魔境に潜みし黒隠り
「――――!!」
向かい来る人狼に対して初撃を取ったのは、大きな翼持つティズィアであった。
迎撃した人狼は勢いのまま数歩分後退り、鍔迫り合うティズィアに向けて爪を振るう。
巨大な翼を羽ばたかせ、距離を取ると同時に風圧で人狼にたたらを踏ませたティズィアに、横から一匹の人狼が襲い掛かる。
ゼルはそれを防がんと駆ける足の回転を早めるが、それは徒労に終わる。
「――――!」
ファルンの槍同様、ティズィアの槍が光を帯びたかと思えば直後に爆散。空中に身を躍らせていた人狼を吹き飛ばした。
ゼルは眼前の光景に少なくない驚きを覚えたが、ティズィアが魔術を使えないとは誰も言っていない事を思い出す。
吹き飛ばされた人狼にファルンの魔術が降り注ぐ。
ゼルはそれを尻目に、ティズィアの背に向かうもう一匹に向けて吶喊。
「ぜァ!」
抜き放つと同時に振るわれた無銘の剣を躱した人狼。
素早い徒手空拳に混じる噛み付きに、ゼルは眼前の手合いを変則的な人型と捉えて対処する。
そうする事で、ゼルの動きは眼を介さずとも鋭く、速く先鋭化されていく。
ゼルが魔法使いとの旅の合間に最も相手にしてきたのは冒険者。つまり人だ。
剣士、盾使い、弓使い、短剣二刀流、徒手空拳。
武器種、体格、戦術。
全て違う大人達に子供の身で勝とうともがいた研鑽。
幼い頃から両親達に教授されてきた技術。
それらは不死の黄金に身体を作り替えられてなお、彼の身に染み付いていた。
振るわれる爪を半歩下がり首を傾げて避ける。
次いで胴元に振るわれようとする腕を見て、敢えて身を近付ける。
振れなくなった腕の代わりに苦し紛れに近付く顎を片手で抑え、逆手に持った無銘の剣の柄で腹を叩く。
「ふっ……!」
「ギャウ!?」
互いの間に出来た空間で、逆手のまま剣を直上に振り上げる。
与えた傷は浅いものの、当たり所が悪かったおかげで眼前の人狼は片目を喪った。
痛みに怯んで飛び退いた人狼に、ファルンの光弾が着弾する。
「らァ!」
そうしてたたらを踏んだ人狼に、剣を持ち直したゼルが剣を突き立てる。
「ゼル!」
「っ!」
ティズィアの呼び掛けに、ゼルは自分に寄り掛かる人狼と共に振り返り、人狼の身体を掲げて蹴り飛ばす。
瞬間、剣を引き抜かれて空中に投げ出された人狼が、鈍い音を響かせて勢い良く横に吹っ飛んだ。
そうして姿を表したのは、別の人狼。
ゼルは目の前のものが腕を振りかぶるのを確認しながら、素早く周囲を見渡す。
既に命を絶っているの人狼は二匹。
残りの三匹の内一匹は眼前に居る。
他の二体の内一体は魔術を放つファルンに向けて疾駆しており、数秒もすれば彼女真下に辿り着くだろう。
そして最後の一匹は――
「もう一匹は何処に行った!?」
――姿が見当たらなかった。
ゼルは困惑と共にティズィアに人間の言葉で問い掛けながら、飛び掛る人狼の爪を剣で受け逸らす。
『我らの動きを見て即座に退いた! 恐らく増援を呼ぶつもりだろう!』
ティズィアはゼルが何を言っているのかは分からなかったが、状況と反応から凡そを予想して受け答えた。
『場所は!?』
『向こうだ! 頼めるか!』
「あぁ!」
二三振るわれる腕をいなして躱した所で、ティズィアが槍で足を引っ掛けて人狼を転ばせる。
そうして出来た隙の間にゼルはティズィアが示した間隔の狭い森の中へと走り出す。
岸と岸。
ただ川を挟んだだけだと言うのに、人狼の逃げ込んだ森の木々は三人が来た側よりも狭かった。
「そこか!」
鬱蒼とした森の中で遠くに蠢く何かを見つけたゼルは、手元に槍を作り出して枝々の間を狙って投擲する。
その際にゼルの身体は勢いで泳ぎ、目の前の木にぶつかりかけるが、全力で拳を振り抜いて木を突き破る事で強行突破する。
今の彼の半身は眼から迸る紅の線を纏っている。
既に川が見えない所まで来ているが故に、隠す必要が無くなっていた。
眼による身体強化を得た事で馬を超える速さで駆けるゼルは、ほんの数秒足らずで先程何かが居た木の下へと辿り着き、血痕がある事を確認した。
以降の追跡は簡単だった。暗い森の地面の中でより暗い色を返す血を辿るだけなのだから。
それに血特有の鉄錆のような匂いはゼルにとっては親しみのあるものだ。彼の優れた嗅覚が逃すはずも無い。
「?」
だが、その対価と言うべきか。ゼルの聴覚が遠のいた筈の川のせせらぎを捉える。
それは緩い流れの川とは違い大きく、荒く、飛沫を上げる音。
「ヴァァァアアアア!!!」
「なんっ」
幅こそ大して変わらないものの、水の流れや深さが段違いの川にゼルが到着した瞬間。
川を飛び越えようと跳躍した人狼に向かい、川面から姿を現した巨影が更なる跳躍を遂げて人狼を丸呑みにした。
「カロロロロロロ……」
「まさに魔境だな、ここは」
長い尾の先が魚の鰭ように変貌している巨大な鰐が川岸に上り、人狼の血に塗れた牙を剥きながら威嚇してくるのを前にして、ゼルは少し動いただけで新たな戦闘が起こるこの森の有り様に毒吐いた。
大蜥蜴より大きな鰭鰐に睨まれたゼルは、人狼用に引き抜いていた槍を消し、即座に身を翻した。
自分の手でやったわけでは無いが、増援を呼ぶ人狼を仕留めるという目的は成し遂げた。
ならば次に移すべき行動は新たな敵との戦闘ではなく、逃避による合流だと定めて走るのみ。
「ヴァアア!!」
そうして木々を掻い潜りながら疾駆するゼルを、鰭鰐は巨体の突進力を活かして木々をへし折りながら追い掛ける。
「流石に早い……!」
鰭鰐同様、時たま木をへし折りながら木々の間を駆けて行く。
横に跳ね、枝から枝へと渡り、倒れた木を飛び越える。
そうして緩やかな川のせせらぎが近付いて来るのを捉えたゼルは迫る鰭鰐との距離を確かめ、王眼に注いでいた魔力を抑える。
リンが自分達の事情を、彼の主の事を嘘混じりとはいえ話していても、ゼルは王眼と不死の黄金を晒すつもりは無かった。
『ゼル! 何が起きている!?』
『あれだ!』
川に飛び出したゼルは、ティズィアの言葉に川面に鎮座する鰭鰐の像を指指す。
何が迫っているのか察したティズィアは、急いでゼルの元へと飛ぶと彼の肩を掴んで自分達の臥へ向けて羽ばたいた。
「――――――」
だが、リンを肩に載せたファルンが飛び立たない。
彼女はティズィア達が横切るのを尻目に、川面に手を付いて何事かを唱え始める。
『おい、ファルンは』
『見ていれば分かる!』
そして何も起きぬままに、ファルンもティズィア達の後を追い飛び始めた。
ゼルは彼女の行動の意味が分からずに首を捻りながら見ていたが、それは鰭鰐が川に飛び出た瞬間に理解した。
「なっ……」
浅瀬の川を走るのは、川を傘増す凄まじい量の水。
巨体を誇る鰭鰐も、鉄砲水の如き勢いの洪水には抗えずに流されて行く。
何も起こっていないのでは無かった。
ファルンが飛び立った時には、既に起きていたのだ。
『時間は稼ぎました。急ぎますよ!』
二人に追い付いたファルンの額には、玉のような汗が浮かんでいる。
彼女が近付いてきた人狼に対してどのように動いたのかはゼルには分からない。
だが、少しの間激しく動いただけでここまでなるだろうか。ゼルは自分の中に浮かんだ疑問に、魔力切れという答えを導き出す。
川の水を増量させるなど、どれ程の魔力を以て成した奇蹟なのか。
普通の魔術が使えないゼルには分からない。
だがそれでも、生半可な技量や魔力量では不可能だろう事は容易に想像出来た。
『それで、人狼はどうなった』
樹人語で聞かれ、ゼルは一瞬だけファルンの肩に乗るリンの方に顔を向けるが、通訳を頼むには若干距離があった。
『奴の腹、中』
単語だけを並べたゼルの言葉に、ティズィアは薄く笑った。
しかし、その笑みは苦く噛み潰される事となる。
『でかい……ファルン、魔力は!』
『殆どありません!』
「?」
ティズィアに後ろ向きに掴まれている影響で進む方向に目を向けられないゼルは、慌てた様子で翼人達が会話を交わすのを聞き、何があったのかと首を傾げ耳を澄ます。
だが、空中をかなりの速度で移動していることによる風や、翼人達の羽ばたきで聞こえない。
しかしそれだけで掻き消えるような小さな音はこの森では少ない。
だとすると、最初から小さい音のナニカか。
「リン!」
「大蜘蛛です! どうやら一所で食料を量産しすぎたようで、色々なものが集まった結果彼らが巨大な巣を!」
ゼルの呼び掛けに解を渡したのは森の智者。
大蜥蜴討伐の時に通った所は迂回していた筈なのに、ゼルが一箇所で獣やら愚醜人やらを殺した結果、死体を漁りに他のもの達も集まり、更にそれを狙う大蜘蛛達が巣を作っていたのだ。
『迂回するにも範囲が広い。ここは一旦戻っ……ティズィア!』
「ゼル様!」
「っ!」
『ぬぉ!?』
ゼルはリンとファルンの叫びに嫌なものを覚え、咄嗟に近くの枝を掴んだ。
ゼルが唐突に枝を掴んだ事でつんのめったティズィア。
体勢を崩しながらゼルを手放して落下しかけた彼の背に、しゅると伸びたのは白い糸。
『感謝する!』
一瞬何をするんだと言いかけたティズィアは、体勢を整えて振り返った先に張り付く極太の蜘蛛糸に冷や汗を流した。
「ゼル様!」
『なっ!?』
ティズィアの感謝を聞き届けたゼルは、ファルンの背から飛び出したリンを捕まえて肩に乗せると、枝から手を離した。
『貴方達、』
「ファルン! ――――!」
「っ!?」
ゼルは迫る蜘蛛糸からティズィア諸共逃れる為。
だが、唐突にゼルの元に飛んだリンの行動が理解出来ず、思わずその場で身を翻したファルンの背後を、ティズィアの魔術が走り抜ける。
ティズィアに何事かを言われながら振り向いたファルンは、魔術によって散らされた蜘蛛糸の先に居る大蜘蛛に向けて吶喊。
細かく放たれる糸玉を躱し、切迫した所で放たれた新たな玉を、光を纏わせた槍で大蜘蛛諸共切り裂いた。
魔力が枯渇しかけている状況で魔力を扱ったファルンの羽ばたきが、遠目にも明らかな程に弱々しく変化する。
そんな彼女の元に行かんとティズィアが動くが、蜘蛛糸と糸玉に時たま混じる溶解液を警戒して迂闊に動けずに居る。
その間に大量の大蜘蛛達が彼の周囲の木に糸を張り、包囲網を作らんと森を縦横無尽に駆け巡る。
ティズィアはファルンに近付くのは不可能と断じると、一瞬だけゼルの方を一瞥した後に、蜘蛛達に囚われないようその場を離れ始めた。
「ゼル様、こうなっては」
「分かっている。まずはファルンの元へ行く。ティズィアの方はまだ持つ筈だ」
言いながら進路上に放たれた蜘蛛糸を割り砕いて走るゼルの右眼は、紅の色を灯している。
そして今、彼の手に握られているのは冷気を纏う二本の剣。
無銘の剣は抜き放たれず、仮に白の剣を抜いていたとしても数の合わない二つの魔剣。
「彼女がああなっているのは俺が鰭鰐を撒こうとしなかったのが原因だ。この際信用の保持は捨てる。彼女を救うぞ」
鈍い動きになった事で抵抗虚しく、容易に蜘蛛糸に絡め取られてしまったファルンを見遣り、ゼルは己の失態の責を果たさんと大地を強く踏みしめる。
「その為にも、リン。お前の知識をくれ。奴らの糸はどう見分ける」
「追うだけなら、その必要は無いかと。恐らく今張り巡らされている糸は全て捕縛用の」
そんなやり取りを交わす二人の横で、張られた糸の上を一匹の蜘蛛が伝い走る。
「…………」
「……どうやら縦糸もあるようで。違いは太さです。あれよりも横糸は細い」
ゼルはリンの言葉に唸ると、唯一粘着性がない事が確定している、今しがた蜘蛛が走っていった糸に向けて跳躍した。




