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09 雨上がりの森




 森に入るまでは、旅は順調だった。

 商人や冒険者の往来を眺めながら、街道を歩くだけだった。

 道は、馬車が通れるくらいに平らだし、魔獣や害獣も出なかった。

 夜は、隊商の一団が比較的大きなキャンプを作っていたので、その近くで野宿をした。

 何かが起きれば隊商が騒がしくなり否が応でも目を覚ますだろうし、彼らは護衛を雇っているだろうから、もしかしたら危険な魔獣や害獣、盗賊などを駆除してくれるかもしれない。

 そう思っての判断だったが、特に何も起きることが無く、平和に次の朝を迎えることができた。


 ただ運が良かっただけかもしれないが、街道は比較的安全だった。


 現実逃避はこれくらいにしておいて。

 今、俺は森の中、道なき道を突き進んでいる。


 方位磁針の指し示す方向を確認して進んでいるから方向は合っているのだろうが、まさかこんなにも険しい道だとは思わなかった。

 森の中の道は険しいという話は聞いたが、実際それほどでもないのだろうと油断していた。


 急激な坂道に、俺の腰の高さくらいの植物が鬱蒼としている。

 それをかき分けながら、近くに生える木の枝が邪魔になったときはナイフで障害物を切り落として、進んでいく。

 薄暗い森の中、黄緑色の背の高い植物をただひたすらに掻き分けて進む。


 雨が降ったばかりなのか、地面が固まり切っておらず、踏ん張りがきかない。

 今みたいに、急な斜面を登るときは、足元を確認して、木の枝や丈夫な植物を手すりにして、気をつけて進まなければ、坂の下までずり落ちてしまう。


 結果、3度くらい坂道を転がってしまい、衣服は泥だらけになり、頬は地面に生える植物によって何か所か擦り切れている。

 水魔法を使って衣服を洗ってみたものの、布にしみ込んだ泥や汚れはあまりとれなかった。


「はぁ、はぁ……。ようやく、平地になったか……」


 ようやく、油断しても転げ落ちないところまで来た。

 だが、それも一時的な話だ。

 この道中を振り返る限り、まだこれからもこうした坂道があってもおかしくない。


 木々と背の高い草で覆われた大地は、視界が悪く、それほど遠くまで見通せない。

 それどころか、いくら歩いても景色がほとんど変わらないので、気が滅入る。


「それにしても、腹減ったな……」


 今日で、旅は三日目。

 既に、持ってきた食料は全て無くなってしまっていた。


 食料を数日分運ぶとなると、非常に嵩張る。

 水も同じように嵩張るのだが、俺の場合は魔法で水を作り出せるから、その問題は考えなくてもよい。

 ただし、食料を魔法で作り出すことは、できない。


 そこで俺は、少し多めに干し肉や乾パンを持って出発したのだが。


 昨日の夕方のことである。

 俺は今日と変わらず、森の中を歩いていた。

 昨日の朝から森の中に入っており、少し慣れてきて、気を抜いていた頃だったのかもしれない。

 もしくは、二日連続で歩き続けており、足腰に疲れが溜まっていたのかもしれない。


 俺は、坂道を転げ落ちた。

 転げ落ちた先は、泥沼だった。


 幸い、そこで魔獣に襲われることはなかったため命は助かったのだが、食べ物はそうではない。

 泥に漬かり、水で洗っても泥の味がする食べ物を、食べようとは思うだろうか。

 干し肉は泥を吸収して泥肉になり、乾パンは水洗いしようとして、水に溶けてなくなった。


 泥肉というのは、不味い。

 それはもう、一口食べただけで生理的に嫌悪感が来るくらい、不味い。


 しかも、森の中の沼は、魔獣が毒を盛っていて、獲物を弱らせ捕獲するという罠の場合があるという。

 そんな話を思い出したため、俺は泥肉を捨て、衣服と体を水魔法で念入りに洗った。


 そんなわけで、昨日の夕方以降、何も食べていない。

 そのためか、疲労がたまりやすく、また意識もどこかぼんやりとしている。

 何かを食べなければならないと思うが、森の中で俺が知っている食用植物はない。

 また、食肉となるような獣もいない。


 確かに、危険な魔物や害獣も今のところ出ていないが。

 もし、今ここで出会ったとなったら、俺にはもう戦うほどの集中力も体力もない。

 俺の身体が食べ物となり、食い散らされる結末となるだろう。


 昼間にはわずかにあった木漏れ日も、今やほとんど無くなってしまった。

 ということは、もうじき日が暮れ、夜がやってくる。

 昨日や一昨日ならここで寝床を探しに行くところだが、今日はそうすることはできない。


 なぜならば、今日の夜は、星が満ちるから。


 それまでに俺は精霊の泉に到着しなければならないのだ。

 予定では一日余る計算だったが、どうして今もなお辿り着いていないのか。


 たぶん、普段は地面が乾いているのだろう。

 だから、今ほど気をつけて進まなくてもよいし、坂道で長い距離を転げ落ちることもない。

 普段ならば、ここまで疲れることもないのだろう。


 しかし、雨が降った後のようで地面がぬかるんでおり、それが体力と気力を奪っているのだ。

 運が悪かったとしか言いようがない。


 ガサガサと音を立てて、背の高い植物や木の枝をかき分けて、とにかく前に進む。

 たまに方位磁針を確認して、方向を確かめ、また歩く。

 少しでも休んでしまえば、もう一度歩き出せる気はしなかった。

 歩を止めることなく、ただ惰性のように、足元に注意しながら歩き続けていた。


 のどが渇いたら、歩きながら水魔法でのどを潤す。

 ポケットから、泥で汚れた方位磁針を出して方向を確認しつつ、歩き続ける。

 永遠と同じ景色に見守られながら、ただただ歩く。


「俺には、無理だったか……」


 太陽が隠れ、森の中がだんだんと暗くなってくる。

 しかし、まだ、泉のようなものは見えない。

 それどころか、ここ数時間、水辺でさえも見つかっていない。


 これ以上暗くなったら、何も見えなくなる。

 方位磁針で方角の確認もできないし、足元の安全も確保できない。

 だからといって、ろくに安全も確保せずに、適当なところで野宿をした場合、獣の餌になる可能性は高い。

 今までに一度もそういった類の獣や魔物は見ていないが、明らかに人間のものでは無い足跡や木の幹の擦り切れ具合、動物の糞を見れば、森のどこかに獣や魔物がいることは明らかである。


「もう、諦めるしかないか……」


 ルクトとの約束はあるが、その約束も果たせそうにない。

 それならば、ここで無駄死にするよりは、街に戻ってまた冒険者見習いとして活動するほうがよいのではないか。

 冒険者への昇格ももうすぐだろうし、そうすれば見える世界も何か変わるかもしれない。


……俺も、変わったんだな。

 貧民街にいた頃は、「ただ死ぬ時間を待つためだけに生きている」とか本気で思っていたが、今では無理をしてでも生きようとしている。

 どちらが正しいのかは、俺には分からない。

 けれど、俺は、今のこの感性を大事にすることにして、真っ暗になる前に寝床を探すことにする。


 そこで初めて立ち止まって、足元から視線を外し、周囲を見渡した。

 近くに安全そうな場所はなかったので、遠くに、何か、洞窟のような安全な寝床はないか――


「……あっ。あれは……もしかして…………」


 俺は、気付いたら走り出していた。

 もはや、空腹と疲労とか、そんなものは吹き飛んでしまっていた。


 だって、あれは。

 遠くの方に、夕焼けの残滓で赤く煌めいていた、あれは。


 きっと、精霊の泉だから。





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