居れば、あんたの大盾があれば! 全員とは行かずとも数人の命は守れた筈だ!」


 そうして叫び出したゼルの言葉は、堰を切ったように止まることを知らずに漏れ続ける。


「ミリアを守った? ふざけるな! 皆死んだ! お前の娘も、その悪ガキ達も、村のもの達皆! 俺がどうやって村の滅びを知ったか分かるか? 彼女達の腕が組合経由で送られて来たからだ! 来たら連絡をと頼んで渡した腕輪の絵と、同じ腕輪をした少女達の腕が!」


 多くの感情を綯い交ぜにした猛りに、強面の大男は尋常でないものを見たような顔をしてゼルを見た。

 その顔を見たゼルの怒りに、より多くの油が注がれる。


「なぁ、ガンズ・フラウ。剛壁ガンズ。お前は今何処に」

「だめーー!!」

「っ!?」


 そうして、終いには大男に掴み掛からんとしたゼルの背後から、幼子特有の甲高い声が響く。

 ゼルがはっとして振り返ると、そこに居たのは一人の少女。


「ミリア……」

「おとうさんをいぢめないで!」


 呆然とするゼルに向かい、少女が飛び掛る。

 それは少女の跳躍にしては高く、ゼルの顔まで飛んでいく。

 ゼルは少女を受け止めようと身構えた。だが少女の体はゼルの顔面を素通りし、直後に再び視界が変化した。


「ここは……」


 そこは暗い洞窟の中。

 大人二人が並んで歩くには少々狭いものの、子供達が探索するには十分広い幅の道。片隅には小川が流れている。


「おいゼル、どうしたよ立ち止まって」

「兄ちゃん腹痛いのー?」

「なにか見つけたのか?」

「それか変な物食べたとか!」

「お前はなんでゼルの腹を悪くさせたいんだ?」

「うー?」


 記憶よりも狭い……否、自分が大きくなった事で小さく感じる洞窟。

 そこでゼルに声を掛けたのは、やはりと言うべきか、覚えのあるもの達。

 十三歳ほどの年長の男の子に、そこから順々に下がって十二歳、七歳の子が一人づつ。そして九歳の子が二人。

 どの子の顔も、ゼルの内に何かが込み上げるには十分な、懐かしいものだった。


「っ、いや、何でもない。進もう」

「おう、そうだな」


 目を逸らすように、逃げるように前を振り向くゼルに、年長の少年が快活に応えた。


「そういや、変な食いもんっつったらさー、この前父ちゃんが蛇の腹ん中の雛子が美味いってんで食おうとしたんだよ」


 歩いていく中で暇を持て余した九歳のやんちゃな風貌の少年が、七歳の子がゼルの腹事情に言及し続けた事に際して、似た話題を持ち出した。

 そのあんまりと言えばあんまりな内容に十代組が顔を顰める中、やんちゃな少年は気にも留めず言葉を続けようとする。


「でもさ、結局」

「消化しきられてなくて、大量の毛がこびりついた状態だったから食えなかった」


 だが言葉を継いだのはゼルだった。

 自分の言葉を取られた少年は、目を数度ぱちくりさせると頭の上に疑問符を浮かべた。


「あれ、俺この話前もしたっけ?」

「いいや、今日が初めてだ。……今日がな」

「だよな?」

「ゼル兄ちゃんすげぇー! 未来が視えんのか!」

「いや、この場合は過去じゃないか?」

「どっちにしても魔術か魔法だろ? 魔術が使えないゼルには無理じゃん」

「……となるとどうやって?」

「分かんないけどすげー!」

「お前はもうちょっと考えろよ……」


 言い当てたゼルに、どうやったんだと盛り上がる子供たち。

 彼らに掛かれば仄暗くじめじめした陰気な洞窟も、一瞬で快活な声で満ちる陽気な場所へと変化する。

 ゼルは彼らのやり取りを背に、苦渋に顔を染めていた。


「魔法使い様はなんて言ってたっけ? アレン覚えてるか?」

「いや、流石に覚えてないな。でも、時間に干渉するとかってなると、魔法じゃないか?」

「でもゲイルおじさんとかガンズのおっちゃんとか、狩りの時に追跡の魔術使うって話だぜ? あれだって一応過去だろ?」

「それは臭いとか色々残ってるじゃないか。過去や未来の会話を盗み聞くのと比べたら大したことないよ」

「それもそうかー……。あっ、でも音が残ってたりしないか? その場所の音をどうにか再現するとか」

「もしかしたら出来るかもだけど、時間の指定とか、そういうのが出来ないとおばちゃん達の話しか聞こえないんじゃないかな」

「うへぇ……、あれが何十にもなって聞こえるのか……」

「地獄、だねぇ……」

「だなぁ……。でも可能性があるってのは分かったな」


 年長の少年と、村長の子であり他の子よりも多くの教育を施されている十二歳の子が、魔法と魔術について話し合う。


「でも、蛇に消化させたの食おうとか、コルの父ちゃんは馬鹿だな!」

「うるせー! まぁ、俺もそう思ったけど」

「でも、コル兄ちゃんの父ちゃんのご飯すっごい美味しいし、きっとじっけんしてるんだよ!」

「いや、弟よ。コルの父ちゃんはただ馬鹿なだけだと思うぞ」

「それは息子の俺も同感だ。実験するほど頭良けりゃ先に羽毟るはずだもんなー」

「違いない。ていうかそこ言わなかったのかよ」

「面白いから黙ってた」

「おい」


 一桁組はゼルの話題から飯の話題に戻り、蛇食の父親について面白おかしく騒ぎ立てる。


 そんな未だ声変わりを迎えていない少年達の甲高い声が容赦無くゼルの耳朶を打ち、遠慮無く心を揺さぶっていく。


 聞き覚えのない会話だけど、聞き覚えのある声に、やり取り。

 年長組が難しい話をしだすと、途端に三人は馬鹿話を開始する。ゼルはその時々によって、どちらかに混ざる。

 だが今は、どちらに混ざる余裕も無い。


「おい、ゼル。どうした?」


 子供達の声から逃れようと早足になるゼルを、アレンと呼ばれた年長の少年が呼び止める。

 届くべくもなかった身長の差が、今では正反対になっている。

 それがゼルに、どうしようもなく過去の出来事であると知らしめる。


「あれ、おい、道が塞がってるぞ!」

「行き止まりぃ?」

「終点かよー……」

「いや、水はまだ流れてる。この岩を退かせば先に行けるはずだ」


 ガンズの時同様、お前達は……と、そう言おうとするゼルの耳に、立ち止まった二人を置いて先に進んだ少年達の声が届く。


 思わずゼルがそちらに目を向けると、四人の双眸が全てゼルに向いていた。


「ゼルなら砕けるんじゃないか?」

「いつもの剣で! 兄ちゃんなら出来るよ!」

「お前の力はデタラメだからなー」

「俺が魔術を習得出来てたら良かったんだが、いいか?」


 かつて掛けられた言葉と、同じもの。

 だがその時と違うのは、力を自慢に思っていないことだ。頼られる事が、微塵も嬉しくなかった。


「ゼル」

「……アレン、お前は」

「頼めるか?」


 見た目こそ成長しているものの、孤児のように孤独に佇むゼルに、アレンが声を掛ける。

 ゼルは彼の顔を見て、少年達の顔を見て、逃れるように大岩に手を掛けた。


「退いてろ。砕けば、水路が塞がる」

「だからって持ち上げるのかよ……!」

「すげぇー!」


 そうして、ゼルは人外の膂力を遺憾無く発揮し、広がる視界がまた変化する。


「「「私達女子れんめーは! やんちゃばかりの男子達にこーぎします!」」」

「だからって村から追い立てるこたァねえだろ!」

「「そうだそうだ!」」


 それは、月が一つ巡れば、ゼルが眼を使うという冬の事。


「もう、やめてくれ……」


 やんちゃばかりの男子を見兼ねた村の少女達が、ゼルが男子達と遊んでばかりで構ってくれないと訴える、妹レイラの言葉に決起したその日の暮れ。

 大人達にとってはほんの小さな、子供達にとってはとてつもなく大きな、戦いの日。


 そして、ゼルの記憶の中で最も楽しかった、想い出の日であった。

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