暗澹たる死歪の森
馬が暴れ、鳥の囀りが消え、雑木林特有の乾き澄んだ空気が鬱屈としたものへと変貌する中、ゼルはリンと合わせていた額を離し、目を開いた。
「ここは……」
そこは薄らと光を放つ苔に覆われた、少し大きめな洞の中。
動物の気配の無いここには白骨化が進み、最早死臭すら放つことの無くなった死体と、同じく長い間放置されて朽ちて灰と化した食料等が転がっている。
「……ここも安全では無くなってしまいましたか。取り敢えず馬達を旦那様の所に預けに行っても?」
「あぁ」
哀愁を孕んだ声音で呟いたリンに頷きを返したゼルは、消えた三つの気配を背に洞にある唯一の穴に入って進み始めた。
そうして辿り着いた先。錆びて動かない厚めの鉄扉を強引に蹴破ると、ゼルは途端に漂い始めた腐臭に顔を顰めながら外へと這い出た。
「これは……?」
「枯樹人の成れ果てが作り上げた死の森ですよ」
枯れ朽ちた木々が捻れ歪み、生物の気配を感じられない暗い森を見て呆然と呟いたゼルに、戻って来たリンがそう返す。
「因みにそいつは」
「旦那様の様に特殊なものでも無いので、正気を失った挙句に討伐されてます。その際に樹人の種が百近く失われた」
種を失う、即ち樹人にとっての死。
ゼルは眼前の森の惨状を見て、リンの主と舌戦を繰り広げずにいればどうなっていたのかを察し、己の力不足を痛感した。
「……龍匠のいる鉱山は」
「北に進んだ先です。……気を付けて下さい、此処には」
「っ!」
リンの言葉の続きを待たずに、ゼルは腰に差した無銘の剣を引き抜いて頭上に掲げた。
直後に衝撃。
凄まじい速度で飛んで来た何かが剣に弾かれた。
「闇に潜むもの達が一杯暮らしてる」
「そうらしいな」
ゼルは剣を構えながら、周囲に蔓延する不穏な気配に意識を凝らして歩き出す。
遠目に見える森の闇を横切る、更なる闇。
木々が軋み、何かが唸る息遣い。
突如響く断末魔と咀嚼音。
肌に纒わり付く澱んだ空気。
「具体的には何がいる」
「言ったでしょう、死の森だと。要はそういうもの達です」
その言葉と同時、ゼルの背後を何かが横切った。
素早く振り返ったゼルは、眼に魔力を込めて探るが、彼の眼が彼の視界を越えて捉えるのは武具のみ。
結局は何も見つけられないで終わる。
「私が説明するよりも見た方が早い」
ゼルはその言葉にリンを居ないものとすることにし、自身の周りにいる何かを待ち構えるために、その場で腰を低く剣を構えて待ちの姿勢に入る。
「………………」
無数の枝枝が折り重なって作り出された天蓋の下は暗く、夜目が利くとはいえ、殆ど聴覚頼りにならざるを得ない状況。
その中で捉えるのは、夜目の利かない常人ならば気の狂うような陰惨な音。
そして獣や人のそれとは違う硬質で軽快な音。
「支援は要ります?」
「要らん」
「なら良かった。私は何も出来ませんので」
一瞬だけ捉えたその大きさは牛のよう。
しかし身から伸びる脚は明らかに歪で長く、胴も獣にしては地面に近い。
「っ!」
しゅると伸ばされるは、人の腕より太い鋼の糸。
ゼルはそれに剣を打ち合わせず身を捩った。
糸はゼルの目の前を過ぎると近場の木に着弾。
着弾した捻れ黒い枯れ木の面は、白く細かい無数の糸で白く染まっている。
「あれが死の森の使者だと?」
「いえ、掃除屋です」
二つ、三つ。
飛ばされる糸玉を避けたゼルは、捻れ木の上に鎮座する掃除屋へと目を向けた。
かちりと打ち合わせた顎をてらりと濡らし、地に落ちた唾液で地面を溶かすのは、小さな目を四つ侍らせる巨大な二つの目を持つ悍ましい顔の八脚の獣。
「あれの全身を覆っている毛は全て毒針なのでお気を付けて」
「効果は」
「捕食用です」
「なるほど」
つまり麻痺か倦怠感を齎すか、若しくは両方。
受けた所で治るのだから意味は無いが、それでも一度受けねば耐性が出来ない以上、ゼルは警戒も顕に大蜘蛛を見据えた。
「……来い」
その言葉に応じたわけではないが、大蜘蛛は鋭い爪を持つ前脚を高く掲げて顎を打ち鳴らすと、尻をゼルに向けて糸を複数打ち出した。
「何処だ!?」
それらを避けたゼルが先程まで大蜘蛛が居た木を見るも、そこには何も居ない。
「上です!」
「っ!」
リンの警告に顔を上げたゼルの視界に映るのは、大蜘蛛が顎から滴らせた溶解液が落ちてくる光景。
ゼルは足から力を抜き、倒れる様に横に転がって避ける。が、
「ぬぅ……!」
「大丈夫です?」
「暫くすれば治る。問題無い」
左肩に疼痛。避け損ねた溶解液の一部が肩に付着し、ゼルの骨を露出させる程に溶かしていく。
ゼルは溶解液で回復を拒まれて痛む肩を無視し、森に闇を齎している天蓋を這う大蜘蛛に目を向けた。
大蜘蛛は暫くの間ゼルを伺うように天蓋を徘徊すると、いきなりなんの予備動作も無しに飛び掛った。
「ふっ……!」
ゼルは多少驚きはしたものの、向かい来る大蜘蛛の前脚という刃を前に止まることは無い。
振り下ろされた爪をすれすれで躱すと脚の節に剣を叩き付けて切り落とし、慌てて退こうとした大蜘蛛に向けて剣を投げ付けた。
それは避けられる事無く大蜘蛛の頭に吸い込まれ、天蓋へ上がろうとしていた蜘蛛は身体を吊るした状態で脚を丸く縮めて動きを止めた。
「………………随分と呆気ないな」
ゼルは訝し気にそう言うが、その目は未だ鋭いままに大蜘蛛を見つめている。
虫が頭を潰しても死なないというのは有名な話だが、それがどの種の虫に当てはまるのか分からない。目の前の大蜘蛛がどちらか分からないのだ。
とはいえ、何もしないまま待つわけにも行かず、ゼルは慎重に剣に手をかけて引き抜き、何も動きを見せない蜘蛛に安堵と共に疑問を抱いた。
「多分逸ったんでしょう。ほら、人間に良く居るじゃないですか。功を焦ってやらかす方が」
そんなゼルの心境を察したリンの説明に、ゼルはそういうものかと頷くと、剣を振るって大蜘蛛の脳漿や酸の類いを落として鞘に仕舞った。
「こいつの糸は」
「素人が触るのはおすすめしませんよ」
「…………だろうな」
ゼルは取り敢えず目的の鉱山に向かうのが先決だと北に向けて歩き始めようとする……が。
背後の蜘蛛から形容し難い音が響いて、踏み出そうとした足を反転させた。
「……愚醜人」
全身を毒の毛で包んだ大蜘蛛をなんの躊躇いも無しに喰らうのは、人間よりも二回り三回り程大きな巨躯持つ灰色の巨人。
ゼルは最近出会った知恵あるものと違い、間抜けな面を晒して大蜘蛛の脚を蟹のように食べる愚醜人を前に、剣を抜かずに外套の内から銀貨を取り出した。
注がれた魔力に呼応して溶け合い、二本の短剣に生まれ変わった銀貨は、ゼルの傍の空中で動きを止めた。
「おや、武具の作成に触媒は必要ないのでは?」
「俺の剣は鉄でも鋼でも、ましてや銀でもない」
特定の材質で出来た剣を求めるなら、触媒として目的の鉱物を使うしかない。
龍匠を求めるのは、魔剣だけでなく自分の剣の解剖の為でもあるのだと、ゼルは言葉の内に含ませた。
大蜘蛛を捕食し続けている愚醜人に向けて、ゼルは中空に待機していた短剣を手に駆け出す。
「グォォオアアア!!!」
近付いて来るゼルを視界に収めた愚醜人は、自分の食事を邪魔せんとする敵に大蜘蛛の死骸を投げ付けた。
身体をより前傾に倒して蜘蛛を躱したゼルは、そのまま飛び上がり、身体を一転させて愚醜人の胸元に飛び蹴りを敢行する。
「ヴォア!?」
ゼルに向かって拳を放とうとしていた愚醜人は体幹を崩して倒れ掛かるが、伸ばしていた手でゼルの脚を掴み、振るい落とさんと腕を振るう。
そんな中、ゼルは右手の短剣の柄と刃を持ち替えると、愚醜人の醜い顔に狙いを定めて投げ付けた。
痛みによって手が開かれ、勢い良く投げ飛ばされたゼルは地面を少し転がると起き上がり、治らない傷口を不快そうに掻き毟る愚醜人に向けて走り出す。
「ぜァ!」
暴れる愚醜人の足元に向かいながら左手の短剣を右手に持ち替え、両膝裏を素早く切り付けて反転。
後ろに倒れ込む愚醜人に向けて飛び上がり、胸元に着地する。
そして、無防備な首筋へと短剣を深く突き入れて引き抜いた。
「お見事です」
「ふん。……来るぞ」
言いながらゼルは森の闇へと短剣を投擲。
「屍肉喰いですか」
一匹だけ目を短剣で潰されたその群れは、四足の獣。
「些か嗅ぎ付けるのが早いですけど、もしかして貴方の匂いだったり」
「黙れ」
変な事を口走るリンを黙らせ、ゼルは再び無銘の剣を構える。
汚れた斑模様の毛皮、潰れた鼻、剥き出しの牙。
見るに堪えない獣の十を越えた群れに対し、ゼルは触手狼達と戦った時と同じように応対する事に決めて動き出す。
だがそれは、ゼルにとっては非常に呆気なく、獣達にとっては非常に不幸なものであった。
飛び掛かれば首と脚と胴が分かたれ、噛み付けば足なら鎧に阻まれた直後に踏み潰され、腕なら逆に掴まれて投げ殺される。
それに、そもそもとしてそこまで近付けたもの自体が少なく、途中から数を増やした計二十近くの獣達が血潮を撒き散らして無惨に横たわっていた。
「逃げ……るなっ!」
「ギャウ!?」
そして、今し方身を翻して逃げようとした獣に手元に戻していた短剣を投げつけた事で、この場に再びの平穏が訪れた。
「随分と脆いな」
「そりゃあ、彼らはただの獣ですから」
「蜘蛛は」
「でかいだけの虫です」
「愚醜人」
「魔物です。あの再生力を知らないので?」
「知ってる。だから銀の剣を使った」
再生して闇雲に、我武者羅に戦うものの厄介さは知っていると言うゼルは、周囲に散乱する三種の生き物の死骸を改めて見た。
「こいつらはここの生態系ではどの位置だ?」
「下位ですね」
「伯級の愚醜人が下位か」
「人間と魔物の世界の違いですね。ここでは彼らは再生する食料としてしか見られていないはずです」
そして人間の世界では馬鹿の代表格。
巨躯や膂力はそこらの魔物も人間も敵わないというのに、それを活かす能が無いせいで哀れな程不遇であった。
それは兎も角、ゼルは絶え間なくやって来た獣達の死骸を前に、鉱山への道が厳しくなるものと察した。
これ程の暗所で戦った事が無く、初めて戦った大蜘蛛も相手が馬鹿をやらかさなければ未だに苦戦していただろう事は想像に難くない。
巨大であってもただの虫相手に、だ。
「…………」
ゼルは再び己の実力不足を痛感した。
「川は何処にある」
「? もしかしてさっきの」
「方角が分からんからだ。ここには星も花もない」
だが立ち止まっているわけにもいかない。
ゼルはリンを促し、川が流れている方向へと向かい始めた。




