序章:幻想は獣と踊りて剣を手折る
「この程度……!」
諸共に吹き飛ばされた細かい瓦礫の幾つかを身体に突き刺しながら、地面を幾分か削って着地した男は、その場で白身の剣を地面に突き立てた。
そして己の手元に現れた新たな剣を握り締め、魔法使いの元へと吶喊した。
「正面から来るとは舐められたものよ! 力を得た程度でそこまで傲るか!」
「死を求める身で傷を厭う理由が何処にある!」
言葉の通り、男は魔法使いの杖から迸る淡い光が突き刺さって衝撃を放とうとも止まることなく走り続けている。
魔法使いは対応を変えることにし、杖を男ではなく周辺に無数に転がる瓦礫達へと向けた。
すると驚くべきことに瓦礫達は重力に逆らって浮かび上がり、あっという間に男を中心とした巨大な瓦礫の塊玉が出来上がった。
男は抵抗する暇も無く瓦礫達に呑まれたが、それでも何もしていないわけではない。
「ぬぅ!」
男に吸い込まれる瓦礫達の流れに逆らうようにして男の手から放たれた剣は、空を飛ぶ鳥のように宙を舞い、魔法使いへと襲いかかった。
対して老人はその見た目からは想像もつかない程に軽快な動きで剣を躱し、身を翻して尚も襲いか掛からんとする剣に己の杖を打ち合わせた。
そうして四、五回程打ち合わせると剣は突如として砕け散り、霞のように姿を消した。
「ふむ、これはちと厄介だの」
魔法使いは剣が砕けた事象に首を傾げる所か、険しい顔を浮かべて、轟音を立てて崩れ去る瓦礫玉の中央に目を向けた。
黄金の煌めきにより刺さった瓦礫達を身体から押し出し、無傷の肌を覗かせる男の両の手にはそれぞれ反りの入った片刃の剣が握られていた。
そして、その背には刀身の長い直剣が、三本程宙に佇んで切っ先を彷徨わせている。
「あくまで物を介すとはな、魔法使い。幻想の獣達を喚べ。この世ならざる地に棲まうもの達なら俺を殺せる筈だ」
「笑止。お主程度のものを相手取るのに、あれらの助力は過剰に過ぎる。今一度問おう、何故お主は死を求める。一度は立ち上がっただろう、ならば」
「その結果がこれだ! 分からねぇか魔法使い!」
男が大手を広げて吼え猛る。周囲には彼ら以外の気配を宿さない壊れ、荒れた建物が無数に横たわっている。
「家族は死んだ! 友は消えた! 故郷は潰えた! その間に俺は、俺達は何をしていた? 人助け? 肝心なものを守らずに? 下らないにも程がある!」
「それでもお主が救った命は本物だ! 幼い身で勇気を振り絞って剣を振るったお主は、お主が焦がれた戦士であった!」
男が剣を振るわずに吼えるのならば、まだ説得の余地はあると魔法使いも応じて吼える。しかし、男は嗤った。歪んだ笑みで嘲笑するように嗤った。
「否だ! それこそ否だ魔法使い! 戦士とは、守るべきものの為に剣を振るう気高きもの達だ! 確かに中には金の為に剣を振るうものもいよう。だが、それ等の為に剣を振るい、護り誇るものこそ戦士だ! 対して俺はどうだ? 守るべきものから離れ、一時は道楽に彼らを忘れた! そんな愚図を戦士と? 摂理から外れ、道理からも外れたか、ゾロディナ・レストンボンラ!」
その言葉に、魔法使いは失望ではなく希望を抱いた。男の内に燻る戦士達への羨望は未だに脈を打ち続けている。
全てを棄てたと宣いながら、この村のもの達を自己のやり方で弔ったのだ。男は完全に修羅の道へと堕ちたわけでは無かった。
「だとしても、全てを楽しんだわけではあるまい! お主は人の死に心を痛め、瞼を伏せた! 今もだ! この村のもの達への悔恨は残っておる! ならばやり直せよう! ゼル!」
対するはやはり嗤い。
魔法使いとなってから常に彷徨い、多くに触れた老人が良く見た、己を壊そうとするもの特有の自壊の笑い。
「確かにそうかもしれない。だが表面上は、だ。最初は、だ。俺の頬は吊っていた。人の血に濡れた剣を持ちながら、俺は笑っていた。何故か? 楽しかったからだ! 十全に振るうことを許されぬこの力を、思う様に振るえる闘争に悦び、込み上げる猛りのままに腕を振るうのが楽しかったんだよ!」
己を卑下し、責め、壊れる者は多くいた。
それは今己の眼前で、悲痛とも取れる声を上げて叫ぶ男も同じだった。
魔法使いは、先の己の発言の撤回を決意した。
旅の合間、厄介事に巻き込まれないようにと男に力の行使をしないよう言い付けたのは自分だった。
にも関わらず、男に実力をつけさせるために旅で出会う多くの戦士達と手合わせをさせたのは自分だった。
男が自分の内で封じ込めていたのだろう、全力での闘争への欲求を満たさせたのも自分だった。
自分の実力不足と、ある種の傍観主義が与えた蜜だ。
ならば責を負わねばならない。
ならば発散させねばならない。
今男を満たすのが闘争ならば、死への欲求故の闘争ならば。
今宵は冬至。この世界で成人を意味する、彼がこの世に生まれてより十五回目の冬至。
我儘な子供に最後の折檻を。
話をするのはそれからでいい。
「……相分かった。お主の有り様は理解した。我、幻想の塔を担うもの。幻境の獣と在りしもの。死を渇望する憐れなものよ、悠久を生きる運命にある我が術法に刮目せよ。この世ならざる獣の叫びに心胆を震わせ、昂った血を流し冷やすがいい」
「………………。感謝する、遥かな守護者よ。そして死ね、俺を殺せないのならば、老骨に求めるものは何も無い」
「ほっほ」
魔法使いの雰囲気が変わった事を機敏に察知した男の言葉に、今度は魔法使いが微笑った。
「舐められたものよな。儂は確かに若輩だが、お主の前代の生を含めてなお足りぬ日々を過ごした老獪よ。そして、儂が継いだは最強と謳われた者が遺した叡智の結晶と幻境よ。高々世界を滅ぼしかけただけの獣の同胞と言うだけで、イキるでないわ小僧」
「そんな幾つかの種族を滅ぼしただけの御伽噺の魔王に先代が殺されたこと、知らないわけじゃねぇだろ」
「……儂も全力を振るったのは幾百年前の荒れていた時期以来無かったからの。付き合うて貰うぞ」
「上等、俺も生半にあんたを殺せるとは思って――ッ!?」
開戦の合図は、男が突如として現れた巨大な獣のようなものの顎に呑まれ、唯一喰われなかった右腕が落ちた音だった。
「――――――――――――」
叡智を継いだものが、常人には聞き取れぬ不可思議な音をその口から紡ぐと、どこからともなく現れたナニカの腕が男の右腕を磨り潰した。
「…………っ………………はは…………ははははははは!!!」
「なん……っ」
直後、ナニカの顎が打ち破られ、引き千切られる副音声を伴いながら、村中に哄笑が響き渡った。
「そうか! 死なんか! 結局死なねぇのか俺は! クソッタレがぁ!! ぶぐっ!?」
両手で顎に開いた切り傷を無理矢理押し開いて出て来た男は、表皮の多くを爛れさせながら、歯を剥き出しにして頬を吊り上げている。
ある種の狂気を感じさせる笑みを浮かべる男は顎を開いて出来た門を潜り、第一歩目を踏み出すと素っ頓狂な声を上げて魔法使いの前から姿を消し、代わりに数本の剣が魔法使いへと飛んできた。
「それならもう知っておる!」
だがそれらは魔法使いが軽く杖を振るうだけで粉々に砕けて姿を消した。魔法使いにとって剣を消すのは、最早触れるまでも無く出来る事だった。
剣の現消、瓦礫の重力への反逆。
それらを初めとして今起こっている尋常ならざる事象は全て、魔力という不可思議な力によって齎されていた。
男の魔力は歪であるが故に後述になるが、魔力という力を簡潔に説明するならば、事象の錯覚を齎し操る存在というのが一番だろう。
例えば、荒れ果てた荒野に"水がある"と錯覚させれば、用いられた魔力の量に応じて手の平で掬えるほどの水が現れたり。
ともすれば小さな泉が出来上がる事もある。
とはいえ、錯覚というだけあり、それらは時間が経てば露と消える。
それはまるで、人が夢から覚めた時のように。
世界がこれは違うと唱えるように、魔力を用いて生み出された事象は軈て姿を消す。
だが中には半永続的に続く事象もある。
それは制約や宣誓の類を用いた誓いであったり、その事象に対して魔力を注ぎ続けていたり。
しかしそれらも最終的には潰える。
言葉や書簡を用いても、何らかの拍子で認識の齟齬が生まれたり、描墨が途切れたり、そんな些細なものでそれらは効果を消してしまう。
魔力を注ぎ続けるのもそう。
魔力というのは言わば筋肉と同じで、どれだけ鍛えていてもずっと歩き続けていると足が痛みを訴え、軈ては歩くことが困難になるように、魔力も扱う事が困難になる。
今回重要なのは、彼らの戦いにはそんな事象を起こす力が使われていると言う事。
そして、男の魔力が歪なものであるということだ。
魔術やその極致たる魔法。それはあくまで世界を錯覚させ、騙す行いに過ぎない。故にいつかは正気を取り戻して姿を消す。
それは男がいた空間が、本来この世に無い空間が元のあるべき無へと戻ったように。
しかし、男の……男の右眼に宿る、魔法使い達が王眼と呼ぶその力はそれとは全く別の事象を齎す。
ここにあると錯覚させるのではなく、定義させるのだ。
魔術魔法はあくまで自然に干渉するもの。
魔術で石に仮初の命を吹き込むことは出来る。木々を操り城塞を作ることも出来る。
しかし、男のように無から完成された剣を生み出す事は出来ないし、御伽噺に語られる魔王のように完成された命を無尽に生み出したり、金眼の少女のように奇跡の代行を齎す果実は作れない。
それは本来の魔力の在り方とは異なるものだった。
故に、魔力の扱いに於いて誰よりも熟達している魔法使いの一人である老人でさえ、剣を消すのには幾許かの理解が必要だった。
もしこれが超超巨大な、国一つを飲み込むような炎の玉であったとしても、それが本来の魔力によって生み出されたものならば、錯覚を正気に戻すような――それこそ平手打ち一つで打ち消すような――感覚で炎の玉を消せたはずだ。
だが男の剣はそうでは無い。
この世にあると定義されたものを完全な無へと帰すには、男の歪な魔力によって構成された多くの定義を崩し壊す必要があった。
それは剣である。それは鉄である。それは刃である。それは芯ある棒である。それは斬るものである。それは王に従う従僕である。それは絶対遵守の契約である。それは翼無き翼を宿すものである。
見た目ただの剣であっても多くの定義を成された上でこの世にあるものとされた存在を、ただ数度杖を打ち合わせただけで以降触れずとも打ち消すことが出来る老人は、間違いなく人類の頂点たる魔法使いに相応しい実力と才能を備えていた。
「――――――――――――――」
「GAllllll―――」
そんな老人を支えるのは、老人の魔法によって喚び出された、この世ならざる獣達。
今男達が立っている場所をこの世と称すならば、朧な姿をしつつも力強さを宿す不可思議な獣達が棲う地はあの世。
本来交わる筈の無い地を繋ぎ、生物を呼び込む事は魔術では不可能な――魔法。
この世界に十二ある塔のうち一つ、レストンボンラの担い手となり、定命の摂理から外れた代価に老人が行使可能になった唯一の魔法。
それ以外の、幻境の獣達の扱う言葉を初めとした、顔も知らぬ先代の遺した多くのものを死に物狂いで継承した、叡智の魔法使い。
「おるァ! どうした不定形の獣達! 俺は此処に居るぞ! 不死の化け物は此処に居るぞ! ぐ……っ、腕を四五本捥いだ程度で……満足か!? 足を七八手折り、心臓を十つぶりゃべっ……程度で満足か!? その程度で俺は死なんぞ!」
それに相対するは、今し方頭を潰され、腕を捥がれ、下腹より下を食い千切られながら、獣の脳天に剣を突き刺して凄絶に笑う、不死の怪物。
その周囲には剣だけで無く、斧や槍の類いも宙を舞い、獣達を牽制したり時には殺したりしていた。
しかし、それでも男は家々の軒先に突き刺して回った剣を抜く事は無かった。
闘争に悦びながらも、未だ堕ちてはいない。
魔法使いはその事に安堵しつつも、男の異常な再生能力の高さに驚嘆を禁じ得なかった。
同胞達から、王眼の話は聞いていた。不死の黄金の話も聞いていた。
金眼の少女については、生憎と関わった二人の魔法使いがその記憶を記録する事が無かったおかげで分からないけれど、それでも多くの人々が死んだ事は確かだ。
抑えきれぬ衝動で破壊を繰り返して孤独の道を歩み、暫く落ち着いた時期があったものの、何かの拍子に一気に爆発。
当時未だ残っていた始まりの魔法使い六人の内三人を殺し、ついでに他の魔法使い三人も巻き込んでようやく止まった狂乱の眼。
多くの職人と鍛造の塔の主を犠牲にして生まれた、何者も扱えぬ、全てを吸い奪い喰らう不死殺しの剣を手に世界を救ったものの、一時は己が吸い奪ったもの共の意思に呑まれ、第二の母たる癒しの魔法使いを殺した勇気の眼。
そして獣を従え、創り操る獣の眼。
多くの絶望を前にしてもその手に持つ不死の黄金のせいで死ねず、今魔法使いの前で暴れている男と同じく他者の手による死に救済を求めた。
その果てが最強と謳われた者を含む九人の魔法使いを殺し、多くの種族を滅ぼした大虐殺。
全てが全て、最低でも一つの文明を破壊している。特に獣と狂乱の作り出した傷痕は数百年経った今でも色濃く残っていた。
「づぁあッ!」
そんなもの達と同じ力を得た男は今、獣に噛み付かれた腕を敢えて噛み千切らせることで振りほどくと、途端に再生した手に剣を生み出し、己の腕を捕食している獣に振り下ろした。
同時に突如として現れた数本の剣が獣へと突き刺り、この世ならざる地に棲うものは姿を消した。
「はっは……がァ! ぐっ、どら!」
男は轟速で迫った獣の体当たりを咄嗟に作り出した盾で受けた。
衝撃で打ち上げられた身体で獣の背を滑りながら盾を剣へと変化させて突き込み、それを支えに立ち上がる。
直後、急降下してきた朧な巨大鳥に鷲掴みにされて空を飛んだ。
剣を巨大な鎌へと変えて鳥の翼に添えると、鳥の足を大量の剣で攻撃して自分の身体を手放させ、落下の勢いと自重と腕の引き込みの三要素を以て鳥の翼を切断して近くの家屋へと不時着する。
「ぐぷ……っ、ぬぉぉぉおおお……ぜぇあラァ!!」
その際、丁度着地先に天を突かんと聳え倒れる柱があった為に、それなりの速度で落下した男の身体は柱に深く深く貫かれた。
だが男はそれで動きを止めることはなく、腕を漕いでより深く柱に突き刺さると、辿り着いた床を強く踏み締めて強引に柱を引き抜いた。
男は床からも身体からも勢い良く抜けた柱に体勢を崩されるのも厭わずに、背後に浮ぶ身の丈を超える柱を手早く掴み迫る獣へと二度三度振り下ろし、へし折れた柱で押し出すように獣へと投げ付けた。
「はぁ……はぁ……、ははっ、ふ……っ!」
柱で押し返された獣であるが、一般の家と同等かそれ以上ある巨躯はそれだけでは潰えずに再度突進を敢行する。
だが、男が手元に生み出した反りの入った片刃の剣に頭を逸らされ、差し出す形となった首へと折れた剣の代わりに生み出された槍を突き刺されて息絶えた。
「……これが狂戦士か」
巨躯が倒れ、姿を消すと同時に、地面に倒れて喘ぐ片翼の鳥の元へ向かう男を見て、魔法使いは呟いた。
男が本来好んでいた相手の力を利用して斬るという、技量を要する戦い方の面影は全くない。
一切の傷を厭わずに力任せに相手を叩き斬るという、技も工夫も無い荒々しいばかりの戦い。
「…………終わらせねば」
それは、男が己を高めようと研鑽を積んでいた姿を傍で見たからこその言葉だった。
狂い、忘れ、力のままに腕を振るう今の戦いは、見苦しいにも程がある。
「雷鐘の音よ鳴り渡れ」
本来魔術魔法の類いに詠唱は必要無い。
もしそれを唱えるとすれば、それは頭の中で構築するだけでは思考の指向性が足りず、敢えて口にする事で形を整える必要がある為だ。
「レストンボンラの主がスタリボルナクの一端を此処に代行す」
「それは魔法か! それも塔の力の一端か!」
男を中心とした空間に無数の剣が現れ、魔法使いを仕留めんと一心不乱に宙を駆ける。
「ぬぅ……っ!」
それは殆どが魔法使いに侍っていた大鳳の大翼によって遮られたが、一本だけが潜り抜けて魔法使いの腹を穿いた。
「―――――――――――――――――!!」
それでも魔法使いは詠唱を続け、終いには彼にしか分からぬ言葉を放ちながら、杖を地面に叩き付けた。
その瞬間、星々が瞬く事を忘れ、闇が天を覆う事を忘れ、冬至の夜に昼が灯った。
「が……ぁ――」
鳳が翼を解くと、魔法使いの目に入ったのは一本の柱として凝縮された夜に貫かれ、身体の隅々を灰と化して溶けゆく狂戦士の姿だった。
魔法使いは男の有り様と己の傷を見合わせ、本来話そうと思っていたこと全てを放棄し、伝えるべき事だけを言うことにした。
「ゼル。ゼルよ。戦士の在り方を尊ぶお主にならばこれは効こう。儂は勝者の持つ権利として、敗者たるお主にその名を背負い続けることを要求する。白の剣と在り続ける事を要求する。――名を忘れるな、親を忘れるな、友を忘れるな、過去を忘れるな。留まり探せ、再びの誓いを、己の有り様を。それを儂は、勝者として敗者たるゼル・リンフォードに要求する」
――達者でな、我が友よ。成人おめでとう。
その言葉を残し、魔法使いと幻境の獣達は姿を消した。
夜を取り戻し、瞬く事を思い出した星々が見守る村には、荒れた家屋と大量の剣。
そして、一本の黄金の短剣がその姿を晒していた。